雑記ログ集その5 雑多

長雨につきのモチーフ妄想松慶

 雨はいつまでも止まなかった。雨が止まない事を理由に居座るのもそろそろ限界だと思っていた。追い出されるのには慣れている。今更傷つきなどしない。慶次はひたすら、雨を眺めた。
「何か見えるものかね」
 そろりと音も立てずに渡り廊をやってきた城の主は、何も言わずにすれ違うのかと思えば、本当にすれ違ってしまう直前で、こんなことを言った。軒の先からぽたぽたと間断なく大きな雨粒が落ちては石の上に落ちている。数寄をこらした庭。珍しい花が生えている。その名前は以前目の前の人から教えてもらったはずだが、忘れてしまった。
 見えるものといえばそれだけである。久秀にとってはなんの情趣も起きぬであろう。
「アンタが見ておもしろいものはなにも」
 と、だから答えた。すると喉の奥で小さく、笑ったような音がした。久秀はよく、喉だけで笑う。何か言葉を続けるのかと思えば、そうして笑ったきり、久秀は暫くそこに佇んでいた。慶次からは、顔すら見えぬ。ただ傍に気配がある。
 慶次は組んだ腕を欄干に乗せ、その上に顔を乗せて雨を眺めている。湿った髪からは耐え切れず水滴が滴っている。梅雨を思わせるような雨であった。じっとりと、肌が水気を帯びて気持ちのいいものではない。
 やがて口を開いたのはどうせ久秀である。
「雨ばかりで気が病むか」
「……誰の、…俺の?」
「それ以外、誰が。ずっと眺めている」
 ずっと、とはいつからいつまでのことを指したものか。慶次は確かに淀んではいる頭をゆっくりと働かせた。最初からならば、それを久秀も、ずっと見ていたことになる。そんなことはあるまい。
 前髪から水滴一つ、音も立てずに腕へ落ちる。腕はもうたっぷり濡れてしまっている。軒はあるが、水が跳ねるのだ。
「病んじゃいない。ずっと、考えてる」
「……ほう。お聞かせ願おうか、少年の哲学を」
 低く甘い声が問えば、慶次は目まで腕に埋めた。下手をすると、会話よりも、雨の音の方が大きい。それでもどちらも動こうとはせぬ。面倒なのか、それが好みなのか、慶次にはよくわからない。ただ久秀は雨が嫌いではないのだろう。降ればこそ晴れ、と思うのだろう。
「どうして俺を追い出さない」
「……これはこれは。雨の向こうに、そんなものを見ていたか。不毛なことだ」
 真面目に取り合う様子ではない。が、かえって慶次にはそれが有難かった。ふと顔を上げ、
「もう、理由がない」
 と言って、はじめて久秀を見た。久秀はほとんど慶次の真後ろにいて、廊下の先を眺めているように見える。その目だけが、ちらりと慶次を見た。口元が緩く笑み、続けろ、と言いたげである。
「理由が、……理由が、ないんだ」
 久秀は、ふん、と呟くと、しばし慶次の言葉を飲み込んで、胃に落とすかのような間を持った。その時間が、慶次にはたまらなく長く、長く、この雨のように、止まぬものかと思った。
「欲しいなら、くれてやろうか」
 紡がれた言葉は容易には理解できぬ。が、一つ眉が顰められる頃には、それが、酷く優しい言葉だったのだと、判ぜられた。そしてまたそれは、決して飲んではならぬものだと。久秀に与えられた理由で以って、目の前の相手の傍にいることは結局、毒でしかなかった。ため、
「いやだ」
 と、反射的に口をついて出た。果たして予期した反応だったものか。また喉が鳴る。
「ならば強請るような顔はしないことだ。……坊や、とまでは呼ばれたくないだろう」
 簡単だよ、と続く。手が慶次の前髪へ、水を含んだ前髪へ伸びる。まるで愛撫するようにつるりと指が髪を這い、また離れていく。慶次はじっと耐えていた。
「一言私が、欲しい、と言えば」
「……ああ」
 死んでも、言うな、と言って慶次はその場を離れた。また後ろで久秀は笑っているだろう。
 一言久秀が欲しいと言えば、慶次は永劫彼の傍にいられることを知っている。

中途半端童話的松慶

 穏やかな山々に囲まれた小さな村で、好奇心旺盛な少年がまたひとつ疑問をおばさんに投げかけていました。
「ねえねえまつねえちゃん、どうして雨は降るんだい」
 いつも慶次の質問は突拍子です。おおかた昨日の大雨が、今日はすっかりなかったみたいに晴れているのが、不思議だったのでしょうが。
 まつは賢いおばでしたから、ちゃんと真面目に答えました。
「雨がふらねば、お野菜が育ちませぬ」
「ふうん、でも、それだけじゃないだろ?野菜のために雨が降るなんて、てんでばからしいや」
 まつは気を悪くして、こう言いました。
「それ以上に大切なことなど、この村にはありませんよ。なんなら、山の奥に住んでいるだんじょうさんにでも尋ねてごらんなさい。それで満足なさい」
「えっ、あの偏屈じじいに。いやだよ、おれ、あの人嫌いなんだ」
 わっと逃げるようにして慶次は家を飛び出しました。空は雲一つなく、人の小ささを笑っているように両手を広げています。

「おい坊主、そんなに急いでどこへ行く」
 野良仕事をしながらこう話しかけてきたのは伊達に仕えている小十郎さんです。
 小十郎さんはいつも畑でおいしいお野菜を育てはみんなにお裾分けしていて、慶次も小十郎さんのお野菜が大好きでした。
 一見無愛想で怖そうな顔をした小十郎さんが、本当は情け深くて優しいことを慶次は知っています。
「当てなんかないさ。風がこっちに向いてるからその通りに走ってるだけだよ。それにできたら、偏屈じじいから遠ざかりたいんだ」
 小十郎さんは鍬を杖みたいにして体を寄っかからせながら、首を傾げました。
「松永だんじょうのことか。フン、そいつはいい心がけだ。あんな野郎に近づいたら胸を悪くするぜ」
 気を付けて遊べよ、と付け加えると小十郎さんはまた鍬を振り下ろして土を耕しはじめました。小十郎さんも、松永だんじょうが好きではないのです。でもその理由を慶次は知りませんでした。
「ねえ、小十郎さん。松永さんはどうしてみんなに嫌われてるんだい」
 ふと不思議になって慶次はこう訊ねました。慶次は一度松永さんに会いに行った時、挨拶をしなかったせいで頬をぶたれ、そのせいで松永さんが大嫌いだったのですが、小十郎さんはきっと挨拶くらいしっかりするだろうと思ったのです。小十郎さんの返事は、慶次にとって意外なものでした。
「みんなかどうかは知らねえな。少なくともおれは、奴が人の大事なものを奪おうとするから、関わらないようにしてるんだ。人間の価値は、決して一様じゃねえ。それはお前が決めるんだ。それが大人だということだ、坊主」
 小十郎さんの話は少し慶次には難しくて、よくわからなかったのですが、子供だと思われたくなかったので曖昧に頷きました。
 その後慶次は友達の夢吉と野を転げ回って遊びましたが、いつものように時間や嫌なことを忘れることはできませんでした。なぜだか小十郎さんの言葉がずっと頭の中をぐるぐるして、ちっとも晴れやかではありません。
「なあ、夢吉。明日、松永さんに、どうして雨が降るのか聞きに行こうかと思うんだけど…」
 少し迷いを見せて慶次は夢吉に語りかけました。夢吉は小猿ですが、いつも慶次の話をちゃんと聞いてくれるのです。けれど今日は、どこか不安げに小首を傾げては、ずっと慶次の前髪と戯れているだけでした。
「だって、おれ、本当は松永さんのこと、なにも知りはしないんだよ」
 呟くと、野原をざっと風が撫でていきました。

 次の日のどんよりした雲が立ち込める朝、慶次はいつもより早く目覚めて、パンをひとかけらポケットに入れるとおじさんとおばさんに黙ってこっそり家を出ました。なぜなら、普段松永さんを嫌っている風な慶次が、いきなり松永さんを訪ねるのは、ひどくばつが悪かったからです。
 ギイ、と鳴る建て付けの悪いドアを潜り抜ける時も、細心の注意を払いました。
 松永さんの家に行くには、まず北の野原を駆け抜けて、トゲトゲした木々に覆われた寂しい森の入り口へ行き、物好きな狩人が通る獣道を見つけたら、それを見失わないようにずっと歩いていきます。そうするとやがて視界が開けて、山の一番奥の草で覆われた空き地に出ます。空き地の真ん中には、黒いお屋敷が一軒あるぎりで、そこが松永さんの住まいでした。屋敷の周りには、雑草にまじって誰も見たことがないような花がたくさん植えてあります。松永さんはその花から貴重な薬やお香を作っていて、たまに村人がそれを求めてやって来るのですが、今日はどうやらそんなお客はいないようでした。
 夢吉が肩でキイキイ鳴いては慶次の耳を引っ張るので、うんざりして道の途中で食べたパンの残りカスを押し付けました。
「あんまりうるさくすると、きっとあの人機嫌を悪くするよ。そしたらまたおれを殴るよ」
 夢吉は慶次の肩から飛び降りて、そのまま屋敷の裏手へ行ってしまいました。慌てて追おうとしましたが、夢吉はずっと素早くてすぐに見失ってしまいました。ちぇっと舌打ちをした慶次でしたが、唯一の友達が離れてしまうと途端に昨日の夜布団の中で頑張って育てた勇気がしぼんで、かわりに怖い気持ちがむくむくと顔を出しました。

暗いのが怖い慶次妄想

 その子供は、どうやら暗闇が怖いらしい。ふとした事からその事実を知ると、興味から試さずにはいられなかった。その手を掴み、城で最も光の入り込まない最奥の小部屋へ、子供を押し込めた。
「………、………、」
 いつもなにかと小うるさいその子供は、暗闇がその身を包むと、途端に黙ってしまった。なにか発しようとはしていたようだけれど。
「……っ、だ、」
 出せ、と続くものだったろうと思う。
「出ればいいだろう」
 部屋には外から鍵を掛けたが。私は子供と小部屋にいて、私だけが内側から開けられる鍵を持っていた。ただの戯れのように。
 子供はふるえていた。とても一人ではいられないのだと言うように、はたまた、温もりさえ持つのならそこにあるのが化け物でも構わぬというように、見えない視界で私の袖を探り出し、握った。
「震えているな」
「……まつなが、…」
「なぜ、恐怖する」
「しらない、…出せ、……出して、」
「なにか、幻覚を見るわけでもあるまい。いい大人が、」
 みっともない真似は止めなさい。そう続けると、袖を握る手が布越しににも腕が痛むくらい、食い込んできた。
私は笑みを深くする。こちらからとて見えぬ子供の顔がどのようにゆがんでいるか、恐らくはこんなときでも酷くまっすぐな眼はしているのだろうが、予想すると、袖を掴むその腕を逆に掴み取り、引き剥がそうとした。
 強い抵抗がますます滑稽に、私を残忍な気持ちにさせた。より強い力で無理やり、子供から遠ざかる。
「あ、……っ、……。……、」
「…どうした、少年」
 私は何を期待したろう。結局は、栓のないことをただ興のまま、無作為に探り出したに過ぎはしないのだが、そのぬるま湯のような戯れ言が、ざらりと胸を優しく撫でて心地よい。
「……だして、暗いのは、いや、だ」
「気の毒に。だが出すことはできないな」
「……、………」
「私はいつでも出て行けるがね」
「いや、だ」
「なにが、いやだ。はっきりしなさい」
「……ここに、」
 ここにいてくれないのはいやだ。なんとかして子供の大きく成熟した手は、私を探ろうとしているものらしい。
「……いやはや、馬鹿らしい芝居だな」
 言いながら私はそれでも、再び少年の腕が伸びてきたのならそれを振り払う甘美を繰り返すのだろう。

佐助の皮を食べる幸村

「皮が破れておるぞ」
 渡り廊を歩いていると後ろからかかった声は主のものであった。
 本当に徐に言うものだから、佐助はつい反応が遅れた。ぱちりと一度目を瞬かせた後にはもう幸村の手が右手の人差し指の付け根に触れ、確かに破れていたらしい皮を摘まんで――摘まんだかと思うとピッという感覚的な音が耳に聞こえ破られていた。
 ちょっと、痛いじゃないの、と抗議を上げ腕を引けば幸村は佐助から引き剥がした指の皮を親指と人差し指で器用に挟んだまま、それをまじまじと眺めていた。何んとも無しに不気味で、そんな主の顔を覗き込むと、幸村は手にした皮を口元に持って行き、佐助がぎょっとして、あっ、と矢張り声を上げる間もなく、どうやら舌の上で転がしているらしい、頬と顎をもごもご動かして、しばらくすると喉を上下させ、飲み込んでしまったようである。
「なにしてんの」
「…は?見ての通りだ」
「いやいやいや。あのね、何食べてんの」
 至極真っ当な窘めのはずである。が、この主は少々子供臭い仕草で首を傾げ、本気でわからないといった態を作り、何か食べて悪い道理でもあったか、と至極のんびり言った。佐助は額に手を当て少々考えなければならなかったが、それもすぐのことで、取り直した。
「あのね、俺様の手の皮が破れてて、それを千切るまでは、…まあ、いいですよ。本当はよくないけど。んで、なんでその千切った皮、今食べちゃったの」
「独眼竜が」
 なぜそこで独眼竜が出てくるのか、佐助はあからさまに眉根を寄せて訝ったが、幸村がもとよりそんなことに頓着するような主ではないのは、誰よりも佐助が一番よく知っている。
「…独眼竜が、なに」
「俺の事を原始的だと言っていた」
「げん、…え?なに?」
「ゲンシテキだと」
 だから別にいいだろう、どうせすぐに治るのだ、その程度。と付け加え、もう何も言うことは無いとでも言うのか、それとも単にこの会話に興味を無くしたというのか、幸村は佐助を追い抜くと、多少常人よりは大きな音を立てて廊下をずんずん先へ行ってしまった。
 薄皮剥かれ、仄かに桃色に色を変えたその部分を見下ろした。己の一部が幸村の胃の中へ落ちていくのか、と思考が辿り着いた時に「ゲンシテキ」の意味がほんの僅か解せられた。
「……おお、こわ……」
 そんなものをいちいち気付かせなくてもいいだろうに、佐助はまた一つ独眼竜を嫌う理由を見つけた。

不毛な会話松慶

 この人に話せることなど何も無い、と思っていた。自分の好きな花、自分の好きな色、自分の好きな声、自分の好きな形、自分の好きな季節、どれも、誰にでも、いつでも気軽に言えるような事が、この人にはきっと通じないのだろうと、そう思っていた。それは確信ではなく、願望だったのだと、慶次はようやく悟った。そして今まで自分の願望が現実であった事など、片手で数えたらたった…つ指を折れたのみで、酷く悲しい気分になってしまう前に、思い出して、忘れた。幾日ぶりにか、久秀の顔を見てやろうと廊下を渡っている最中のことである。
「随分と久しいね」
「七日も経っていやしないだろ」
 売り言葉に買い言葉のような遣り取りが最初になったのは、久秀の殊勝に聞こえる声音が慶次に背中を向けながら発せられたものだからであろう。存外不機嫌に聞こえたのだろう、久秀はクと喉を鳴らしてそれでも慶次を向きはしない。
「相変わらず素直ではいられないようだな」
「そんな道理無い」
「私に道理を持ちだすのが愚かだとも一体いつ悟るのかね」
 そんなものは壊すよ、と続ける、何時もの静かで低い、何処か話し相手の勘所を擽るような甘い声が、慶次には、少しく震えているように感じられた。ゆっくりと息を吐き出し、庭を見るようにして、文机に向かう久秀とは距離を置いて背中を合わせるように、胡坐を掻いた。
「なにかあったの、」
「なにも」
「嘘」
「何故そう思う」
「…、なんであんたは理由ばっかり求めるんだ」
「他には何も無いからだろうね」
 間断無く続いた短い会話の応酬が、そこでぴたりと止んだ。慶次は久秀を振り向いて訝しげな視線を向けていたが、依然久秀は慶次を見ようとはしない。まるでそこに慶次がいることを無視しているような、あるいは拒絶しているような、どちらにせよ居心地悪いことこの上無いにも関わらず、慶次は縫い止められたように久秀を見ていた。
 ふざけてるのかっ!と、怒鳴り立てて出て行くことは何時ものように容易かった。何日も、久秀の城にいながら久秀と顔を合わせようとしなかったのも、結局はそんな理由だった。
「なにが、無いって?」
「君にも無いだろう」
「俺に難しい話をしないでくれよ。ちゃんと言葉にして言ってくれなくちゃ、あんたのことがわからない」
「なにがわかりたい?」
 短い久秀の言葉の外から、慶次は酷く強く乱暴に、全てがくだらないものなのだと刻印を押された上、その誤解が解きようも無いものだと、つけ離されたような気がした。私の行動の逐一、心情の端から端までを教えて差上げれば君の好奇は満たされるのかね、そんなつもりは無いよ、と。
 大人に教えを乞うた子供が生意気だと見捨てられることに似ている。
「私には何も無いね。少なく、とも」
 君がずっと顔を見せなかった理由も、生半に知りたがる理由も、
「君の自尊心に付き合っている暇とて無いのだよ、生憎ね」
 慶次は、ややもとすると泣きだす寸前のような顔をしていたのかもしれなかった。
 互いのことを知りたがったところで、己の胸の内を明かす気がなければ何も進みはしないのだと、ようやく、自分の愚かと、傲慢と、久秀の幼さに気付いたからだった。