突然女の乳房に触れたくなってわざわざ色街に買いに行ったのは、忍びとしての佐助を考えても、男としての佐助を考えても、まったく珍しいとしか言いようがなかった。しかも妙に興奮して燃えてしまったのだから、本当に不思議なことだった。
 色事に疎い幸村でさえ、佐助のいわゆるそのテの欲は薄いのだろうという認識を持っていたほどだったから、ぼさぼさの頭で帰ってきて、問われれば素直に女を買ったと答えた、一番身近な忍びにどんな顔をしたらよいのかわからなかった。
 もしや俺のせいか、と思ったのは、先日幸村がこれも珍しいことに佐助を怒ったからだった。
「違う違う、あのね、いくらなんでも、そんなほっそい神経持ち合わせてませんって」
 だるそうに肩を鳴らして答える佐助に幸村は尚も問いかけた。ではなぜだ。
 なぜと言われても、答えを知りたいのはむしろ佐助の方なのである。女を買うなんて、これまでしたことがない。せずに済んでいたのだし、ある意味買うことを軽蔑すらしていた。
 忍びが性欲を持て余すということもありえない。尋常の男よりはかなり自制ができるのだし、持て余したとしてもきちんと自分で処理ができるよう里で教わっている。その辺は企業秘密だとして、幸村に怒られたことだって、多少堪えたとしてもそれが理由になどなり得ない。
 しかし、部下の私事に対して干渉を好まない幸村がなぜだなぜだと問い詰めるくらいには、珍しい出来事なのである。佐助もそれをわかって、別に突き放したりはせずに、むしろ一緒になって首を捻った。
「臭いな」
「……臭いって言う?白粉でしょ…。今から落としてくるよ」
 朝からざばざば水を浴びた。冷たいのが気持ちいいのは、まだ二日酔いが残っているからである。独眼竜との飲み会から四日は経ったにしろ、昨日も女を抱くために少し飲んだから、ぶり返したらしい。
「近頃佐助らしくないな」
 屋敷の水場を使っていたから、幸村は縁側に座って佐助の背中を眺めている。ちょっと嫌な予感がした。
「何見て言ってんの」
「この破廉恥めが」
 苦笑するしかない。慣れた風の女だったのだが、余程佐助を気に入ったらしく、跡を残してくれたらしい。破廉恥めが、ともう一度呟いた幸村はしかし相手がどのような女だったのか尋ねた。
「胸がでっかくて、骨盤がしっかりしてて、黒くて太い髪が艶やかで、肢体が細やかな女です。好みってえよりは、胸が豊かってところで選んだっぽいところありますかね。ってか自分で聞いといてそんな赤い顔すんのやめてよ。こっちが恥ずかしいから」
 幸村は既に正室を迎えているというのに、いつまで経っても女の話に慣れない。というよりは、部下たちも故意に幸村からそういった話を避けている。多少気持ち悪い表現だが、ある意味純真無垢な上司から破廉恥じゃとと真面目に言われると、なんだか自分が悪いことをしている気分になるのだろう。
 実際佐助はそんな気分だ。幸村の言葉だけが原因ではないにしろ、普段しないことをしたからといって新鮮さなど毛ほどもなく、むしろだるさばかりが残っていた。
 抱いている最中はよかったのだ。柔らかな身体は腕をまわすだけで気持ちよかったし、その胸も顔を埋めるとなにか安心した。商売慣れした女だっただけに面倒もなかった。互いに名乗りもしなかったのだ。もう会うこともない後腐れのなさは女買い独特のものなのかもしれない。
 昨日はどうにも女を抱きたくて仕様がなかった。
「佐助は妻を作らぬのか」
「さあ、忍びだからねえ…。同業者にはもちろん妻も子もあるのがいるけど、俺はまだ当分いいよ」
「なぜだ」
「正直な話、戦場での心持ちの問題。旦那さ、俺に縁談とか持ってこないでよね」
「わかっている。……本当に、俺が怒ったせいではないな?」
「違うったら」
 身体を拭いて服を着ると、佐助は真田屋敷の近くに別に借りてある長屋へ向かった。屋敷にいるよりは気が楽で町にも出やすいので、身体を休める時は大概そちらにいて、気が向けば周辺で噂話を聞いたりする。所謂足軽長屋に近いものなので、大名の評判なんかはよくわかるのだ。
 室に入って、幸村が気遣ってよこしたわりかし上等な布団に寝転がった。なんの匂いもしないのは、佐助が滅多に布団を使わないのもあるし、使ったとしても佐助がいつも体臭を消しているからだった。
 頭の後ろの方がクラクラ痛む。布に顔を押し付けてうつ伏せになったまま、幸村が怒った時のことを思い出した。酷い剣幕だったのが印象的である。
 佐助が団子を買いに行ったまま帰らないので、真田屋敷ではちょっとした騒動になったのだそうだ。というのは、佐助が政宗と厠を取り合って騒いでいた丁度半刻程前、佐助に来客があり、それがやたらめったら美人な異国染みた女性だというので、一体どこのお方様だと家老が聞いてまわったが誰も知るものがなく、どう扱ったものか困り果ててしまったのだ。当の女性も、佐助殿に用事があるのだと言ったきり何も喋らない。一見尼の様相をしていて高貴さがあったが、城から帰った幸村が見たところ、忍びであるらしかった。
 曰く、どこかで見かけた顔らしいというので、恐らく同郷のかすがだったのだろう。かすがは通された部屋で一刻程待っていたが、佐助が帰らぬと見たらしく、幸村が引き止めるのも聞かずに早足で帰ってしまったのだという。
 以来連絡は寄越さないが、緊急なら鳥でもなんでも使ってくるはずなので、佐助の方も特に気にしないことにした。というか、「よくも私に恥をかかせたな!」などという八つ当たりを食らいそうで気が滅入るのである。
 詳細は不明だが、謙信が身罷った後、かすがは上杉を出たらしい。尼の姿であったのも、案外冗談ではないのかもしれない。
 謙信、信玄、信長と、次々と強敵が消えた。だからこそ成った秀吉の天下であった。佐助はぼんやりとこの奇妙を思っていた。佐助は幸村のために半生を生きてきたので、特に天下と言われてもぴんとこないが、幸村は信玄が天下を取るのだと確信していた。そしてかすがもまた、謙信がその名を天下に轟かすのだと公言して止まなかった。
 そして現実に秀吉が掠め取った天下は、幸村は仮初めだと思っているが、一応平和をもたらした。
 そこにどんな偶然が働いたにせよ、だからこそこうして佐助ものんびり布団の上で寝たりしているのである。政宗と酒を飲むような真似もできるのである。
(そうでなきゃ、誰が、あんな)
「今まで何をしておったのだ、佐助!俺は団子が食いたいと言ったはずだぞ!いや、それはともかく、いや、それはそれで非常に大事だが、お前に客があったというのに、よりにもよって酒を飲んで帰ってくるなど」
 幸村はそう言って怒った。普段は滅多に怒らない。部下を処罰する時も、真実怒っている様子は見た事がない。が、殊に食べ物に関しては感情的になりやすい。それを思えば、やはり政宗の誘いを断りきれなかったのは、迂闊だったのである。
 仰向けになった。狭い長屋の天井の板目を数え始めた。すると次に浮んできたのは昨日の女のことである。まだ女のキツイ香りを覚えている。久々に女を抱いたのだった。
 戦がないから、であった。だからといって、なぜ急にそんな心持ちになったのか、やはり何度考えてみてもわからない。尼の姿をしていたというかすがを思った。いい女だと思いこそすれ、かすがを抱きたいと思ったことはなかった。あるのは親近感と憐憫の情だったように思う。
 それが、昨日の女とかすがが重なる。佐助は想像のうちにかすがを抱いた。目を閉じると、昨日の香りが本当に漂ってくるように思った。かすがは、戦うことをやめたのだろうか。
 頭にあるかすがの身体は柔らかい。その柔らかさを楽しんでまさぐるうち、ふと幸村の手の感触が思い出された。やけに生々しいが、それが酔いに任せて見た夢の片鱗だったとはわからなかった。殆ど覚えていないのである。幸村を考えた。妻をもって、表面上は変わらないが、それでも幸村は以前よりぐっと大人になった。
 以前より、独眼竜の話をしなくなった。
 なにかおかしい。幸村も、佐助も、政宗も、京にあって、なにかが変わってきている。それがなんなのか、佐助は答えを持たないし、知りたくもない。ただ、戦をしたいと願っていた。それが嫌で嫌でたまらなくて、あるいはその一念が佐助を酒と女に溺れさせたのかもしれない。
(やめろ、考えるな。俺は戦なんか嫌いだ、やめろやめろ…)
 眼球を手で押さえつけた。すると戸が勢いよく開いて、佐助ははっとして起き上がった。幸村であった。
「なにしてんの?今日登城じゃなかった?」
「相変わらずの部屋だな。急に暇ができたのだ。それで、たまにはこの辺りも見ておこうと思ってな」
「おもしろいもんないよ、こんなとこ。…ま、旦那らしいか。いいよ、上がってよ」
 湯を沸かして、茶を出してやった。そこでふと思い出したのは、前田慶次のことである。
「旦那さ、前田の風来坊のこと覚えてるでしょ?」
 次の瞬間の幸村の顔に、佐助は久し振りにぞっとした。笑顔でありながらただの笑顔でない。
「忘れるわけがなかろう。次会ったら、殺してやろうと思っている」
「………いや〜……そこまで恨みが深いとは、予想外で……そんなに、蕎麦取られたのが」
「フン、別に蕎麦など今更どうでも…よくはないが…。それよりも俺が許せぬのは、お前を殴ったことだ」
「あらあら、随分忍び思いなこって。そんな風にこだわるなんて、らしくないじゃん?向こうは悪気があったわけじゃないんだし、俺もう別に怒ってないし」
 そう言う佐助になにか怪訝なものを感じたらしく、幸村はちょっと首を傾げて半眼で佐助を見た。
「前田慶次となにかあったのか?」
 そういえば、団子が遅れた理由として、佐助は素直に「政宗に誘われた」と言ったのだが、慶次も一緒だったとは言っていない。無意識のうちに、幸村から慶次の話題を避けていたのだろう。答えに詰まった。とはいえ、下手に隠し立てをしてみてもはじまらない。
「先日伊達殿に誘われて酒を飲んだって言ったでしょ?あん時実は、前田の旦那も一緒で」
 幸村はあからさまに機嫌が悪くなった。否、悪くなりそうな機嫌を必死に上向きに保とうとしていた、そんな感じだった。思い込みが激しいが、基本的に人に即否を言うことを嫌う人なのである。
「なぜその時言わなんだ」
「……旦那が殺すだのなんだのと物騒なことを言うからでしょ。一応話してみたわけですよ、前田の旦那と。それで悪い人間じゃないと思ったから、旦那にも怒りを解いてもらいたいと思った、ていうわけ。……殴ったこと怒ってくれてんのは嬉しいけどさ、もう騒ぎは起こさないって約束させたし」
 ふむ、と唸ったまま、幸村は暫く考え込んでいた。今、慶次の狼藉と佐助の言葉とが、丁度天秤に載せたように揺れているのだろう。それはどうやら佐助に傾いたらしい。
「……では、次は無いとして、許す」
「ほんと!さっすが旦那、話がわかるじゃないの!」
「殴られた本人が許すというのに、いつまでも怒っていても仕方あるまい。佐助の話だと、また屋敷にやってこようというのか、前田は?」
「らしーね。まあ俺が団子でも食べにおいでって言っちゃったんだけどね。…わ、なにその顔」
 佐助は思わず笑った。苦虫を潰したような顔とでもいうのだろう、幸村はフン、と吐き捨てて、それでも一度言ったことを易々と曲げる人ではないので、わかった、と頷いた。
 幸村がこれほど人に対して嫌悪を露にするのも珍しい。茶を啜りながら思うことをそのまま言ってみると、それは確かに幸村も感じていることらしい。いくら狼藉を働いたとしても、それを豪気に笑うくらいの器が、幸村にはあるはずなのである。
 言う事が気に入らない、というのも大きいらしい。慶次が幸村に対して言う事といえば、佐助は一つしか思い浮かばない。幸村の苦手な話題だ。
「恋の話をしてくれる人なんか、そりゃ、いませんもんね」
「……別に俺とて恋を悪く思っているわけではない。だが、武士としてそれに溺れることの軟弱さを思えば、あやつが言うのはまっこと、軟弱以外のなにものでもあるまい。曲がりなりにも侍というのならば」
 一応の筋が通っていないでもない。要は二人して、一つは恋に傾きすぎ、一つは武士道に傾きすぎているのだ。これが相容れるはずもないといえば簡単な話だ。
 改めてそれを再確認してみたところで、幸村は昨夜女を抱いてきたばかりの佐助に気付いたらしい。
「佐助はどうだ」
「なにが」
「なにがではない。佐助は、恋をするのか」
「へ」
 かすがに対するあれは恋だろうか?と、めまぐるしい早さで先程までの想像が駆け巡った。と同時に、悪事を見抜かれたようでなにやら恥ずかしい。言葉を詰まらせた佐助に、幸村はなにやら勘違いをしたらしい。
「驚いた、するのか」
 一度こう思い込まれたら、話題が話題なだけに、否定も肯定も結局同じ結果を招くような気がする。佐助はなんとも言えず、今はどこにいるかも知れないかすがに向かって、ごめん、と心の中で呟いた。それにしても幸村の驚きようは心外である。
「まあ、感情を殺すのが忍びって言っても、人間だからねえ…」
「…それもそうか。しかし、佐助の浮いた話など聞いたことがなかったからな」
「そういやそうかもねえ。ていうかこんな話してると、前田の旦那がひょっこり出てきそうだなあ…。恋の話を聞きつけてきたよ!なーんて…」
 と言って佐助がさり気なく戸口に目をやるので、幸村はキッと戸口を睨んで、本当に慶次がやってくるかの如く身構えた。佐助が慶次の気配を察知したのだと思ったのだろう。佐助はそんな幸村を笑いやって、幸い慶次はやってこなかったので、その後、この辺りをまわると言う幸村に付き従った。
 そうしながら、佐助は少しびっくりしていた。あんなやり取りは、以前なら有り得なかったのである。