焦れていた。集中力が暑さと戦っている。
 眼前は緑に覆われていた。畢竟緑の装束を纏う佐助はその豊かな自然に紛れ込んでいた。
 今日ばかりが特に暑いのではない。このところ一週間、太陽がかんかんに照り、地が干上がっている。これでは飢饉になるやもしれぬという信玄の言葉は切実である。飢饉に比べたら、この程度…と、佐助は自分を励ました。汗が頬をつたい顎の先で落ちた。汗でべとついた肌には一枚の鎧も付けていないから、代わりに泥で思う存分汚れた。それを不快と思う感覚などとうに潰えていた。
 任務は今佳境にあったのだ。敵国の要人暗殺、である。
 甲斐もさることながら、国境を越えて南にやってきたからいつもより暑さも厳しく感じるのかもしれない。佐助はその山道にあって目的の人物を尾行していた。今は共を五人連れて馬を歩かせていて、屋敷に帰る途中なのである。この暑さにたまりかねて恐らくそのうち休息を取る、そして油断した隙をついて襲うつもりであった。さすがに達人ども五人をまとめて相手をするのは骨が折れる。それにしても、
(うるさい…)
 蝉しぐれのまるで佐助の存在を知らしめるかのような降り注ぎ方をうるさいと思ったのだ。佐助の眼は標的を捉えたまま動かない。そうしていると佐助は自然の一部であった。だが蝉がつんざくように鳴くために、それが標的に見えぬ敵を教える警告に聞こえるのであった。
 しばらくその場にじっとしていた。標的が程遠くなると動き出す。例え佐助の近くにいたとしても、木の葉一枚揺れたと感じぬであろう静けさである。
 暗殺は佐助の、忍者の得手ではあるが、そうそう成功するものでもない。返り討ちに合うリスクの高さの代わり、成功すれば莫大な報酬が入る。が、政局が乱れると必ず勃興するこの職業は決して依頼者ですら完全に信用できるものではない。
 手柄を持って帰った途端、立場が逆転する時もある。暗殺者を暗殺するのである。佐助の同郷にも、そうして死んでいったものが少なくないだろう。つまりは捨て駒にされてしまうのだ。
 正式に武田家傘下の真田家に仕える佐助には、ほとんど上記の可能性がないのだと言ってよい。その点は安心して任務に集中できるのことが、佐助のような暗殺技術に突出した忍びにとってはありがたかった。
 ありがたいが、佐助の近頃の働きぶりは異常と言えた。戦場での撹乱・工作を行うばかりではない、今のような暗殺任務が連日ぎゅうぎゅうに詰め込まれている。しかもそれらは全て直接の主弁丸からではなく、信玄や昌幸から仰せつかったものばかりであった。とはいえ、まだ元服もならない弁丸を主と認めてよいのかは佐助自身にもわからなかったし、弁丸が命を下すとすればせいぜい修練の相手くらいであった。
 佐助は真田家に使えてまだ日が浅い。浅いだけに早く家の信用を得たい、だからむしろ進んで仕事を買って出ている節もある。しかしそれよりも不満なのは、
(なぜ、俺が昌幸殿の倅の忍びなのか…)
 ということであった。あどけない顔の主と呼ぶべき人が頭をよぎって、なにか苛立ちを感じた。
 佐助はそれまで固定の主を持ったことがない。これまではあるいは里やどこかの武将・大名からの依頼を請負い、生活の糧としてきた。暗殺もするし、戦場で兵と同様働くこともある。並みの兵と違うのは、その働きぶりであった。時には一人で何百と殺すから、自然佐助の名は静かに知れ渡ることとなった。
 忍者の名が広まるという事に対して佐助は大した頓着がなく、仕事の邪魔にさえならなければいいと思っている。特に言えば、この忍者の中では当代一とされる名を昌幸が知ったればこそ、武田に仕えることができるようになったのだから、むしろ佐助はこの名を気に入っていた。
 仕えるということにしても、佐助は特になにか確固たるものを持っているわけではなかった。忍者は卑しく思われて普通禄をもらえない、だから全ては金銭で事が運ぶのだが、それも働きがなければ手に入らない。ところが昌幸は仕事がなくても定期的に金をくれるというので、つまり半分扶持人として佐助は真田に仕えることにした。そこにはまた、里長の勧めも加わっていた。真田はよいぞ、と言うのだ。
 ここまでは別によかった。若いながらに里一番の手練という肩書きも傷つかない。もとよりそんなものを気にする佐助ではなかったが、しかし、さっそく真田家に訪れたその日に昌幸から、
「わしの息子だ。命令は当面わしが出すが、本当はこれを主と思ってよい。これより、頼むぞ…」
 と言われ、さすがに肩透かしをくらった。父の横にちょこんと座った息子は、なんの淀みもない澄み切った眼で佐助を見つめたものだった。年は、十一か、十二だったか。確かにあと五年もしないうちにこれは立派な武将になるであろう。見ればどこかのんびりした顔ではあるが、口もはっきりしているし、武芸にもやる気があるようだったから、初陣を済ませればじきに大人になる。
 だがなぜ雇いたての忍びを大事な息子に付けるのか、それが佐助にはちっともわからなかった。真田を今すぐ裏切る気があるというのではないが、もし状況が変われば生き残るためにはなにも厭わぬ気であった。それこそ真田を売るような真似をしたとしても、やはり佐助は頓着しないであろう。そういう可能性を含んだいわゆる「中途半端」な従者である佐助を、どうしてそこまで信用できるのか。なんの掛け値もなしに、佐助はただ純粋にそれが不思議でならなかった。まさか、長の言う「よいぞ…」は、忍びにとってやりやすい、騙しやすい大名であるぞ、などという意味ではあるまい。いくら人を謀る忍びといえども、頼りない主にはついていきたくないものである。それは兵も忍びも同じなのだ。
(あ、)
(雨が来る…)
 空気の調子が変わった。思わず空を見上げてみたら、やはり太陽はかんかんと照り付けている。しかし雨の前の匂いがする、すぐに降るに違いないと思っていると、一定の距離間にいる標的が休息を取ろうと部下に話しかけたところであった。
(しめた…)
 佐助はそっと身体を移動させた。徐々に徐々に間隔を詰めて、標的に迫った。一層蝉は泣き叫んだ。

 目的の人を一番に仕留めてしまうと、残った三人はその部下である。そのうち一人は川へ水を汲みに行っていた。面倒をはぶくために、一番近くにいた部下は続けざますぐに殺してしまった。その場にいる二人は、主が殺されたという信じられない出来事に怒りと憎しみ、そして恐怖を綯い交ぜにしながらも佐助に太刀を向けた。それが佐助には不快であった。もとより目的さえ果たしてしまえば余計な被害は出さぬつもりであるし、たとえこの部下たちがなにを報告しようとも足のつかない自信はある。顔は直前に布で覆っていた。
 一人はすぐに飛び掛ってきた。かっとなりやすいのだろう、赤い顔にきらりと光るものが見えた気がした。悔し涙意外のなんであったろう。
(随分慕われている…)
 というのは、既に動かぬ人となって佐助の側に倒れている武将の暗殺を命じられた折に調べてわかっていたことだった。とても気配りのうまい人であったから、部下を気遣って急ぐ旅でもなければすぐに休息を取るだろうと、だからこの時を狙ったのだった。
 殺したのが愛すべき人物であったから、この時佐助ははっきりと悪人であったろうか?
 佐助は時折そのように思う。殺さなければならない人が良い人であればあるだけ、佐助は自分が悪者に見えた。しかし見えて、それだけである。ためらいは終ぞ生まれなかった。
 最初に飛び掛ってきた男の太刀を避けると、仕方がないので腕を掴みあげ動けぬようにした。痛さに呻く男は刀を取り落とした。まだ刀を構えてじりじり佐助に近づこうとするもう一人の方は言った。
「何者か!」
 佐助は何も言わない。声は聞かせぬつもりであったから、自分たちから怖気づいて逃げ出してくれなければ、佐助はこのままこの者たちも手にかけなければなかなかった。どうやら逃げる気は起こらなかったらしい。
「なぜ、我らの主を…」
 と続ける言葉を聞かずに、掴みあげた男の腕をそのままポキリと折った。苦痛というよりは驚きに見開かれた目を見ないようにして佐助は小刀で首を一太刀にした。そのあまりの光景に声が潰えた男を振り向いて逃げてはくれないだろうかと期待してみたが、しかし男はそれで逆に覚悟が決まったと見えて、冷静さを取り戻しつつあった。否、これは冷静さではなく、死を目前にしての、底の冷えたある心境だったのだろう。
 どうやら声を聞かせぬというのは、この状況に於いて酷く矛盾していることに佐助は気付いた。それは相手が生き延びることを前提にした配慮だったからである。
 だから佐助は口を開いた。開けばもう逃がすことはできない。
「逃げれば、よかったのに」
 己の運命を見極めた相手には、少なくとも佐助の言葉は届くまい。しかし意外に男は答えた。
「我らは主に命を捧げた身。生半な武将と、同じにするな」
「それは、俺にはよくわからない」
「卑しき忍び如きに、わかるはずもあるまい。いつから狙っていた」
「知ってどうするの?」
「せめてもの、あがきよ」
 男は笑っていた。否、笑ったような歪んだ顔をしていた。佐助は不快だった。この男を殺してしまう運命にある自分が不快だった。それは他でもない佐助が選んだ運命だった。
 元右衛門殿!と叫びやる声が蝉のさんざめく音を裂いて佐助の耳まで届いた。男にも届いたであろう、その一瞬に隙ができた。佐助は応ともすわとも言わず元右衛門と呼ばれた男のわき腹を掻っ切った。それは不意打ちではなかった。元右衛門は甘んじて佐助の太刀を受けたかの如き爽やかさで斬られたのだった。静かに倒れたその場には血溜まりができた。
 元右衛門を呼んだのは一行の中でも一番若い赤ら顔をした青年と呼べる武将であった。汲んできた水は放り投げていた。今の今まで隣にいた仲間たちの亡骸の内にぽつんと立つ佐助をおぞましげに見ていた。
 青年は、なぜ、とも、よくも、とも言わなかった。ただ震えてその場に立ち尽くしていた。佐助はその姿をなんの感慨もなく眺めていた。ただ眺めて息をしていた。布越しに血の匂いが沸き立つのが感じられた。太陽に丸ごと熱される地面が、流れ出る血をふつふつと沸かせているようで気持ち悪く、蝉はその場で起きた出来事など意にも介さぬようにみんみんと鳴き続けた。佐助はそれが生を促す鳴き声だと知っているからそれがうるさかった。
 と思うと、やはり雨が来た。目元に塗れた粒は生暖かい。雨はすぐに強くなって、地面に白い煙を立てた。匂いが強くて佐助はそれも不快であった。青年は最早ぴくりとも動かない。しかし次の瞬間にはその場に崩れ落ちていた。佐助はこれを捨て置くことにした。この青年の最後に斬った男のように向かってこないことを、臆病だとも情けないだとも思わない。それを思うのは佐助の傲慢であった。何も思わずにその場を去らなければならなかった。

 佐助の初めての忍び働きは丁度今の弁丸の年頃であった。里長に命ぜられるまま、今まで習ったことを再現するまま、佐助は働きに働いて、その才能を認められたのだった。事実、滅多に褒める事をしない長から、お前には才能がある、と言われたことがあり、その時佐助は、微かに嬉しかったように思う。反面、ちっとも綻ばぬ長を不可解にも思った。人は人を褒めるとき、もっと笑顔でいるものではなかったか?
 どのような種の才能なのか、それはやはり忍びとしての才であろう。佐助はずっとそう思っているが、最近になって、真田に仕えるようになって、その自信はなくなっていた。それまで、
(主のために…)
 という感覚を終ぞ持った事のない佐助である、俄かに生まれた弁丸という主のために働いたという実感はやはりまだない。ない代わりに、自分が弁丸の守役のような立場に置かれていると薄々感じていた。
 名目上佐助は真田の忍びであり、主は昌幸が次男、年端もいかぬ弁丸である。昌幸の弁丸を頼むという言葉は、ゆくゆくは元服する弁丸を、その忍び働きで助けてやってくれ…という意味に他ならなかっただろう。昌幸に他意は感じられなかった。
 だから佐助をそのような立場にし始めているのは他ならぬ弁丸である。
 弁丸は忍び小屋で暮らす佐助をことあるごとに訪れ、そして一緒に遊べだの手合いを頼むだの、時にはなにか話しをしてくれとせがむ。佐助にはこれが苦痛でならなかった。矜持が傷ついていたのかもしれないし、それまで子供に触れたことがなかったからどう扱っていいのかわからなかったのだとも言える。
 屈託なく笑う幼い主に悪意を抱くというのではない、むしろ弁丸には悪意を抱かせる隙がない。しかし不満が募るのであった。なぜ、俺が…と、思わずにはいられなかった。
 それを表に出すような佐助ではないし、高給はやはり捨てがたい。だからといって弁丸を相手するうち、どんどんその役目が広まっている、そんな気がした。弁丸はなにを思っているのか知らぬ、ただ佐助佐助と呼ぶこと事体が楽しいかのように佐助を呼んではなにかと言いつけるのであった。
 昌幸は佐助を弁丸の持つ初めての忍びに選んだ。それは間違いなかろう。それは佐助に僅かな重荷であった。それは佐助に自らの才能を疑わせる感情的な変化をもたらしつつあった。なんと言葉にすべきか、佐助はまだその術を持たない。だが恐らく、弁丸と出会う以前佐助は今よりも冷酷に忍びであった。
 この時佐助にはこの世のなにもかもが不快であった。血塗れのまま走ると雨が懸命にそれを洗おうとするものの、暑さのために後から後から汗が吹き出てそれが尚不快であった。佐助はこれから真田の郷に戻って昌幸に会う、会って報告をしたら忍び小屋に戻るが、またすぐ別件で他国に赴くつもりであった。
 それはまるで弁丸から逃げるかのごとくであった。佐助はこれほど人を殺め続けた日々を送ったことが一度ならずあったが、今はなぜか辛さがまとわりついていた。皆逃げろと思う。
 命ぜられるまま、なんのためでもなく働くことは佐助にとって楽であった。今もそうしてはよくないとは、決して誰も言わない。それは佐助の心の中でのことだったからだ。しかし佐助はそのうち、
(弁丸のために…)
 と思って働く日がくることをなんとなく予感していた。それがいつかは知れぬ、少なくとも今の幼いだけの弁丸に、そんな気は起きなかった。しかし予感だけが胸の内を浮遊していた。
 佐助は焦れていた。水たまりをぱしゃりと踏む、足に染みた水が生温くまるで人肌のようであった。