望まぬ再会というわけではなかったにしろ、信長の光秀登用に、なにか不穏なものを感ぜずにはいられなかった。帰蝶は光秀が戦場でどのような振る舞いをするのか、知っていたからである。とはいえ数年後に起こる謀反を予期していたわけではない。だから光秀の信長を見る目も、
 「信長への心服」
 と、受け取ったのであった。
 帰蝶と光秀は従兄弟の関係にある。過去、光秀は今は亡き斉藤道三の下に仕え、まだ幼かった帰蝶にとって光秀は身内であると同時に部下であり、また兄であった。
 信長に嫁いで数年後、道三が没すると同時に光秀も美濃を離れたらしいが、それから数年のことはよく知らない。わかっているのは、方々を巡った末朝倉氏に仕え、そしてよしみを通じた足利義昭を手土産に信長に取り入ったことであった。
 今は直臣となっている。信長が義昭を廃そうとする動きを見せ始めたからであった。
 これについては、光秀もよく信長のために働いた、と帰蝶も思っている。だからこそ、古き日の親類であるから、という理由で光秀が帰蝶にたびたび謁見を望むのも、快く受け入れてやっているのである。
 まだ戦場での光秀を直接見ていない。しかし女だてらに戦事に通じる帰蝶ではあったから、その風評は聞いていた。
 死神の如く、であるという。
 その言葉の意味が帰蝶にはよくわかる。ああやはり、と思ったものだった。
 なぜ光秀が帰蝶に会いたがるのか、それは計りかねた。今日も光秀は笑顔で帰蝶の前にやってきた。そうしてなにをするというのではない。茶を出させて、話をするくらいであった。
 信長はこれを、蛇とマムシの会合、などと笑っている。もとより嫉妬などを抱く信長ではないにせよ、これが文句でも嘲りでもないらしいことが不思議であった。
「こんにちは、帰蝶」
 という光秀は、いつも正装で帰蝶に会う。当然といえば当然のことながら、帰蝶は幼い日のことを思い出さずにはいられないのだった。まだ十かそこらのころだったろう。光秀とは十以上離れているから、光秀はとっくに元服を済ましていて、しかし小袖一枚でいたところもよく見かけた。その日と比べるのである。
 光秀が帰蝶と呼び捨てにするのは、その頃の名残である。帰蝶はこれを無礼と怒ったことがない。それは信長の小姓である蘭丸からしてみても、不思議でならないらしかった。
「なんであんな奴に呼び捨てされて、平気でいるんです」
 蘭丸は光秀が嫌いであった。
 とは言え、光秀とて公の場では例に倣って、濃姫様とか、お方様、とか呼ぶ。呼び捨てるのは今日のように二人っきりで会う時だけである。それを、ある日たまたま蘭丸は聞いてしまったのだった。
 これに帰蝶は困った。なぜ平気でいられるのか、よくわからないからである。きっと他のものがしたのならすぐに罰するであろう。かと言って、光秀を特別に想う気持ちなど抱いているつもりはなかった。あるのは幼い日の思い出だけである。
 一度、二人でこっそり城を抜け出してみたことがあったのだ。今考えればとんでもないことだったとわかるし、どこをどう通ってそんな芸当を成し遂げたのか、今でもわからない。光秀が罰せられなかったのは奇跡であった。なにをしたわけでもない、ただ光秀の手にひかれるまま部屋を出て、誰もいない道を散歩して、そのまま帰ってきたのである。見咎めた侍女は一体どこへ行っていたのかと尋ねたが、光秀は平然と、
「まりが転がったので、取りに行っておりました」
 と言うのである。侍女が帰蝶がいないと気付いて間もなかったらしく、それでもうお咎めはなかった。
 以来光秀は、二人きりになると、濃姫、ではなく、帰蝶、と呼ぶようになった。
 あの手を振り解かなかった自分が奇妙であった。一度たりとも、光秀を、好き、と思ったことはない。蘭丸には、あやふやな笑顔を返すしかなかった。
「梅が咲きはじめましたよ。手折ってきてもよかったのですが、あまりもったいないのでよしました。殿はさっそく、花見の手配をさせていますね。きっと豪華なものにするのでしょう…」
 帰蝶の前に座して言うのは大概こんなことであった。普段光秀は消え入るような喋り方をする。それでいて、育ちのよさ、を感じさせるのが、光秀の気質を考えてみても、やはり不思議であった。
「お前も連れて行くつもりなの、上総介様は」
「主な家臣は、みな、だそうですよ。当然帰蝶も行くでしょう。さぞやさぞや華やか…。冬のうちから、楽しみにしているものが多い」
「花を好き、か、十兵衛」
 十兵衛、というのは光秀の通称であり、帰蝶にはこちらのほうが呼び慣れている。やはり帰蝶も信長の前では、光秀、と呼ぶのだが…。
 光秀は笑顔を絶やさず、明り取りの窓からのぞく空を眺めた。
「いいえ、花は、動きませんからね。むしろその周りを飛ぶ鳥だとか、蝶だとかのほうが、よっぽど見ていておもしろい。けれど、私にはそれよりもおもしろいものがあるんですよ」
「何…」
「花を興じる人をこそ私は好きです。人が愛でなければ、花も、それこそ鳥も蝶も、無きに等しい。そうは、思いませんか、帰蝶」
「思わないわ。なにもなくとも、そこにあれば意味はあるもの…。生きているのだから」
「そうですか」
 光秀は帰蝶が何を言っても、否、とも、応、とも言わない。ともすれば勝手に自分の意見を述べて、同意を求めたかと思うと今のように聞いているのだかいないのだかわからないような返事をする。それでいていつも楽しげなのだから、不気味さを思うよりは、むしろ、子供っぽい、と感じるのである。
(しかし、これは、死神…)
 という念が拭いきれないのも本当だ。
 部下を、何人もその手で殺してしまうのだそうだ。帰蝶にはそれが信じられない。光秀の気性の上では信じられても、実際に戦場に立つこともある帰蝶からすれば、共に戦う部下を殺めるなど、想像もつかないことであった。それをむしろ望んで易々としてしまうのである。
 兆候は昔から感じていた。時折人をぞっとするような眼差しで眺めている。
 それは猛将が戦の疲労と緊張とで作り上げる「鬼」の形相とはまた違ったものだ。そのような哀れで悲しいものではない。光秀は、無条件に人を斬りたがっている。だから斬れれば、それが敵であろうが、味方であろうが、大差ないのである。それが光秀という男であった。
 ここにもやはり思い出が一つある。
 稲葉の城で催された真剣試合に、その腕を買われて光秀は清忠という若い武将と相対した。父道三の隣にいて、帰蝶もそれを眺めた。
 姫君の見るものではない…。
 と、侍女の一人が止めたのだが、道三が進んで帰蝶を置いたのである。成り上がりで、気性も人一倍激しく、戦国の厳しさを誰よりも知っている道三だったから、
 女とて刀を知らずに生きてゆけるものか…。
 と思っての教育だったのだろう。
 その甲斐あって、輿入れの時帰蝶は、信長が気に入らなければこれで斬れ、と一振りの短刀を与えてくれた父に対して、いざとなればこれを父にも向ける覚悟で織田に嫁ぐのだ、と言い放っている。それを聞いた道三は大笑いしたものだった。大層なマムシが育った、と。
 それはともかく、真剣試合でのこと。大勢が見ている前で、光秀は、その清忠を殺してしまった。
 軽く一振りしただけであった。その刀が、まるで吸い込まれるようにして清忠の胸に沈み込み、その後に血が噴出して光秀の髪といわず顔といわず、全身に飛び散ったのであった。
 帰蝶にはその瞬間、一体何が起こったのかわからないほどであった。
 清忠はさほど名のある家の子ではなかったが、その好人物なところを道三に見込まれて目をかけられていたから、場は騒然となった。すぐさま医者が診たが、最早助からない。
 はじめて人が死ぬのを見たのがその時だった。
 父はきっと怒るであろうと思って、隣を見た。厳しい顔をした父はしかし、帰蝶の予想に反した言葉を言ったのであった。あの程度のものに目をかけてやったわしが口惜しい、と。光秀にはなんら罰はなかった。
 帰蝶は不思議であった。なにか光秀を庇護してやる力があるのではないかと思った。そして、はじめて光秀という男を恐ろしく感じたのである。しかも、知らぬ仲でもない人を殺しておいて、
「つまらなかった…」
 などと口走っている。その人の血を浴びてそんなことを言う光秀は、不穏、の一言に尽きた。
 その夜、帰蝶は恐ろしくて眠れなかった。以来、すっかり血を嫌うようになった。否、本音では嫌っていながら、父と信長のため、その本心を隠し続けて気丈にふるまった。戦国の女の矜持、であったのかもしれない。
 光秀は、人を殺めたがっている…。
 と、一番最初に知ったのは、だから、帰蝶であったと言える。他はこの不穏を、ある種の武辺者…として受け取ったらしかった。戦場ではともかく、普通の生活をする分には光秀は常人を演じていた。
(死神めが…)
 と思う帰蝶には、様々の思い出が込められている。
「蘭丸くんがお前をどう思っているか知っている?」
「さて、興味がありませんね…」
 室内は戦乱が嘘のように静かであった。この間にも、政局は動いているはずなのである。この静けさが帰蝶には痛いほどであった。こんな世の中、早く信長が終わらせてくれればよい、と思う。
 しかし終わった先を夢見るといつもこの男はいない。帰蝶にとって光秀は、戦乱の象徴だったのである。
「この間、困ったのよ。お前が私を帰蝶と呼ぶから、なぜ、呼ばせるのかと…」
 帰蝶も光秀も、互いに目線を合わせることをしなかった。手元や外の景色ばかりを見て、言葉が小さく響いて消えてゆく。なぜかそれが悲しかった。
「そうですか」
「もうおやめ」
「帰蝶、」
「口答えをするのか、十兵衛」
「いいえ、まさか…。ならばやめましょう」
 帰蝶はなぜかほっとして、その時はじめて光秀を見た。笑っている。白い顔に、畳が跳ね返す日の光が不釣合いに映っていた。
 この時帰蝶に、光秀が信長を清忠と同じ目を合わせたい…と思っているなど、そんな疑いは微塵もなかった。ただ漠然と不安な気持ちで、死神を見ていたのにすぎない。だから、
「上様は、お前を重宝している…」
 と呟くこともできた。光秀はやはり薄く笑みを浮かべた。それは数年前となんら変わりない。
 城を出た束の間の時間のことを、再会しても二人が話し合うことはなかった。同じようにいくつかある思い出も、話題に上ったためしがない。
 しかし帰蝶はいつも思い出を通して光秀を見ていた。そうしなければすぐにでもこの男を見失ってしまいそうになるほど、今の光秀が帰蝶にはわからなかったのだ。
「私は少しでも殿のお力になりたいと尽力しているまで…」
 と言う光秀の言葉は、なんの実感も篭っていない。わからないといえば、これが真実か偽りなのかすら、帰蝶にはわからない。ただ信長が言っていたことを思い出した。
「近江に、城をもらうそうね。近々祝いの品を送りましょう」
「それは、ありがとうございます」
 しばらくして光秀は部屋を辞した。いつもこの程度であった。
 今はもう、城から連れ出したわけを、なぜ…、と問う気も失せている。答えないだろうと思っているのである。帰蝶は今も別の城にいて忙しく立ち回っているであろう夫を思った。思うと幸せであった。
 そういえば、父に問われたことがある。光秀が恐ろしいか、と言うのである。帰蝶はすぐに清忠の白い顔と赤い顔の光秀が浮んだが、いいえ、と首を振った。
 あるいは道三も、光秀の異常を知っていた一人なのかもしれない。
「あれは決して恐ろしくなどない」
 と、道三は言った。
「あれはな、母御を失った童子が泣き喚いているのと、同じことだ…」