雑記ログ集その2

サスダテ美容師妄想その1

 そいつは幸村の従兄弟なのだそうだ。従兄弟で、美容師で、一応この近くに店を構えているのだそうだ。政宗は、
「前々から話に出していた、佐助でござる」
 と、時代錯誤な口調でその美容師、猿飛佐助を紹介され、その自分より五つか六つは年上であろう男が、どうも変な目で自分を見ているので、顔を顰めた。なんというか、漁師さんが、油とゴミで汚れてしまった海を見て、「一体だれがこんな海にしてしまったんだ…!」と嘆く様子にちょっと似ている。というか実際、あまり間違っていなかった。
 佐助は初対面にも関わらず、政宗の頭の両脇をがっしり掴み、髪をわさわさ触ったかと思うと、
「あんた、どんなお手入れしてんの…!?」
 と、嘆いた。
 その顔があまりに真剣だったので、正直政宗は引いた。シャンプーは!?リンスは!?どこのメーカー!?どこで髪切ってるの!?…うるせーよ、なんだお前、といつも他を突っぱねる調子で言えなかったのは、佐助のその声音に、微塵も裏表が感じられなかったからだ。よくある、美容師がいたいけで初心な思春期の子供に向かって、あらあら、そんなんじゃもてないわよ、なんて揶揄するのとは、わけが違う。
 どうやら本気で驚愕され、落胆されているらしい。それはそれで腹が立つのだが。
「どんな、て……リンスは、してねえ、けど…」
「信じらんない!!ちょっと、今時間ある!?俺の店近くだから、来て」
「来て、て、おい…」
 腹は立つし、なにが楽しくて年上の男に手を引っつかまれ、仲良く競歩しなければならないのか。多分無駄だろうとは知りつつも、大学の友人というか腐れ縁の幸村に若干助けを求める目を向けたが、やはり無駄だった。
「佐助は世話焼きだからな。我慢されよ、政宗殿。なに、すぐ良くなる」
 この変態美容師に身を任せて、なにが良くなるって?
 幸村は訳知り顔でにこにこしているし、佐助は必死な様子で政宗を引っ張るしで、結局まんまと佐助の店に連れ込まれてしまった。全面ガラス張りの、よくあるこじゃれた美容院だ。どうやら今日は定休日らしい。
(……ていうかそもそも、なんで幸村はこいつを俺に紹介したんだ)
 ふとした疑問を思いながらも、気付いたらしっかり回転椅子に座らされている。手際よくクロスを着せられ、おい、とか待て、とか呟いているうちにずるずるとシャンプーチェアに引き摺られる。
 が、さすがに佐助が眼帯に手をかけた時、全身が硬直した。思い切り振り払うと、佐助がきょとんとして政宗を見つめている。これだから美容師というのが嫌いなのだ。人に髪を切らせるとなると、どうしたって眼帯をはずした目を見せることになる。
 別に理由を聞いてくるような野暮はないし、出来る限り見ないフリをしてくれることもわかっている。それでも嫌なものは嫌なのだから仕方がない。仕方がないから自分で髪に手を入れ、そのうち髪への執着もなくなり、手入れがずさんになっていたことは、認める。佐助が嘆いたのはそのことだろう。
 しかし、だからなんだと言うのだ。知り合いの紹介だからと言って、佐助に触れさせる義務は無い。
 幸村をちらりと見る。別段ハラハラもしていないのが気に障る。佐助を見る。呆然としていたのが、ようやく我を取り戻したらしい。
「……それが、やなんだ?」
「ほっとけ。つーかアンタ頭おかしいんじゃねェのか。初対面の人間相手に」
「……まあねえ。でも、だって、あんまりもったいないから」
 もったいない?
「だって、あんたのその髪、ちゃんとシャンプーしてトリートメントして、毛先整えて、栄養与えてやれば、今の数倍かっこよくなるんだもん。もったいない。…ていうかソレ、髪への冒涜。お天道様が許しても、俺が許さないよ、そんな宝の持ち腐れ。ねえ、真田の旦那?だから俺呼んだんでしょ?」
 うむ、と頷きが返ってくる。……最初からそのつもりだったらしい。そういえば、いつもやたらめったら幸村の髪はふわふわしている。佐助が手入れしてやっているのだろうか。
 それでも政宗が渋い顔をしていると、突然佐助は両手を合わせ、頭を下げた。
「つーか、お願い!一回でいいから、あんたの髪、俺に手ェ入れさせて。それで気に入らなかったら、好きにしていいから。ね?」
「……………」
 そこまで懇願されたことなど、政宗の十九年間の人生では、一度もなかった。
 潰れた目は見られたくない。しかし目の前で真剣に頭を下げてくる男がいる。……そこまでするほどの価値が、俺の髪にあるってのか?政宗は口を歪めた。なんだってんだ、こいつ。
 しぶしぶ眼帯を取り、自分からシャンプーチェアに腰を下ろした政宗に、佐助はどこかしてやったりの笑みを浮かべた。選択を間違えただろうかと思う頃には、佐助の細い指が頭皮を適度な力でごしごしやっていた。
 めちゃくちゃ気持ちがよくて、「じゃ、こっち移動してね」と言われて、もう少しシャンプーしてて欲しかったなんて思ったのは、多分一生内緒だ。良かったでござろう?黙れ。
 その後、政宗の髪のケアの一切を佐助が任されるようになり、友人の元親から「大分マシになったよなぁ、お前の髪」とか言われるのは、まだもう少し先である。

サスダテ美容師妄想その2

 講義が午前中で終り、さて今日は家でゆっくりしようと地下鉄に乗り、一駅で降り、階段を上がると地上で暇人が待っていた。別に約束していたわけではない。暇人は政宗の姿を見つけると、ぱっと笑顔を咲かせた。
 その笑顔に騙されている気がしてならない。
 しかし、もう毎週のことになったこの光景をわかっていて、律儀に「さあ家に帰ろう」とかなんとか言いつつしっかり定刻に来てしまう自分も相当なのではないかと、政宗は最近気がついている。こういうのを絆されたとかなんとか、世間では言うのではないだろうか。そうだとしても、
(まあタダだし、な……)
 と思ってしまう政宗は大学生らしくそれなりに金欠だった。そこに無料奉仕を申し出る人材がいるのなら、利用しない手はあるまい。
「あんたさえ嫌じゃなかったら、俺、休みの時手入れしてあげるからさ。ど?あ、シャンプーとかリンスとか、あとコレ、水がいらないトリートメントだったりするんだけど、持って帰ってね。自分でもちゃんと手入れしてね。あ、もちろん無料だよ、俺が頼んでるんだし。それでさ、あんた、毎週月曜、暇かな」
 というのが、最初に暇人もとい佐助に出会い、なんだかよくわからないうちに髪の世話をされてしまった後にべらべら言われたことだった。月曜日が佐助の経営する美容院の定休日らしく、まあ暇だからこそ幸村に連れられその時その場所にいたわけで、ここで「暇じゃない」と否定しておけば多少運命は違ってきたのかもしれないが、政宗は結局こくりと頷いて、それを全ての問いの肯定だと判断したらしい佐助は、嬉しそうに笑ったわけだった。
 その横で、腐れ縁の幸村が、変ににやついていたのを政宗は忘れない。はめられたのだ。
 さてそれにしても、変な形で始まった付き合いが、もう随分長くなっていた。当時大学一年だった政宗にもう後輩ができている。これまで大体シャンプーだけしてもらってきたのだが、肝心の髪の長さの方も、最初よりずっと伸びている。だからそろそろ来るだろう、と思っていた。
 案の定、適当に挨拶を交わし、当たり前のように佐助の店へ向かう道中、
「そろそろきちんと切ろっか、髪」
 と、軽く髪を触られながら言われた。実に美容師らしいことだ。
 これまで少し伸びては「切る?」と聞かれ、ノーと答え、そんな調子が数ヶ月続き、さすがにもう切ってもいいだろうか、と思った矢先に、「きちんと切ろっか」である。いろいろ心得ているらしい。
 だから今日は、まあ別にいいかと、いつもとは違う返事をしてやろうかと思った。思っている間にもあれやこれやと構想を述べてくる佐助を適当にあしらっていると、いつの間にかCLOSEDの札がかかった店に着き、政宗はふと思いついた。
「なあ、色入れてみてえんだけど」
 別になんとなくだ。色を入れるなんてちっとも珍しいことではないが、政宗はこれまで髪に無頓着だったせいもあり、一度も染めたことがなかった。幸村は地毛というには明るい茶色をしているが、染めてはいないという。だが佐助の髪を見やると、幸村とは比較にならないくらい明るいオレンジ色をしている。
 だからというわけでもないのだが、染めてもいいかもしれないと、ちらと思ったのだ。
 が、返って来た反応は、予想の斜め上を、太陽系から追い出された冥王星の軌道ぐらいはずれていた。
「何言ってんの!?だめだめだめ!!絶対だめ!!!そんなのお父さん許さない!!!」
 誰がお父さん?と問わせないくらいの勢いがあった。初対面にして、いきなり政宗の髪への無頓着さに、「信じらんない!!」と叫んだのと、同じくらいの剣幕である。そんなに悪いことを言ったつもりのない政宗は、さすがにむっとした。
「なにがだめなんだよ」
「とにかくダメ!あんたの髪は染めなくってもいーの!カットはきちんとするしさ、ほら座って」
 いつものように回転椅子へ促されても、政宗は動かなかった。オレンジ色の髪が目につく。政宗くん?(正直こう呼ばれるのは文字通りむず痒くて仕方がないので、呼び捨てろというのだが佐助は一向に改めない)と呼ばれても、低い沸点による沸騰が、さらに悪化するだけだった。
 最初から感じていたことではあったが、要するに佐助は、政宗の髪が大事なのであって、政宗の意向はどうでもいいのだ、と認識するに、充分な佐助の態度であった。
「……おい」
「……へ」
 さすがにまずい空気を悟った佐助の間抜けな声が室内に響いた。
「アンタとも長い付き合いだが、なんか勘違いしてるんじゃねェか?……俺は一度だって、アンタに髪をどうこうしてくれと、頼んだ覚えはねえ。人形遊びなら、他でやれよ」
「ま、政宗くん……?えーっと…ほら、あのさ……気に障ったんならあやまるよー…」
 なんだその笑顔は。政宗は、適当な微笑みも声も言葉も、急に煩わしくなり、顔を顰めた。
 まあ別に最初からわかってたことなんだがな。こいつが、俺の髪にしか興味無いなんてことは。……だったら代用品だっていくらでもあるだろ?素直で大人しい、従順なペットでも相手にするがいいさと、政宗の思考はめまぐるしくここまで及んだ。
「今日はもういい。帰る」
「えっ!?」
 そのまま不機嫌に店を後にしたはいいが、家に帰ってから、政宗は一つミスに気が付いた。
 佐助には電話番号を教えていたのだった。
 そんなわけで、さっきからひっきりなしに電話のベルが鳴り続け、喧しい事この上なく、とうとう政宗は受話器をはずしてしまった。苛立ちは倍増である。
 しかし聡い政宗のことなので、もうそろそろ自分の思考に対して冷静にはなり始めていた。さっきの理屈の通りだとして自分が怒りを感じているなら、それは、佐助の「特別」になりたいだとか、きちんと一人の人間としてみて欲しいだとか、そういう同姓に抱くにしてはちょっと気持ち悪い感情が働いているのだ。
 それがわかるだけに、さらに苛立ちは五倍増しで、そんな時に、つい、鋏に目がいったのが悪かった。
 その後、風呂場に政宗の黒髪が無残に散開し、翌日友人の元親と幸村を唖然とさせたのは言うまでもない。特に幸村は、無言で携帯を取り出すと、これまで見たこともない恐ろしい形相(電話越しだから怖い顔をしたって相手には伝わりっこないのだが)で、佐助を叱った。
 それで済むかと思えば、その幸村に無理矢理引っ張られて、政宗は再び美容院を訪れることになってしまった。幸村の何が怖いかというと、ちっとも話を聞かないところである。だってあいつがな、と政宗が言い出しても、
「しばしその口、閉じておられよ」
 とジロリと睨んだきりで、にべもない。睨んだ先には、適当に切り揃えてしまった政宗の髪がある。
 まったくどいつもこいつも、一体俺の髪のなにがそんなにいいんだ、とかえって不思議なくらいであった。
 普段の温和さを失った幸村も幸村で珍しかったが、政宗の髪の有様を見た佐助の反応も、また珍しかった。まるでオモチャが壊れてしまって拗ねた子供というか、いや、奥さんの浮気現場を目撃した夫というべきか、とにかくそんな感じだった。そして開口一番、
「へたくそ!」
 と言ったきり、そっぽを向いて奥へ引っ込もうとした。その首根っこを捕まえたのはやはり幸村である。
「佐助のせいであろう」
 と言われて、うっ、と言葉を詰まらせたあたり、そのような自覚はあるらしい。
 それからはじまったのは、電話でさんざ言い尽くしたはずの、幸村の説教であった。あれほど俺が頼みにしたのに、機嫌を損ねさせるとは、なんたることか、云々。そんなの俺は知ったこっちゃねえけどな、と政宗は思う。当事者でないものにそこまで怒られると、かえって傍目八目になれるらしい。
 なんというかバカバカしい。
 反省!と命令された猿のごとくしゅんとしてしまった佐助(なぜか正座させられている)が、哀れっぽく政宗を見た。同情をひかせる顔だ。怒らせてしまったことを後悔しているのか、それともその副作用として大事にしてきた髪を切られてしまったことが悲しいのか。
 政宗は腕を組んで鼻を鳴らし、妙な構図を眺めた。
 まあ向こうも向こうで怒っているらしいが、自分のことでそこまで悄然とされて、気分が良くないわけではない。あれだけ佐助が執心してきた髪を自分で切ってしまって、ふん、ざまあみろとも思った。
 さらに政宗には気持ちいいことに、説教が一段落つくと、佐助はふらふら立ち上がり、
「……どうしたら許してくれる?」
 と、さながら聖母に救いを求める信者のように尋ねてきた。そうだなあ、と考えるフリをする。
「二度と俺をイラつかせるな」
 かくして政宗の髪にカラーが入ったかといえば、もとの黒髪を維持していた(短く切ってしまった髪をまともにするため、その後佐助がさらにカットしたので、大分短髪になってはいたが)。余談ではあるが、幸村が本気で反対したのも理由の一つだったりする。
「あのね、言っとくけど、髪が綺麗なだけの人だったら、世の中にごまんといるんだからね」
 と、この事件後さりげなく佐助に言われて、政宗がどう思ったのかはわからない。
「そりゃ、仕方ねえな」
 とかなんとか言って、煙にまいたということである。

美容師妄想ある日の電話のおまけ

「あー、もしもし?おはようございますー。えーっと、伊達さんのお宅ですか?猿飛ですけど」
「ああ。…おはようってお前今何時だと思ってんだ」
「あははー。時計が正しければ午後八時かなー。どおもーこんばんはー」
「…なんだアンタは」
「いやね、たいした用じゃないんだけど。ほら、ちょっとシャンプーの減り具合が気になってさ。大丈夫?足りてる?なくなったらすぐ俺んとこ来てよ?」
「……あのな、毎週行ってやってんだからなくなったらすぐに言うだろ普通」
「まあまあそう言わず。あ、てことは来週も大丈夫な感じ?来てくれる?伊達くんて基本月曜暇なんだよね?授業は午前だけとかそんな感じ?」
「……アンタは」
「ん?」
「いや、アンタは電話だといつも以上によく喋るな」
「……え、だって電話で沈黙されるの嫌じゃない?ほら、あれだって。放送事故みたいな。ラジオでさ、沈黙が続いちゃいけないってルールあんじゃん。あんな感じ」
「沈黙が怖いってか」
「怖いっていうか」
「正直うざい」
「え」



「佐助」
「あ、……放送事故」
「冗談の通じねえ野郎だな」
「え?」
「うざかったらさっさと切ってる」
「……わあ、やさしい」
「で?本当はなんの用なんだよ」
「今日白髪のお客さんが来た」
「白髪?別に珍しく……」
「まだ三十台くらいなのによ。見れば結構整った顔してて、まあちょっと笑顔が怪しい感じなんだけど、その見事な白髪をさ、腰よりまだ下までだーっと伸ばして、うちの店来て、こう言うわけ。『髪とは煩わしいものですね……ふふふ、放っておいたらこんなにも伸びてしまいました……』……俺の心境わかる?」
「帰ってもらいたい」
「そう」
「で?」
「そういうわけにもいかず。きっちりお仕事しましたよ。……そいつ男だったんだけどさ。カットの間ずーっと女性誌読んでにこにこしてるわけ。アッチ系?って思わないでもなかったけど話しかける勇気がなくてですね」
「アンタみたいなお喋りがか」
「俺みたいなお喋りが。で、まあ、きちんと切ってあげて、なにごともなくその人……明智さんっていうんだけど、帰っていったんだけど、」
「明智?」
「明智」
「お前それ」
「心当たりでも?」
「ありまくりだ。ていうか幸村から聞いてんじゃねえのか」
「うすらぼんやりね。授業取ってたりする?」
「まさしく月曜日に顔合わせてる。……明智教授か、やっかいなの客にしちまったな」
「そんなに?」
「いや、まあ下手に手ェ出さなきゃ無害なんだが……お前、うっかり鋏で手とか切るなよ。きっと暴れだす」
「………了解」
「俺は嫌いじゃねえんだがな。大学は変なのが集ってきておもしろい……」
「へえ」
「……」
「ん?」
「……用事ってこれかよ」
「わははー。おもしろかった?」
「……電話代無駄にした」
「まあまあ。で?大学は変なのが集ってくるんだ?もしかして真田の旦那もその一人に入ってる?」
「あー……あいつはまた別の意味で変だからな…あ、そうだアンタに伝言」
「伝言?誰から?」
「大学のダチ。俺の髪見て、『いい腕だな』だそうだぜ?よかったな」
「あっははー、そりゃあ美容師冥利に尽きるねー。どうも。よかったらその子も連れてきなよ」
「嫌だね」
「わっ、営業妨害」
「黙れよ」
「なんで嫌なのー」
「なんでもだよ」
「あららガキンチョがいますよ」
「うるせえ」
「えー、まあいいや。その髪が認められたってことでしょ?うんうん、頑張った甲斐があったよ」
「おお、頑張れな。……そろそろ切るぜ?」
「あ、うん。じゃあまた来週ね!おやすみー」

「……切れよ」
「や、俺様相手が切るのを待つ派なの職業柄」
「職業柄?……ああ、一応接客業だったな。んだよ、気分悪い」
「なんで。今まで伊達ちゃんが先に切ってたじゃん」
「……そうだったか?もういい。アンタ先に切れ」
「えー」
「えーじゃねえ」
「もーわかったわかった。じゃね。おやすみ」
「おやすみ」

……

「……なんつー無益な電話をかけてくんだあいつは。クソが」

キッズ・リターン風サスダテパロ冬編・その1

 佐助は走っていた。頭がくらくらする、足元はおぼつかない。それでも走った。
 鼻水が出ても気にしない。
 今走らないのなら、もうこの足は意味がないとすら思うのだから。

 暑いなあ暑いなあと思っていたら、涼しさという過程をすっ飛ばして、いきなり寒くなっていた。
 年々短くなる秋のスパンには正直うんざりするものの、もしかして俺のほんの些細な行動が秋の情緒を奪っているのかなあと思うと、ちょっぴり罪悪感を感じ、感じつつ佐助はガンガン暖房をオンにしていた。ついでに早々に出した炬燵に潜り込むという至福つきである。
 一応言い訳はある。佐助は風邪を引いていた。そして家には誰もいない。旅行好きな両親を持ったのが不運だった。暖房機器のない自室で眠るのは寒いしご飯だって作らなければならない。となると居間で暇をつぶすのが一番いい、だが体を冷やしてはならない。
 じゃあ暖房付けるしかないよねというわけだ。誰にも文句は言わせない。それくらい今日は寒かった。
 天気予報のお姉さんも、関東地方本日の最高気温は六度ですとかとち狂ったことを言っていた。だからたまには暖かさという名の幸せを、地球の環境を犠牲に得たっていいのだ。
 別に好きで風邪を引いたわけでもないのだ。なぜなら今日は約束があった。随分前から楽しみにしていた、休日を利用したお出掛けだったのだ。しかし風邪で三十七度八分も出てしまえばさすがに「ごめんね」メールを打つ他ない。
 お出掛けはいつものメンツで、買い物に行く予定だった。いつものメンツとはすなわち幸村と政宗である。
 なぜ、いつから「いつも」のメンツに政宗が加わるようになってしまったのか、佐助にはよくわからない。なんにせよ幸村という能天気かつ熱血な、政宗をライバル認定する激しい幼馴染がいなければあり得なかった組み合わせであることだけは間違いない。
 毎日登下校を共にしている(帰りは自転車の後ろに乗せてやっている)のだから、成り行き上そうなってしまったとしか説明がつかない。
 食えない性格をしている同級生を苦手だなあと思いつつ、なんだかんだで一年である。
 本気で嫌いな相手と一年もげらげら笑って過ごせるもんではないので、結局周りからしてみれば「仲良し三人組」と認定されても仕方がないのだろう。
 佐助はそんなことをつらつら考えつつ五つ目のみかんを頬張った。炬燵にミカン、ミカンに炬燵、これは和歌で縁語として認定すべきだ。
 幸村に「ごめんね」メールを打って早二時間経つ。待ち合わせが十一時で、風邪でだるい体を無理矢理起こしたのが十時半、これはとても行けないと思って泣く泣くメールを送ったのが十時四十五分。つまり現在十二時四十五分。
「……返事来ないなあ……」
 未だ携帯を自由に扱う事のできない幸村だが、一応短いメールなら問題なく打てるはずだ。それがまだ返ってこないというのは、単に了解した上での無視なのかもしれないが、律義者の幸村にしては珍しいことだ。
 別に政宗と二人仲良く買い物を満喫しているのならそれでいいのだが、なんだかちょっと嫌な予感がした。
 うんともスンとも言わない携帯をしばし眺め、佐助はおもむろに電話をかけた。
 数コールしても出ない。粘り強く待つと、そのうちとんでもなくしわがれた声が出た。
「……旦那ァ?」
「………………あ、佐助か………い、急ぎ……急ぎ連絡、を………げほ」
 げほげほげほげほ、と盛大に咳き込む相手がどんな状態であるか、言われずともわかる。
「なに、旦那も風邪引いたの!?大丈夫!?俺よりひどそうなんですけど」
「あ………いや、か、風邪などでは断じてないぞ……ただ少し背筋が凍るように冷たく顔はやたら熱く汗が流れ立つと頭がくらくらして吐き気を催すだけで」
「旦那、俺あんたをバカだバカだと思ってたけど自分が風邪引いてることにも気付かないほどのバカだとは思わなかった」
 なにを言う!と叫ぼうとしたらしい幸村はまた聞いているこちらが痛々しい顔になるほど咳き込んだ。
「あーあ、これじゃあせっかくの計画台無しじゃない。てかなんか言いかけた?」
「…………あ、そのことだ、あ、ま、待て、佐助……よく、聞け……」

 しわがれた声で幸村はこう説明した。
 昨日、携帯ごと水風呂に浸かってしまった。なんだって?と佐助が聞き返せばこうだ。
「俺はいつも、風呂掃除の役目を担っているので……げほげほ、昨日もいつもの通り、げほ、掃除していたのだ。それが、急に、足元がふらついて……げほげほ、なんたる、修行不足……お館様が知ったらどうおっしゃられるか(中略)……で、頭から水風呂に入ってしまい、その時携帯をポケットに入れていたのが、げほげほ、よくなかった……まだ使えるようだったが、めもりーが全部消えてしまったらしく、げほげほ、どこへも連絡できなくなってしまった。しかし困ることもあるまいと思っていたら今朝、げほげほげほっ!まるで、体が言う事を聞かぬのだ……げほっ、立ち上がることすらままならぬ次第で、げほ、なんとも情けない……げほげほ。実は、目覚めたのがつい先刻のことで、佐助からのめーるも、げほ、たった今確認したところなのだ……だからな、佐助、い、急ぎ連絡を……政宗殿が……」

 待ちぼうけなのだ。

 佐助は気付くと走り出していた。
 今日は寒い。幸村がうっかり重度の風邪を引いてしまうくらい寒い。とりあえず幸村には急いで家族を呼ぶよう指示し、携帯を切った。意味がないと思いつつメモリー一覧を見て、佐助はチッと舌打ちした。
 政宗と出会ってほぼ一年。今日ほどアドレスを聞いておかなかったことを後悔した日はない。
 なぜ聞かなかったのか?これまで不思議とその必要がなかった上、政宗も聞いてこなかったから。ただそれだけだ。だがそれは自分の意地でしかなかったのだと、佐助は思う。
 あれだけ眩しい笑顔をする人だとわかっていながら、それに惹かれる自分に知らないふりをした。
「ああもう俺のバカ…」
 自転車へ跨り、ペダルを漕ぎ出した。一応コートだけは羽織ったが、あまり寒さはしのげない。それでも構うものか。
 政宗がまだ待っている証拠はどこにもない。もしかしたらもう愛想を尽かして帰っているかもしれない。政宗ならおおいにありうる。近くの喫茶店で暖を取っている可能性もある。
 それでも、もし、まだ寒空の下待っていたとしたら、そんな政宗がちらりと頭に浮んだら、佐助は我知らず、足を動かさずにはいられなかった。
 頭がくらくらする、足元はおぼつかない。それでも走った。鼻水が出ても気にしない。
 もし待っていたら、一番に、冷え切ってしまった手を取ろうと思った。佐助の手は熱で暖かいから、それでプラスマイナス丁度いいはずだ。そして、そしたら、暖房と炬燵のダブルパンチをお見舞いしてやろう。そしてミカンを食わしてやろう。そして少し遅めのお昼ご飯を作ってもらおう。
 そして俺からアドレスを聞こう。
 佐助は走った。

キッズ・リターン風パロサスダテ冬編・その2

 何度目だかわからないが政宗は時計台を見上げた。
 駅前から徒歩十分ほどの広場は大通りに面しており、そのど真ん中に設置されているどことなくデザイナーズセンスの、曲線が印象的な銀時計は老若男女問わずよく待ち合わせに利用される。政宗が今日した約束もその例に漏れなかった。日曜なだけあって人出は多い。しかし、さっきからどれだけ目を凝らしても、そこに知った姿を確認することはできなかった。
 まずったと思う。
 確かにこの待ち合わせ場所と時間で間違いはなかったはずだと自分の記憶を信じてはいるものの、すでに時計は十一時三十分を指している。幸村と佐助、どちらか一方だけでも来ればいいのに、二人してまったく訪れる気配がないというのはどういうことだろう。
 政宗は決して気の長い方ではない。割りに喧嘩っ早い性格をしている。事実、どちらでもいいからやって来た方には、
(ツラに一発、腹に一発、最後に足払い)
 を食らわせてやろうと物騒なことを考えている。
 空は冬将軍の到来を告げるが如く灰色に覆われていた。ぶるりと体を震わせる。寒いのは最初からわかりきっていたから厚着をしてきたしマフラー、手袋まで装備しているが、それで寒さを防げるのだったらこの世で暖房はそれほど重宝されない。
 要するにたまらなく寒い。風が服の繊維を意地悪く通りすぎ、政宗は無意識に両手で抱き込むようにして体を小さくさせた。
 ふいと横を見やれば、すぐそこに喫茶店が立ち並ぶ。風の冷たさに耐えかね、駆け込むようにして店へ入る人々も目立つ。政宗もいっそそのうちの一人になろうかと思ったが、踏みとどまった。
 時計を確認する。まだ待ち人は来ない。

 気付くと時計台の下に座り込んでいた。少しうとうとしていたのかもしれない。うっすら瞼を開く。
 とても眠い。昨夜、急な用事で実家へ戻り、その日のうちにまた関東へ戻るという強行軍をこなしたせいだ。バカをした、と思う。こんな買い物に行くなんて程度の約束、断ってしまえば今頃布団の中でぬくぬくと惰眠を貪っていられたことだろう。一年前の、中学の頃の政宗ならそうしただろう。
 なにが無理をしてまで幸村や佐助との約束を守らせようとしているのか、政宗にはうっすらわかる。なにが自分を駆り立てるのか、自分でわからないほど政宗はバカではないつもりだった。
(結局、楽しいんだろうな…。あいつらといんのが)
 鼻の頭が痛い。膝に顔を埋め、冷たさを凌ごうとした。
 幸村の笑えるほど純粋な明るさもバカさも、佐助の苦笑も自分や幸村の言動に慌て呆れる様も、もうすっかり政宗の生活の背景として溶け込んでいる。なにをしてなにを喋っているのだか、よくは覚えていないがとりあえず頬が痛くなるくらいゲラゲラ笑うこともしばしばだし、ふとした暇があれば二人の傍へ行こうとする自分をよく見つける。これを人がなんというのか、政宗は知っている。
 腹は立つが、だから待っているのだ。
「さっさと来やがれ……」
 呟いた。かなり時間が経った気がして、久し振りに時計台を見上げると、十三時をとうに過ぎていた。うとうとしていただけのつもりが、かなり眠り込んでしまっていたらしい。
 眠ってしまったのは迂闊だった。さすがにもう待とうという気は起きない。というより、待っても無駄だと思った。なにかやむにやまれぬ事情でもあったに違いないし、それを知ることができなかったのは自分のミスだ。
 ぼんやりする頭を軽く叩きつつ、白い息を吐いて政宗は待ち合わせの人々の間を縫って、その場を立ち去ろうとした。が、足を止めた。

「伊達ェー!伊達!?おーい!」

 と、自分の名字を連呼しながらあたりをすごい勢いできょろきょろしている自転車を引いた男が現れたからだ。この時政宗に起こった変化はめまぐるしい。わっと顔に血が上り、その瞬間どうにもおかしくなって笑いが込み上げ、しかしここが公共の場であるという認識が働き、なおかつ赤い顔をして焦っている男――佐助を、もうすこし眺めたいという願望が湧き起こった。
 政宗はその場に貼り付けられたように突っ立っていた。息を切らした佐助は、周りからの好奇の一瞥も気にせず、少し泣きそうな顔をしながら政宗を探していた。
 佐助はしらみつぶしに、政宗はただ佐助一人のみを見るうち、とうとう二人は目が合った。その瞬間の佐助の表情といったらない。母親を見つけた子供のような安堵と、少しばかりの怒りだろうか、眉間を寄せている。
 なんと言ってやろうか、政宗は咄嗟に浮ばなかった。かわりに自転車を引いたままたっと駆け出した佐助がすごい剣幕で、
「あんたなあ!携帯忘れたでしょ!?」
「おお」
 なにがおお、だよ!!とすかさず突っ込まれる。政宗としては、よくわかったじゃねえか、という意味だったのだが、どうにも怒られる道理はわからない。むしろ怒られてしかるべきは佐助の方だろう。
(……こっちは二時間待ちぼうけだぜ?)
 それを思い出した政宗はすぐさま反撃に出ようとしたのだが、またうっかりできなかった。
 佐助が突然、手を握りこんできたのである。しかも政宗が手袋をしているとわかると、わざわざ脱がして、改めて右手をぎゅうと掴んだ。
「冷たい!」
「……当たり前だろうが、何時間待ったと思って……お前、熱くねえ?」
「熱あるから」
「は?……ああ、だから来なかったのか。幸村はどうした?」
「熱が」
「……お前らそろいもそろってバカか」
「そりゃ俺らもバカだけど、あんたも大概大バカだよ。なんでこんな時に限って携帯忘れるの!?来る途中、おかしいと思ったんだよ、なんで真田の旦那が自分で連絡しなかったのかさ…旦那のバカは携帯のメモリー消しちゃったんだけどさ、向こうから連絡あればそれで通じるのに、旦那は俺に連絡してくれって言ったんだよ。つまりあんたからも旦那に連絡はなかったってわけで、じゃあ携帯忘れてたってことしかありえないじゃん。よかったねえ俺が来て?」
 嫌味ったらしい言い草だが、言っていることとやっていることが間逆だ。佐助は右手を握ったまま、ちっとも離そうとしない。政宗はそちらと人目が気になって仕方なく、佐助の言葉もわりとどうでもよかった。
 要するにこの待ちぼうけはとんだ偶然が重なった結果のものだったということだ。
「おい……」
「ごめん」
「……」
「もうちょっとしっかりしてればよかった」
「いや、もういい。全員に落ち度があったってことだろ?こういう日もあらあな…別に、責めやしねえから、……おい、佐助、いい加減気持ち悪ィ」
「気持ち悪いとか言うな。あったかいでしょーが」
「……あったかいというよりは熱い」
 佐助は拗ねたように政宗を睨むと、ぐいと政宗を引っ張り、右手を繋いだまま、空いている手で自転車を引きつつ、もときた道をとことこ歩き出した。
「どこ行くんだよ」
「俺んち」
「なんでだ」
「俺様もうふらふらなの。別に用事ないんでしょ。もう俺の中ではこの後のプランは出来上がってるから、あんたはそれに従えよ。あのね、まず暖房と炬燵がダブルパンチでそしたらミカンです」
「なんの話だ」
 ふと横顔に目をやって気付いたが、近くで見ると佐助の顔は赤いだけでなく、やはりどことなく普通ではない。病人の顔だった。新たな不思議が湧く。
「お前、なんでそうまでして……」
 ふん、と佐助は憮然として鼻を鳴らした。熱のせいなのか、大通りを男二人手を繋いで歩くという寒い状況が、今の佐助には苦にならないらしい。
「そんなくだらないことこと聞くなら俺も聞いちゃうよ。なんで短気なあんたが、二時間以上も俺らを待ってたのさ」
「………………あー、そりゃ、お前らが」
 少しの逡巡の後、好きだからだろ、と政宗がぽつりと小さく呟くと、佐助はぴたりと足を止め、しかしすぐにまた歩き出した。
「……佐助?おい、さーすーけー」
「うっさい」
「なんだ、照れてんのか。別にお前にだけ言ってんじゃねえぞー。幸村も入ってんだからな。お前『ら』だぜ、『ら』」
「うっさい!言われなくてもそんなことわかってるよ!つかあんたの発言のがよっぽど気持ち悪いじゃねえか!もお黙ってろよ!」
 ぶはっ、と今度は思い切り政宗は噴出した。ケラケラ笑う政宗を、佐助は忌々しげに見ている。佐助の熱が移ってだいぶ暖かくなった右手を握る力が、心なしか強くなった。どうやら家に着くまで離す気がないらしい。
「で?お前が熱で辛い体をおしてこの俺を迎えに来た理由は?」
「うっさい」
 あんたが嫌いなんだよ、と佐助は言った。
 そりゃあ奇妙な話もあったもんだ。
 また笑ってやると、政宗ははじめて佐助の手を握り返した。