毛利軍と長曾我部軍がぶつかった厳島での戦いは、元就の一刀の上に終着した。
 その場を立ち去ろうと数歩進んだ後、声ともつかぬ声が元就の耳に届いた。それは先ほどまでの力をまったく失った、命の消え入る声であった。それに元就は立ち止まり、振り返った。言葉をかけることはできぬ。力強い残響がまだ耳朶にこびりつくようであった。
「……な、……た……」
 輪刀を握る手に力が篭った。まだ興奮している。倒れた男、元親は手をゆるゆると動かして土を弱々しく掴んだ。その傍には元就が斬り捨てた元親の部下が二人転がっている。砂を掴んだまま元親はその部下の腰巻に触れた。ちらちら光る砂が布をか細い滝のように伝った。それにはなにか悲哀が含まれていた。
 なんで殺した。
 確かに元親はそう言ったらしかった。元就はとどめをさすために輪刀を振り上げたが、それはやがてゆっくり下ろされた。元就は何も言わずに元親を見下ろしている。元親の片目は揺れるような明滅を繰り返して、朧に元就を映していた。
 元就の傍にようやく部下が辿り着き、ほぼ長曾我部軍を壊滅せしめたと報告すると、血を流し倒れる元親を見て息を飲んだのがわかった。元就はそれを一瞥すると、
「引き上げる」
「恐れながら…」
 何か言うつもりらしい部下は、元就が目を合わせると身体を竦ませた。
「何だ」
「長曾我部元親殿は、その…息が?」
「…」
 元就は、首を落とせ、もしくは生け捕りにしろ、いずれかを命じなければならなかった。部下は当然、前者を期待していたはずであった。しかし元就は輪刀から滴り落ちる血の雫を見てふと、
(四国…)
 を思った。四国は四辺を海に囲まれている。それは一種閉鎖的な土地であった。元就は、今回の戦に領土的目的のなかったことを思い出した。そして少なくとも、領主を失った四国の荒れることは望ましくないと考えた。無論これは戦をする以前から思惑の内にあったことだが、改めて元親の生死を考えると、
(生かすべきか…)
 という気が急に沸き起こってきた。元親を見る。傷は深く、恐らくすぐには癒えない、むしろ今すぐ息絶えてもおかしくはなかった。ならばそれでもよかった。
 元就は部下に、元親に治療を施した上城に連れて行くよう命じた。

 これは案外家臣らにあっさり受け入れられた。反抗をしたとしてそれを聞くような元就ではないが、家中にもあの地図の上から孤立した島の扱いには頭を悩ますところがあったのに違いない。だから城の内にあっては元親の回復を望む者のほうが多かった。もともと怨恨のあった相手ではないからそれは自然であった。
 毛利側としては自然であっても、長曾我部からすれば元就は一族郎党を殆ど殲滅せしめた大悪党である。元親は昏々と眠り続けたが、これが目覚めた時一体どうなるかは、誰にも予想できなかった。だが少なくとも生き残った親類部下たちは、元親が目覚めればその意向に従うと言って聞かない。死んだらどうすると遠まわしに問えば、その場合は処刑でもなんでもすればよい、と言うのだった。
 領主が変わると必ずと言っていいほど起きる一揆の類は、厳島での戦いから一月たってもまったく起こる気配がなかった。これは毛利にとっては有難いことで、元親を保護という形で城に置きつつ、毛利家臣を四国へ視察にやることができた。
 元親が目覚めて後の言葉に、全てはかかっている。一言反逆せよとの声があれば長曾我部縁故のものたちは一同立ち上がるであろうし、もしくは毛利傘下に入ると言えば、それも従うであろうと思われた。元就にはそれが予想だにしていなかった展開であった。
(人心とは、そのようなものであったろうか…)
 と、眠る元親の枕元にいて、このことを考えていた。すべては元親の統率によるものであり、そしてそれが元親の言う信頼関係であると認めぬわけにはいかなかったが、それでも元就は疑うことに神経を注いだ。そんなはずはない、元親に従うと声高にして叫ぶのは奴の親族や部下だけで、民衆の心までをも掌握しているわけではない。それは元就にとって有り得ぬことであった。
 なにかあるに違いない。そう思わねば、元親という男を説明することがどうしてもできなかった。
 その日も元親は目覚めなかった。体中に撒かれた包帯は白く眩しいほどであった。常にその左目を覆う布も今は外され、色を持たぬ髪の下、案外綺麗に保たれた左目はゆるやかに閉じられていた。
 侍医は、助かるとも、助からぬとも、どっちつかずのことを言ってこの一月元親を永らえさせている。傷は深すぎる、あるいは一生このまま目覚めぬ可能性もあるし、明日息がなくなるかもしれない。とはいえ今まで生きているのは元親の生命力の証であろうし、あるいは、という具合だ。さすがに元就も判じかねた。
 どちらでもよいと思ったのは本当だ。ただし元就には目覚めた場合の不安があった。元就はどうしても、
(一人ぼっちじゃねえか…)
 と軽蔑とも憐憫ともつかぬ声音を投げかけた姿が焼きついて離れなかった。元親が目を開けば、より一層それがまざまざと蘇る気がして不安であった。それは沼に浮く小さな気泡のようなもので、ともすればすぐにはじけるよりも小さく消えるのだが、またすぐにどこかの底から生まれてきた。
 その不安を元就は容易く受け入れることができなかったから、不安を不安とも思わず過ごした。

 厳島の戦より一月と十日、むっと暑くなった日、元就は自室で奇妙な声を聞いた。人の言葉ではあるが人の声とは思われなかった。障子を開けて声の元を辿ると、そこには季節外れに咲いた花のような鮮やかな色があった。それは鳥であった。
『モトチカ』
 と、囀ったと言ってよいのかどうか、黄と橙を混ぜた色合いの、カラスほどの大きさの鳥は、その頭になにか布きれを撒いている。それは長曾我部の兵士がつけるものとどことなく似ていた。
 この喋る鳥を、元就は瞬間的に、射殺すことを思いついた。すぐに元親の鳥だとわかったからだ。鳥はしかし、元就が見ていることに気付いたように、離れの方向へ飛び去った。離れには元親が眠っている。元就は今の季節ばかりは日差しに顔を顰めながら、鳥の後を追って離れへ向かった。予感があった。
 離れの内庭に面した部屋に元親は寝ている。その障子は僅かに開けられていた。世話役の侍女たちが暑さのためにしたものだろうと思われた。鳥がその隙間に入るのが見えたので、元就は庭から縁側に上がりこんだ。廊下に控えていた侍女が慌てて頭を伏せた。
「下がっておれ」
「は、はい」
 離れは静かであった。渡り廊下で庭を囲むような形になっている。部屋に入るといつもの包帯の白さがまず目に飛び込んだ。その白の腹の上、先ほどの鳥がひょこひょこと足を動かして居住まいを正していた。その対照的な色合いはしかし南国的であった。
 入ってきた元就に、元親は右目を向けた。
「目覚めたのか」
「……」
 目だけをソロリと動かしたまま、元親は一切動かない。元就は傍へ寄って座った。鳥が慌てて羽をばたつかせると、微かに元親の腹が揺れた。息をするだけの動きであった。
『モトチカ、モトチカ、オキナイ』
 元就には、鳥の喋ることが不思議であった。頭をからくり人形のように動かして、鳥は元親を呼んだ。
「……退くがよい、傷に障る」
 果たして通じたのだろうか、鳥は素直に元親の腹から退いた。枕の横へ飛んで首を傾げている。元就はこの鳥よりも、当たり前のように元親を労わった自分が不思議になった。否、労わったのではない、目覚めた元親の第一声を聞きたい興味が勝ったのにすぎない、と思いなおした。
「喋れるか」
 元就は元親を覗き込んだ。その目に映る己の姿が見えた。どちらにもなんの表情もない。光もない。あるいは、なぜ殺したと元就に問うたあの最後の瞬間よりも力ないものだった。
「我の言う事が聞こえるか。喋れぬのなら、聞こえているという証拠に、手を…」
 言い終わる前に、思いもかけない早さで元親は元就の膝を掴んでいた。それは厳島の砂を掴む仕草に酷似していた。元就はその手を振り払っていた。
「聞こえているならよい。侍医を呼ぶ」
 開いた左目は本来白くあるべき場所がどことなく黒ずんでいた。恐らく見えぬのだろう。
 元親は再び瞼を落とした。

 それから一週間もすると、元親は喋れるようになった。粥も食べる。奇跡的な回復力と言ってよい。だが喋ると言っても、ああ、と頷く程度だそうだから、元就は今しばらく元親を捨て置いて、その時国境近辺で起こっていた小競り合いの鎮圧のため兵を駆り出していた。
 それが、突然陣中に使いが来た。元親が元就を呼ぶのだという。元就は勝ち戦に士気向上を図りに来たのに過ぎなかったから、その日のうちに城に帰った。離れを訪れると鳥はそのまま内庭に住み着いたらしく、一番枝ぶりのいい木の上で羽を啄ばんでいた。
 元親は身体を起こしていた。その背を元親の部下が支えているのは、元就が許したからであった。入ると座した。多少なり力の戻ってきたらしい顔で元親は元就をツイと見た。
「…毛利、元就」
「我を呼び出すとは、いい身分だな。身体が治ったら、常に貴様が我を訪れるのだと思え」
「話しは聞いた」
 案外元親の声はしっかりしていた。そして言うのは、今後の四国に対する処置であった。
 またいつ容態が悪化するとも知れぬが、とりあえず元親が目覚めたからには、なんらかの対処をしなくてはならない。家臣らと議論して元就が出した結論は、四国には以前の通り元親を領主として置く、ということであった。海を隔てた知らぬ土地を、土着でないものが統治するのは困難を極めると判断してのことで、普段から領土の拡大より家の保身を説いてきた元就であるから、これに反対するものは僅かであった。
 その代わり四国の要所の城には、毛利から城代を置き、謀反の動きがないか常に探らせる。また、瀬戸内海の航海権利はほぼ毛利が占める。実際の土地の利権は元親に残るが、それで名実ともに長曾我部は毛利の傘下に入ることになる。元親はこれを呑んだ。
「あれほど大口を叩いたものが、随分あっさりと受け入れたものだな」
 嫌味を言ってみて、元就ははっとしたらしかった。確かにその勢力を削ぎ傘下に引き入れたが、長曾我部はもともと毛利と並ぶ程の実力を持っていた。となると、外交相手として対等に扱っても不足はないはずであったから、この言葉は相手に恨みを植え付けるだけになる。元就は忌々しげに鼻を鳴らした。
「負けた奴がどうこう言う筋合いはねえ。あんたの好きにするがいいさ」
 と、元親はやはりあっさりこう言うのだった。あるいはその淡々とした態度の内には、一族が処刑されなかったことへの安堵があったのかもしれない。
「随分と喋るようになったではないか。素直に恨めばよかろう」
「恨むさ。あんたらに殺された奴らの無念は、俺が一生かけて晴らしてやりてえくらいだ。だがこの世にも、俺にも掟がある。俺はその掟に従ってあんたに降る」
「自刃せぬのか」
 これが元就には一番疑問であった。元親が自害を考えてもおかしくないほど、長曾我部には打撃を与えていた。今更傘下に降るということは、長曾我部の名も矜持も、全て捨てるということを意味していた。例えば元就がこの立場であったのなら、今後誰かの下で生きようなどとは考えないだろう。
 要求を突きつけた立場でありながら元就が首を傾げたくなるのは、やはり元親の生死を、どちらでもよい、と考えていた要素が大きいであろう。元親が死んだとしたら、元就は長曾我部一族をことごとく処刑するつもりであった。そして困難ではあろうが毛利によって四国を治める。それは元親が自害したとしてもやはり取らなければならない道であった。つまりは、生き残った元親が要求をはね付けようが、それは元就にとって些事であった。
 元就の率直な物言いに、元親は笑ったらしかった。目だけがおもしろがっている。
「死んでほしいんならそうする。あんたの好きにしろ」
 元就は顔を歪めた。元親を殴りたいと思ったが、本当にそうすることはおもしろがっている元親には逆効果のような気がした。元就はなんと言っていいのかわからなかった。言ってみたいことが多すぎるような気もするし、何も言いたくない気もした。
 元親の背を支える家臣が平気な顔でいるのも、元就には不思議であった。主君を言いたい放題されて、こうも平然としていられるものなのか。元親は、元就が自分の家臣を気にすることに気付いたらしかった。
「忠澄、平気だ、さがれ」
「は…」
 忠澄は元親の身体をゆっくりと倒して寝かせた。そして仇敵とも言える元就に一礼すると、部屋を辞した。元親は傷がやはり痛むらしく、身体をずらされると微かに苦悶の表情を浮ばせた。
 入れ替わりに、鳥が部屋へ飛んできた。元親はその鳥を見て、今度は素直な微笑みを浮かべた。
『モトチカ、オタカラ、オタカラ』
「ああ、しばらくは休業だ。…お前も、今はどこかへ行くがいいさ」
 鳥は天井辺りを二周三周したかと思うと、そのまま風に揺られでもするように障子から青空に溶けるように飛び去った。元就は無感動にそれを見つめていた。元親の息が聞こえた。
「前にも言ったと思うが、俺は我慢ってやつが大嫌いでね。…なんだろうとあんたの好きにするといいが、口出しはさせてもらうぜ」
 なんという矛盾した言い草だろうか。元親は続けて、
「あんたもその方が、体裁を保つのに都合いいだろうよ。突然俺がなにもかもをあんたに委ねると言ったって、あんたの家臣も信用しねえだろう。しばらくは対等に扱ってもらおうじゃねえか」
「大人しく従いはするが、それは飽くまで阿諛追従ではないと言うか。…ふん、愚者は愚者なりに考えるものだな。体裁などどうとでも繕うわ。貴様が反骨を捨てるならば、それ以外はどうでもよい」
 元就は思いついて、
「…我に降るのは我慢ではないというのか」
 と訊いた。元親は目を腕に巻かれた包帯に落として、その切れ端を弄った。
「違うな」
 声に力があったとは思われない。

 それから一ヶ月、やはり中国四国ともに静かであった。城代は元親の帰国と同時に置くことになったが、既に瀬戸内海には安芸からの商船が盛んに行きかっていた。
 元親は外へ出て歩くまでになった。もう一月すれば四国に帰る算段であった。元就は政談と称してたびたび元親を置いた離れを訪れていたが、鳥はもう姿を見せる事がなかった。
 その日元親は木を背にして、内庭に作られた小川の辺に座っていた。打ち掛けを羽織っていた。赤と桃の色合いが眩しいどこか季節外れの、いかにも女ものらしいものだった。縁側に元就の姿を認めた元親が薄く笑みを浮かべると、まったく女らしいところは見当たらないのに、どこか艶やかさがあった。
 庭へ降りて、小川を挟んで元親と向かい合った。向こう岸へ渡された橋はあったがその手前から進む気にはなれなかった。
 元親はこれまで巧みであった。毛利側からの要求に難色を示し反抗するものの、結局は元就が望むような形に事を収束させ、尚且つ互いに嫌なところの残らないようにした。傍目には、毛利が遜って長曾我部を宥めるという形にも見えたから、家の自尊心は保たれるという点で長曾我部の家臣らの不満は最小限に抑えられた。元親の最初の言葉通り、口を出しはすれど元就の好きな通りになっているのだった。
(これは本当にあの鬼若子であろうか…)
 とすら思える、元親の外交家としての変貌ぶりであった。元就がこうして元親を訪れることにも嫌な顔一つしない。それは一騎打ちで元就に何か懇々と訴えかけた人とは合致しなかった。
「誰の打ち掛けだ」
「俺のだ」
「貴様は男だったと記憶するが」
「華やかな柄を着るのが好きなんでね。あんたは細身だし、俺よか似合うんじゃねえか」
「馬鹿な」
 その日元就は質素な浅葱色の小袖に、それより少し濃い肩衣を合わせていた。元就は、自分に元親の羽織る花の散った打ち掛けが似合うとは到底思われない。それはむしろ隆々たる筋肉を持った元親であるからこそ着こなせるのだと感じた。
「なぜ何も言わぬ」
「なにがだ」
 元親は軽く受け流して、木の根元に生える苔を撫ぜた。既に夏真っ盛りになっている安芸の日照りは強く苔も乾ききっていたが、木の葉のまばらに落ちる影の下苔を撫ぜる元親は、小川の水の乱反射に照らされていかにも生命を感じさせた。
「…貴様は天下が欲しかったのではなかったか」
「…天下ね。望んだことがないと言えば嘘だな」
 まるで今は諦めたかのような言い草だった。元就はここ最近このことについて考えていた。この男にしては非常にゆっくりとした思考で、
(我は天下などいらぬ…)
 と思うのだった。
 毛利は最初から強い力を持っていたわけではない。安芸国人の次男として元就が生まれた当初から、中国は時代の波に押し出されかき乱されたような混沌にあった。裏切りと謀略、天下への望みの浅ましさが幼い元就を取り巻いた環境そのものであった。毒は毒をもって制する他なく、元就はその兼ね備えた智謀をもってこの波をかき分け、ようやく中国統一を成し遂げたのであった。
 その頃には、もう元就には勢力拡大の望みは殆どなかったと言ってよい。
(憂いを削除する…)
 という一点にのみ、元就の力は注がれた。近々瀬戸内海を越えて勢力を伸ばすであろうと噂された長曾我部を完膚なきまでに叩いたのも、言うなれば憂いという名の恐れがあったればこそであった。
 ある程度の領地を手に入れ、それを憂いなしに治めることこそ、元就の一番の望みであった。その安寧の先に何を求めているのかまでは、考えてみたことはあるが、わからなかった。とにかく元就は、己の地を堅固なものにすることに価値を求めた。そして天下を望む者を軽蔑した。
 言葉の通り、元親が天下を欲したことはよもや一度や二度ではあるまい。元就はやはりこれに軽蔑を感じた。くだらぬ、と言って庭を去ろうとした。すると、
「元就」
 と呼び止められた。
「俺にはあんたのやり方はわからねえと言ったはずだ」
「それがどうした」
「あんたは寂しい奴だ。全てにがんじがらめに絡めとられて、身動きができねえでいる。だが、そんなはずはねえと、足掻いてるように俺には見える。足元に纏わりつく縁を断ち切ろうとして、断ち切ってしまって、何も聞こえない自分の内だけに篭ろうとしているように見える。俺にはそれがわからねえ」
 背筋を伝うように這い上がってきたものは恐怖だったろうか。目の前がちらちらした。それは乱暴なほどに全てを照らす太陽のせいではなかった。触れられたくない無防備な部分を拳で握りとられる思いであった。
 戦場で言われた時と違うのは、元親の言葉をまるで待ち望んでいたかのような自分が心の最奥にあることを無意識のうちに感じ取っていたからであろうか。
「ほざけ…!」
 目の奥が熱かった。熱さに任せて叫ぶと何か発散され、再び内にふつふつとしたものが篭るようだった。
「あんたは天下を望まないんじゃなく、望めねえんだろう。知略があっても武勇があっても、天下を望むには足りねえ。なにかもっと雄大で開けたものが、あんたには欠けてる」
 元就は橋を跨ぐように元親へ迫った。そして桃色の打ち掛けと一緒に胸倉を掴みあげた。
「我に負けた貴様が、そのような戯言をよくも言う!我は自ら望まぬのだ。天下など、所詮浅ましきものどもの見る愚かな夢に過ぎぬ!」
 揺さぶられながら元親はどことなく悲しげな様子を見せた。それがまた元就に、見下されているような感覚を与えた。気付くと元就の手は今にも元親の首を絞めやりそうなほどであった。
「なんで怒る」
「まだ、何か言うか」
「あんたはずっと俺に望んでいたじゃねえか。俺を助けたあの時から、ずっと」
 その目があまりに慈愛と憐憫に溢れていたので元就は気持ち悪くなって、自然息があがるのも知らず感情のままに元親を殴った。まだ完全に傷の癒えぬ元親はあっさり倒れて乾いた苔の上に頬を落とした。少し咳き込んで元親は元就を見上げた。
「違うわけはねえだろ。…さっきあんたは俺に何を訊いた。何も言わぬのかというのは、何のことを言った」
「黙れ」
「俺は言いたいことは言う」
「黙れ!」
「黙らせたいなら殺せ」
 そこには一寸の嘘も脅しも含まれていなかった。元親は本当にこの場で殺されてもいいと思っているらしかった。それをそのまま殺してやるのは元就の矜持が許さなかった。
 寂しい奴だ。
 元親はまたそう言って、目を閉じた。乾いて薄く黴じみた色になった苔の上に桃と赤の打ち掛けは明るすぎる上、元親の白の髪が痛々しいほどであった。
 なぜ元親を助けたか。なぜ離れを訪れたか。なぜ元親と話す気になったのか。これらの全てに納得のいく説明をつけることはできた。しかしそのどれもが虚構の上でしかない気がした。虚構だとすると、それは元就が自らの上に作り上げたものだと言わねばならなかった。
 目の奥の熱さが発散を求めるようになにかが込み上げてきそうになって、元就は拳に力を込めた。しかし溢れるものを抑えることはできずに、元親の打ち掛けの上にぽたりと落ちてそれが染みのようになった。
(我を理解するのは我だけでよい…)
 これは同時に、元就を理解し得るのも元就のみであるという意味を含んでいる。だが元就にはもう自信がなくなっていた。なぜこの男にここまで感情を動かされるのか、自身のことであるというのに、まるで靄がかかったように心の先が見えなかった。あり得べからざることであった。
『モトチカ、モトチカ』
 久しく聞かぬ声が聞こえた。それは樹上からであった。元親はうっすら瞼を上げて、久方ぶりに見る鳥の姿に微笑んだ。元就にはそれが不快であった。
「戻ってきたのか。バカだな…ここにはなんもねえぜ。おい、…」
 元親はその鳥の名前を呼んだらしかった。すると鳥はスイと元親の頭の傍に降りて首をかしげ、乾いた苔を啄ばんだ。そうしながらしきりに、モトチカ、モトチカ、と繰り返す。
(一人ぼっちじゃねえか…)
 と元親はあの時言った。元就が声を荒げたのは自分でも情けないくらい、それが図星であったからである。しかし同時になにものも元就には煩わしかった。そのために安寧を求めていたと言っても言いすぎではなかった。日が昇り落ちるまで、それ以外のなにものをも見ぬことを幾度も夢に見た。
 元親は見知らぬ土地の見知らぬ城にいても一人でいることはできないらしかった。
『モトチカ、モトチカ、カエル』
「すぐにな…」
 と元親が言うと、鳥は再び樹上にあがり、大人しくしていた。元就は呆然と元親を見下ろした。元親が元就を見ることはなかった。見たとして、あの憐憫以外の眼差しをくれるとは思えなかった。

 予定通り元親が一月経つと四国へ帰った。傷は完全に癒えることは恐らくないから、元親はかたわの身で一生を過ごすことになるだろう。元就は離れをもとのまま空けておくことにした。何も元親のそこに戻ってくることを期待したわけではない。元就にそのような感情が生まれようはずもなかった。相変わらず元就は自分を省みることをしなかった。
 あの鳥も、元親と一緒に四国へ帰ったらしかった。唯一の心残りは、元親が安芸にいるうちにあの鳥を射殺してしまわずにいたことだった。
 次元親に会うとすれば、それは元親が安芸まで会談に来る他なかった。それはあと三月は先のことであった。しかしそれまでにしなければならないことは山積みされていた。城代からの報告に逐一対処・改善を施さなければならないし、まだ国境の小競り合いや一揆は絶えない。それは元就がいかに人を駒として扱おうとも、それを例え改善したとしても、領主として常に向き合わなければならないことだった。
 元就の中国支配は、言うなれば元就の人柄そのままであった。だとすると、元親の四国支配も、元親の人を現していると思わねばならない。四国には中国に無い結束力があった。
 表向き、ことの全ては順調に見えた。しかし元就にはまだ拭いきれぬ不安があった。それは元親との再会であって、それを忘れるために政務に没頭した。そういう自分を認めたくない気持ちは余程強かった。
 なんと言うだろうか。
 元就は夢に見ることさえあった。三月など光陰の如き早さで過ぎ去るであろう。元就はあるいは、再会してなにも言われぬことのほうが、それを恐ろしいと言葉に思ったことはないにしろ、恐ろしかった。
 いつの間にこれほど絆されたのか。元就は狼狽し、拘泥した。元親の顔がずっと消えなかった。この苛立ちはどこにぶつけてよいものでもなかった。苦痛であった。
「死ぬがよい…」
 呟くとそれは名案のように思われた。元就は以前よりもよく海を眺めるようになった自分だけは認めぬわけにはいかず、その水面のあまりの眩さが憎らしく、しかし溌剌とした光がどことなく羨ましかった。