奴はまことに此岸の民や?
 政宗の問いを、家康は朗らかな笑みで受けた。奴、と政宗が指すのは、徳川家康が一の猛将、その身に傷一つ付けたことがないという本多忠勝である。今二人は家康の江戸の屋敷にいて何事かを相談している。それが一段落して、世間話の端に出た問いであった。
 忠勝はいつでも家康の傍にある。だからこの時も隣の部屋に控えているはずであると、政宗はそれを思ってちらりと襖を見た。家康が言う。
「彼岸のものでありながら、宿世の縁によりわしを守っている…と言えば、お前は信じるのか」
「となれば、あの鎧は脱がせぬ、といわっしゃる?」
「ハ、ハ、ハ、冗談だ、政宗!ぬしはおもしろいことを言うな。奴も人の子ぞ」
 それをいくらばかりか信じられぬ気持ちが、政宗にはあったのだろう。とはいえ彼岸の民…などという戯言を、本気で問うたわけではない。それ程、忠勝の武勇を称え恐れるという意味であった。
 高らかに笑う家康を、何とも言えぬ気持ちで政宗は眺めた。この人の前に座ると、いつでも政宗は、時には大きな、時には小さな敗北感を味わう。人の器の大きさ、というものからして、自分とは比べ物にはならないのではないか、という、普段の政宗らしからぬ敗北感である。
 とはいえそれを表には出さない。出しては最早、自分は家康の臣も同然となってしまうと思っている。
「なれど、俺は忠勝殿の着物姿を、見たことがないので、な…」
「それは家中の誰もが見たことがない。わし一人、ある。いくら政宗といえど、これは簡単にはならぬぞ」
 政宗はにこりとした。壮齢を超えた年上の家康が、少年のようにはしゃぐからである。
 時は既に、この家康の世であった。関が原の戦いの後、政宗は将軍家康のもとで、副将軍として立ち働いている。家康の息子忠輝の妻は、政宗の娘であった。そういうよしみも通じて、ある特殊な友達づきあいのようなものを家康としている政宗は、その家康が一番信頼する忠勝の正体を未だ判じかねていた。
 鎧を脱がぬ…。というのは、誇張でもなんでもない。忠勝はいつでも出陣できるほどの装甲をその身に纏って生活している。いや、実際忠勝が人間らしい生活をしているのかどうか、この点についてすら政宗は自信がない。
「では細君との褥の上でも戦場のなり、と」
 これを聞いた家康はまた快活に笑った。政務や戦のことではむっつりと押し黙り他を威圧する家康は、案外よく笑う。そしてそんな時は、二十も三十も若さを取り戻したようになる。
「これは一本取られた。そう、無理難題を申すな。余計な詮索など、せぬほうがぬしの為ぞ」
(なにが詮索か…)
 政宗は忠勝のまことに人であることを確かめたい。その一点であった。珍妙ながら、家康との付き合いが長くなればなるほど、政宗の疑問は膨れ上がるばかりであった。
「詮索ついでにお聞きするが、上田藩主真田信之の妻は…」
「わしの娘だ」
「いいや。養女になされたが、本多忠勝の娘。まことなりしや」
 無礼な調子の政宗を怒る様子もなくかえっておもしろげにしている家康は、政宗の質問とは別のことが頭をよぎったようであった。証拠に、目を室内に生けてある桔梗に向けて、ぼんやり答える。
「まことよ、まこと…。小松はなあ、先の戦でもようく夫に従ったものよ…」
 小松、というのが、忠勝の長女の名であった。政宗は一度信之を訪ねた時、小松姫に会っている。気の強そうな、戦国でも特に中期の頃の、芯を持った女性に見えた。その強さは政宗の母にも通じる。忠勝と似ているのかどうかは、そもそも忠勝の素顔を見たことがないのだから、わからなかった。
 その折尋ねたが、小松姫ははっきりと忠勝を父と言った。つまりは最初から疑っても仕様のないことを政宗は家康に聞いている。
 ここまでの流れは、政宗と家康が会うたび繰り返す、一種の問答のようなものであった。いつまでたっても答えは出ぬ、出ぬ答えを探すことを政宗は半ば本気、半ば冗談でし、家康はまるっきり興として対応していた。しかし政宗は、そろそろ本気で忠勝の正体を知りたくなっている。とはいえ方法がない。だからいつもの通り無用の詮索をするばかりであった。
 家康は桔梗をじっと見たまま、何も言わない。何かに思いを馳せている。その正体は、はっきりとわかった。政宗が真田の名を出したからである。忠勝は一度、家康に抗ったことがあるのだ。それが、真田を守るためであった。家康はその時の様子を、ありありと思い出しているのであろう。
 忠勝の娘小松は真田信之の妻である。関が原の戦いで信之は東軍、すなわち家康に与した。しかし、
(昌幸と幸村は…)
 西軍石田三成に与し、上田城で篭城戦を展開し、見事に東軍の足止めをした。政宗が唯一好敵手と認める幸村は、勝利したのである。だが、西軍は負けた。二人を待つ運命は、切腹、のはずであった。
 政宗がこれを知ったのは戦が終わってしばらくしてからのことであったが、結局真田父子は九度山に蟄居を命ぜられるのみで済んだ。この時強い安堵を感じてしまった自分はともかく、なぜその程度で済んだのか不思議で聞けば、二人の助命を嘆願したのが忠勝であるというのだ。すなわちこれが、忠勝が家康に抗ったただ一度の出来事であった。
 家康よりも、娘婿一族を取った…。
 このことは、家康にとって衝撃であったろう。特に、家康は真田父子を切腹せしめたく思っていたから、忠勝と真田家の繋がりを当然考えなかったわけはないにせよ、思わぬ横槍であった。
 だから真田の名を聞けば自然家康はこの出来事を思い出すのだ。政宗はそれをよくわかっている。わかっていて真田を引き合いに出してみたのだと言ってよい。
 思えば政宗が知る限り、忠勝の人間らしい話はこれのみである。家康がようやく口を開いた。
「なあ、独眼竜…。ぬしは確か、真田幸村と因縁があったな?」
「…さ、因縁か、どうか…」
「はぐらかすな。どうだ、ぬしは幸村が、怖いか」
 家康の目は戦の話をする時のように静かで重いものに変わっている。そうすると今度は逆に、実際の年齢以上の年寄りに見えるのだった。政宗は答えない。家康はまた桔梗を見た。
「わしは、な…。信玄公が怖くて怖くてたまらなんだ。ぬしも知っているだろう」
 頷いた。三方ヶ原での戦以来、家康は武田信玄の軍略と人望を恐れる一方、ある種の崇拝の念を持って尊敬している。当時まだ若かった家康の脳裏に信玄の存在は焼きつき、信玄亡き今尚消えぬものとなっていた。
「だが怖いのは信玄公だけではない。信玄公の下で働いた真田昌幸も、その息子信之も、わしは怖い。あの時切腹させておかねば、いずれまた…と思った」
 政宗は笑わぬ。いつでも人を食ったように笑う政宗は、家康の前ではなぜかそれができないのだった。
「さも、ありましょうや…?」
「わかっているだろう、独眼竜。わしも、わかっておるのだ。忠勝はわしを諌めた。信之は我が眷属に取り込んだ、が…。その信之の一族を切腹せしめては、かえって身の内に膿を抱え込むことになる。信之も忠勝と嘆願したゆえ、な…。どうだ、お前にも幸村は、怖いものか」
「なにをお聞きになりたいのやら、このめしいた右目では見えませぬな…」
 ふうむ、と唸って家康は腕を組んだ。政宗は、
(世は変わった…)
 と思っている。その変わった世にあって、確かに幸村は恐ろしいと言ってよい存在かもしれぬ。忠勝はあるいは、その恐ろしさを残しておかねば、いずれ家康が、
(だめになる…)
 という可能性を思って、真田父子を助けたのかもしれぬ。家康は信玄に植えつけられた恐怖を持ってこれまで戦乱の世を生き抜いてきたのである。その点は、政宗にも理解できる。もし忠勝が本当にその意をもって助命を乞うたのだとすれば、やはりただ者ではない、希代の名武将と言わねばならなかった。
「宿世の縁、を、信じまするか、家康殿」
 家康の言葉を借りて政宗はまた襖を見た。襖の奥に、忠勝を見ている。縁といえば、この世は奇妙な縁に溢れている。ふと、忠勝の装甲から鳴る不可思議な音が聞こえたように思った。
「それが仏の道なれば、な。なぜ、聞く」
「俺には信じられない」
「ふむ…?」
 家康の顔は、元の少年のものに戻っていた。家康は政宗の叛骨をも恐れながらも、こうして友人にするような笑みを向ける。人から自分がどう見られているか、ということに対しては人一倍敏感で鋭い政宗であるから、あるいは家康が政宗を恐れることも、その恐れを自身の知恵でうまく立ち回って掻き消してしまうことも、よくわかっているのかもしれない。
「真田幸村も、所詮この世のみのこと。ゆえに忠勝殿も、真田を生かしたのだろう」
「ほう、ほう…。政宗は、そう思うか…。死しては恐怖も消えようもの、なあ…」
「とすれば自然、家康殿が信玄公に抱くのは別の恐怖、とも言えますな。しかし…」
 政宗は立ち上がって襖に向かい、これを開けた。果たして忠勝が戦場と変わらぬ出で立ちで控えている。忠勝はキュ、という鉄が擦れるような音を立てて顔を上げ政宗を見た、すると顔をも覆っている鎧の隙間から小さな赤い光が見える。灯火とも星とも違うこの光の正体も政宗は知らぬ。
「忠勝殿がおれば、なにも恐怖することなど、ござりますまい、家康殿」
 忠勝を褒められると、家康はいつでも素直にそれを受け取って嬉しげにする。この時もそうであった。家康の年齢に似つかぬ快活な声が政宗に礼を述べるのであった。
 鎧の上からは見えようはずもないのに、政宗は、忠勝が狡猾な笑みを浮かべたように思った。

「遠路はるばる…」
 と政宗が虚空に向かって言ったのを聞くものは誰もいない。しかし政宗はしかと特定の人物に呟いたつもりである。家康の見送りを慇懃に受けたその帰り道、用を足すと言って部下を離し、草むらにて政宗は呟いたのだった。家康は恐らく屋敷に忍んでいたであろうこれの存在を察していなかった。否、もし察していたとしても構わず、「捨て置け…」と言ったはずであった。
 答えはない。ないかわり、木立がかすかにざわめいた。それだけで政宗はにこりとした。
「聞かれて困る相談じゃあなかったからな。無駄足踏まされてさぞやご立腹だろう。機嫌直せよ」
 まるで親しい友人にでも語り掛ける風であるが、実は政宗は一体どこに目当ての人物がいるのか、はっきりわかっていない。以前は手に取るようにわかったものだが、ある時から読めなくなったのである。ただ近くにいる、ということだけが漠然と感じられるのであった。しかし、わからぬからこそそれが誰なのかはっきりわかる。
「そういう諜報を怠らねえから、家康もお前らを怖がるんだ、なあ…」
 名は呼ばぬ。別のことが思い浮かんだ。
「とはいえ家康も忍者を使うからな。今日無事にあるのは、家康もさほど重要な用向きのことではないと知っていたから…だな。でなけりゃどちらか一方が血を見ているはずだ。長の名は、確か…」
「服部半蔵」
 どこからともなく声が聞こえた。政宗が今まさに呟こうとしたのと同じ名である。
 木立のざわめきが大きくなった。初夏を前にして、天候が移ろいやすくなっているために、先程までの晴天が徐々に灰色に覆われ始めている。
「…こりゃ失礼、余計なことを言ったな。別に甘く見ているわけじゃねえんだ、勘弁しろよ」
 ようやくなにか笑ったような気配がしたかと思ったら、それきりその場からはなにもいなくなった。
 長いので小姓が様子を見にやってきたが、政宗はその場から微動だにしなかった。どこか不機嫌そうな主におおずとした部下に、虚空を見つめたまま言う。
「久し振りだったのにつれねえことだ。あの野郎…」
「は…?徳川様のことでござりましょうか、殿…?」
「違う!世が変わったということだ。徳川も、真田も、な…」
 小姓はわけのわからぬ顔をしながらも主の真意を読み取ろうと懸命にその顔を眺めた。眺めているうち、どこか主のおもしろげでいることに気が付いた。しかしその表情はまるで水面が風に揺られその模様を変えるかの如き早さで悲しげなものに変わってしまったのだった。
「だからもう俺も、変わらねばならぬ…」
 未だ乱世にあるかの如き心を変えぬ真田はだから九度山へ落ちた。そうでなければならぬ…という運命の力が働いていたようにしか、政宗には思えぬ。だから幸村への執着心も捨てなければならなかった。
 宿世はなくとも、運命は確かにあるように思える。政宗は家康のもとにいて、その流れに身を委ねつつあった。身を委ねて、天下が求める形のままに変遷しようとしていた。
 九度山から忍んできたであろう昔馴染みを密告しなかったのは、全てを捨てきれぬ証拠であろうか?
 幸村が怖いか、と聞かれた時、政宗の心は少し揺らいだ。幸村が怖いか…否、怖いのは己の心のはずであった。それがまったく今は、たとえ幸村と戦場で見えようとも、冷静でいられる自分を容易く想像できた。
 家康が不利を承知で信玄のもとへ突っ込んで行ったのは、あるいは以前の政宗と同じ心持ちであったのかもしれぬ…と、政宗は思わずにはいられなかった。
(幸村が、怖い…)
 これを思ってみると、案外素直に身体に染み込んだ。
(果たして俺は、家康や忠勝も怖いのだろうか…?)
 ようやく政宗はその場から動いたが、よもやそこにまだあの忍びがいないかと振り返った。いたとして、その先になにを期待したのかは、政宗自身にもわからぬ。
「らしくない」
 と、言ってもらいたかったのか。