長雨につき ※題字をクリックすると本文が出ます 少年の言い訳 望んでいるようだったので与えればいらぬと言う。ならばと放って置けばどこか拗ねた風にじっとこちらの様子を伺っている。まるで幼子か、酷く言えば人に怯えた野良犬か。久秀はそういう相手の姿を見て、一体いつ決定打を与えてやったものかと、思案するのがここ最近の日課になっている。 雨が止まぬ。淀んだ空気、畳から普段よりも立ち上るむっとした匂いの中、久秀は一人雁紙に筆を乗せていた。元は祐筆である久秀は、感状であれ催促状であれ、手紙と名のつくものであれば大概自分で書く。ゆえ、こうして一人筆に墨を湿らす時間は他の大名よりはよほど長い。 近頃はそこに邪魔が入る。例の如くか、襖がからりと開けられた。少年と呼ぶには成長しきっている体格の青年は、不躾に室内へ足を踏み入れる。だが久秀は眉を顰めることすらしなかった。元々、自由にさせてあるのだ。 「また、書いてる」 「この長雨では外にも出られぬのでね」 こうして仕事を一つ一つ片付けるのが一番有意義だと、付け加えた。慶次は、ふん、と鼻を鳴らしたきり久秀の横にごろりと寝そべった。その様子をちらりと横目に見たのみで、久秀はすぐにまたさらさらと筆を動かす。 特別理由があるというのではなく久秀は慶次を自由にしている。彼から訪れるのであれば門は開き、また帰るとても袖を引きはしない。城をうろつかれても咎めはしない。疑り深さは久秀の秀でた所なれど、慶次相手では詮索するだけ無益と知っている。 慶次も自由にされたままこうして久秀の横に寝そべりもする。その感覚ばかりは、いまいちよくわからない所がある。過去、久秀が慶次に何をしたか、慶次から何を奪ったか、忘れたと一言で済ませるような生易しい理屈は通用せぬはずであった。 「字、綺麗だな」 問う様に子供の屈託の無さが重なる。そうして寝そべっていては文の内容も見えるわけではあるまいに、それは単に慶次が普段から思っている感想のようであった。 「遠い日はこれで身を立てたものだよ」 「まだ、大名でもない頃か」 頷いて見せると、緩慢な動きで慶次は久秀の袖をくいと引いた。なんだね、と訊ねる声が優しげになったことを久秀は己で自覚し、それが決して真の優しさではないことも常の如く感じていた。 憐れみに似ている。 「雨が止まないから、」 慶次の目は、この城に来るとき、輝いていたためしがない。声にも覇気を終ぞ感じない。それも久秀は緩やかに受諾して何も言わぬ。その態度こそは本物だろうと思われる。 止まないから、どうした。と、促してやった。 「まだ、ここにいる」 もちろん久秀は自由にさせる。少年は病みかけているのかもしれなかった。 哀れな花 同じ日の晩、いつも通りの時間に寝所に入ろうと小姓を先立てて廊下を渡れば内庭に傘を差して慶次が突っ立っていた。見過ごすこともできたがそうはせずに、小姓へ言付けて呼びに行かせた。最早春も暮れなれば空気も汗ばむほどではあるが、やはり夜は山城ということもあり雨が降れば多少は冷える。と言って慶次の身体を心配したわけでもなかった。 子供のする無益な行動は常に相手に見られているという安心感から来ている。それと同じだと思った。慶次は小姓が声をかけると一度だけ久秀を振り向いた。小姓を傘に入れてやって一緒にこちらへ来て、そのまま与えられている部屋に戻るように見えた。 「慶次」 少しは雨に濡れた相手は振り向きなどしなかった。なんだい、と声だけが返ってくる。 「あそこで何をしていた」 小姓の持つ手燭は久秀と慶次との間でゆらゆら揺れてはいるが決して風のためというのではなく単に小姓の生来からの手の震えによるものらしく、空気は動いていなかった。慶次は目だけをこちらに向けるようにして振り向いた。 「花を踏んでた」 手前の庭には外来の花を一面に植えてある。確かめずとも、言葉の通り一部は目の前の青年によって踏み潰されたことであろう。久秀は可笑しくなって口を歪めた。 「無意味な殺生とは、残酷極まりないな」 「花が哀れになった」 この城の中でぎゅうぎゅうに敷き詰められて愛でられて、と、子供の理屈は言う。久秀は音を立てるでもなく慶次との距離を詰めると、その肩へ掴みかかるようにして、力のままに、慶次を振り向かせた。子供は目を丸くしている。恐怖が滲んでいたのがまた滑稽でならなかった。 「結構」 「な、……、」 「そこまでの自由を、許したつもりはないがね。…踏み折った分だけ、償うといい。さあ、」 来なさい、と言うと手をゆっくりと離し、あとは振り返りさっきのように小姓を先立てて、寝所へ向かった。当然慶次は逃げることもできる。その足を反対に向け、走り出し、そのまま山を転げ落ちるように去ることも。雨に濡れることさえ気にしないのならば、いつでもできる。 足音はどうやら久秀についてきた。 哲学の犬 久秀は幾度も動物を飼ってみては対象を愛でたのと同じ手で殺している。殺して庭に埋める。殺さぬのは、己に懐かぬ用心深い老犬のみであった。久秀は、その老犬がいつまでも気の抜けない疑心暗鬼な眼差しで一応の主である己を見上げてくること、その双眸が微かにでも不審な何かを捉えたのなら、たちまち吼えまくって世話するものを辟易とさせること、それが密かに楽しみであった。ただし彼の老犬はずっと紐にくくられて小屋で落ち込んでいる。そうしておかねば逃げ出すのだから仕方がなかった。 これを慶次に説明してみせたのなら、慶次は始終不審な顔をしていた。 「逃がしてやればいいじゃないか」 と至極もっともなことを言う。 「もう逃がしてもいいのだけれどね」 こう返せばもっとわからないという顔をした。わかるように説明する手間を、久秀は惜しいとは思わなかった。この日は雨は大粒で、屋根と言わず地面と言わず、ぽちゃんぽちゃんとずっとうるさかった。 「どうせもうこのまま息絶えるしかないことはわかっている」 「だから、」 「だから野に帰せ、というのは君の傲慢だ。一体こんなによぼよぼに年老いた犬一匹、野生の厳しさの中を幾許か生きていけると思うのかね」 「 ……懐かないとわかっていて飼い殺したのは、アンタじゃないか」 「論の摩り替えは君の得意技だな。……では、こう言ったらどうかね。私は僅かでも、この犬が私と心通わせる気が起きると、信じていた、と」 「嘘だ」 「無論、そうだ。私は犬畜生相手に情云々と言う人間ではない。わかっているなら、結果だけを見たまえ。私がこの犬を僅かばかりでも愛でよう気にもなるのは、決して私に屈しないと、知っているからだよ」 「どういうこと」 「君と同じだということだ」 慶次は言葉を聞くと、老犬を見て、久秀を見て、また老犬を見ては、目やにの溜まった眼孔へ、瞬きを繰り返していた。俺も飼い殺すのか、という小さな問いが聞き取れた。久秀はそれに喉だけで笑いやって、老犬に肉を放り投げてやった。必ず人のいないところでしか餌を食べぬ老犬はちらりと肉を見やってまた油断無く目の前の二人の男へ唸った。 「君を紐で括るつもりはない」 「………」 「自惚れていい。君は特別だ」 「……とくべつ?」 「そう」 小鳥は手に乗るようになればそのまま握りつぶすこともできる。触れられもしない老犬はどうああがいても座らせることはできない。慶次はその両方の要素を兼ね備えている上、適度に自分を知らなかった。 久秀はどれほど慶次がわからない顔をしても、そのことだけは説明してやらなかった。 老人と雨 いつしか雨が止んだので慶次に与えた部屋を覗いてみると、まだそこでぼんやりしている子供がいることに苦笑を禁じ得なかった。 「嘆かわしいことに暇ができてしまった。お相手願えるかね」 言えば慶次はどうやらまどろんでいたらしく、目だけで頷かれた。室内に入ると、そこはもう慶次の匂いが染み付いていた。そこに己が炊き込んでいる香が移り混じって新しい匂いになっている。 「松永さん」 「なにか」 「なんで、俺を抱く」 唐突な問いを、笑いやってしばし反芻すればそれは酷く原始的な問題であった。抱いたのは久秀かもしれぬがそれを受け入れたのは慶次である。ならば言葉に詰るような意図があったことは、ただただ不思議と言わねばならぬ。 「どういう答えを望むかね」 「…………」 「私は何も特別なことはしていない。君が望むので、与えたまでのことだ。……実に親切だろう?」 雨は止んだよ、帰らないのかね、と続けてやれば慶次は恨みがましく久秀を睨んだ。からりと晴れた空にはいざと言わんばかりに太陽が煌々と輝き、その日差しはこの部屋にも入ってきては畳を照らしていた。光も届かぬ部屋の一番奥に慶次はただ座り込んでいる。玩具にもおままごとにもうんざりだ、という顔を晒して隠さぬ。しゃり、と足裏で畳が擦れるのを感じる。 「……ああ、無論、君は否定するだろうがね」 頬に手を伸ばせば、それは反射なのか染み付いた恐怖なのか、とにかくその反応がいちいち興を呼び起こすのだが慶次はびくりと過剰に震える。ひたりと手を這わす。するりと頤まで下りて、首を撫ぜた。息を詰めるのが文字通り手に取るようにわかる。ちがう、と言ったらしい。 「違わないだろう。……変わらないな、君は」 変わらず、私は君が大好きだよ、と口を歪めながら言った。首を絞める。ぽつり、室内であるにもかかわらず、長く続いた雨を彷彿とさせる感触がした。久秀はますます笑みを深めて、そのままずるずると慶次を追いやって背を床に着けさせてしまうと、今更抵抗して己を退かそうとする手を、半ば乱暴に床へ縫い付けた。 「アンタ、」 「……何か言いたいことでも?」 「………さいあく、だ……」 子供は泣いている。ただ自然に涙が溢れて止まらないといった風に、ぼろぼろと泣いている。 それは、ありがとう、と礼を言った。涙を舐め取ると、雨のような味がする。 |