京の春の陽気は肌を柔らかく撫で、どこかから花の香りを誘う。そのふわふわした空気は音を幾許か吸い取ってしまうかのようで、そしてその質量がそのまま空気中に流れ出て体内にまで感じられるような、独特の重さがあった。纏わりつくようなそれが、佐助はあまり好きではない。平和を象徴しているような気がする。 目の前にいる男の、好きな季節というものを聞いてみたい。幸村は夏が好きだ。燃えるような性質からして、それはいかにも幸村らしい。ではこの男はどうだろうか。 (春にしては死の匂いがする、夏にしては涼やかすぎる、秋にしては凶暴すぎる、冬にしては鮮やかな熱がある。……どーでもいいか) そんなことを考えていたら、悟られたらしい。政宗は不機嫌そうに鼻を鳴らした。 「お前な」 「なァに?」 佐助は伊達屋敷に呼ばれた。突然ではあるが、大体用件は想像がついたし、その予想に反せず、当然泥棒の手配の話しであった。 その話しはもう一段落している。幸村から正式に命じられた仕事だから、おろそかにするつもりはないし、既に佐助の部下、一番信頼できる十勇士たちに事情を説明し、諸々の情報収集をさせている。なにぶん大坂城に忍び込むのは、骨が折れる。 城の構造、金の在り処、まずはそれを探ったら、次にどう慶次たちを動かすか、それを考えなければならない。今は前者二つに手間取っている。政宗に尋ねられるまでもなく、佐助はそれを報告した。 政宗にしても、佐助に聞きたいことはそれだけのはずだ。佐助としては、政宗が慶次に肩入れする理由や、幸村に持ちかけた取引の内容を、知りたくないわけではないが、まさか素直に答えるはずもないので、なにも質問しない。ただ自分に与えられた責務を果たすだけだ。 ということは、お互いこれで用は済んだはずなのである。事実、政宗は、よし、とりあえず今はそれでいい。急ぐ必要はねえから、慎重にやれ。また俺から使いをやると言って、それで会話は終わったのである。なのに佐助が部屋を立ち去ろうとすると、 「もう少しいろ。時間になったら教える。それまでは部屋から出るな」 などと、わけのわからないことを言った。入ってくる時、これまで世間話をしに来た時と同様正面から堂々と「真田の小姓」を装っているから、それがまさか天井裏から出て行くわけにもいかず、佐助は苦い顔をしながら、しぶしぶ一度上げた腰を下ろした。 仕方ないのでどうでもいいことに思いを馳せていたところを、悟られた。無理矢理座らされているのだから、これくらいのことは許して欲しい。そういう嫌味のたっぷり篭った「なァに?」であった。 「まだこの前のこと怒ってんのか」 「そう思うんならいちいち言わない方がいいんじゃないの?だからあんた嫌われるんだよ、」 俺にね。と言ってしまうと、佐助は不遜な笑みを浮かべて、もう取り合わなかった。政宗は珍しく言い返しもせず、腕を組んだまま深く溜息を吐いた。今までと立場が逆だ。政宗の方が、佐助の取り扱いに手を余している。しかしそれが佐助にとって気分のよいものかと言えば、そうでもなかった。 飲み屋の時と違い、政宗を困らせてもなにも楽しくない。政宗が自分に好意を持っているという事実は、最早明白だった。佐助はそれを肌で感じたし、慶次からも聞いた。佐助は大抵の人になら、好意を好意で返すことができる。ならば政宗にもそうしてやれば話しは早いし、佐助も窮屈な思いをしながら政宗と二人っきりでいる必要はないのだが、どうしてもそれができないのである。 一つには、以前佐助自身が言ったように、「政宗はいつか幸村を殺す気でいる危険人物」という事実があるし、一つには、単純に、佐助が根本的に政宗を「嫌い」だという、どうしようもない感情が関与している。しかしこれに関しては、本当に嫌いなのかどうか、わかりかねる部分もあった。嫌いなら会わずにやり過ごす方法が、いくらでもあるはずなのである。それをしない。窮屈な思いはするが、「いろ」と言われて「いてやる」くらいはできる。少なくとも、憎くはない。なぜ政宗が嫌いなのか、それもよくわからないが、ともかくいろいろな矛盾が佐助の中にあって、いつまでも整理されない。それが今の状況を作っていた。 ただ、いくら政宗が佐助に好意を抱いていたとしても、佐助としては、政宗を嫌いだという態度を是正することはできない。それだけははっきりしていた。だから口に出す。 どれほど時が経っただろうか。佐助も腕を組んで、明り取りの窓すらない部屋の床をぼんやり眺めていたが、時間の流れは思ったより遅いらしい。今は夕刻だが、部屋が暗いせいで既に蝋燭が灯されている。さきほどより、長さが変わっていない。 政宗が小声で言った。 「お前、どれくらい時間をかける?」 質問の意味がわからない。聞き返すと、また別のことを言う。 「こういう偽装の仕方もどうかと思ったんだが、他にいいのが思いつかなくてな。お前が俺の屋敷に来て、俺も真田の屋敷に行く。頻繁になりゃ、いくら隣同士だって、他人から奇妙に映らないなんて保証はねえだろ。だから、一応の保険なんだがな」 「まわりくどいなあ……。なに?今のこの状況と関係してんの?」 「先にメリットを言っといてやるよ。お前はこれまでも、ここに出入りしてた。部下の一部にも、顔が知れてる。『真田の小姓』としてな。……ま、小十郎なんかには忍びだとバレてるが、それは別にいい。お前はその立場を使って、好きに情報収集できる。今までと同じだ。俺はそれを黙認してやる。他家の忍びを使うんだからな、それくらいは目を瞑る。もちろんこっちも全力で情報を隠す。……として、だ」 「はあ」 「お前には、俺と恋仲になってもらう。だから今俺とお前は、事の真っ最中ってわけだ」 「はあ、なるほど。そうすりゃ俺が出入りしても、逢引ってわけね……。……って、おいおいおい!!あんた頭おかしいんじゃないの!?なんで俺様があんたと恋人ごっこしなきゃなんないの!」 先の質問の意味も、ようやくわかった。こんなことを平然と言うあたりは、これ以上ないくらい政宗らしいのかもしれない。が、それにしても突飛だ。 「理由は今言った。二度言いたくはねえな。万が一にもバレるわけにはいかねえんだよ。一番動きやすいし、手っ取り早い。そういうことだ」 「だ、だからってな、あんた…!無理があんだろ!どんだけ俺のこと好きなんだよ!」 「好き?」 言ってしまって、佐助ははっとした。政宗は小首を傾げて、ちょっと考えている風だった。 政宗の自分に対する好意(らしきもの)を確認していたのは本当だが、それを本人に確かめるつもりは毛頭なかったのである。元来口の軽い性質の佐助だったが、まさかこんなところでそれが裏目に出るとは、夢にも思わなかった。 何を言うつもりか。そればかりが気になって、佐助はしばらく動けなかった。ようやく政宗は口を開く。 「俺はお前のことを、好きでも嫌いでもねえよ。…特に忍びのお前は、おもしろい奴ですらねえな」 「……忍びの、俺だって?」 好きでも嫌いでもないというのは、正直予想だにしない返答だった。しかしそれよりは、その後の言い回しのほうが気になる。なにか確信的なことが、政宗の中にはあるらしい。 佐助はせせら笑った。 「忍びじゃない俺なんて、存在しないよ。一生、死ぬまで、俺は真田の旦那の道具なんだから。それともなに?また、俺は人間だとか、そういうこと言って、……」 佐助は続きを言えなかった。政宗がじっとこちらを見つめているのである。別にそれだけならいつものことで、気にするようなことではない。だが今は、政宗をせせら笑った自分が、酷く小さく感じられた。 (……俺が嘘を吐いてるからだ) 人にも自分にも、これまでいくらでも嘘を吐いてきた。政宗はきっとそれすら悟っている。佐助は悔しかった。佐助は政宗のことがよくわからない。わからないのに、一方的に自分を暴かれる。これ以上気持ちの悪いことはない。その気持ちの悪さが、佐助の口を止めた。 「……俺ァあの時、お前に言いたいことは全部言ったぜ。……今は、待ってんだ」 あの時とは、当然玉川屋で佐助と飲んだ日のことだろう。 「……待つ?なにを?」 そういえば、今日の政宗はまだ笑みを見せていない。愛想笑いはもちろん、人を食ったようなにやにやした笑いすらない。たまに思い出したように瞬く瞼を眺めやって、佐助はそんなことに気が付いた。 政宗は答えなかった。いつも肝心なことは答えない。佐助は、時間の酷くゆっくり流れることを思った。それは穏やかと同義であり、政宗とこの時間を共有していること、それが奇妙に新鮮味を帯びていた。 「竜のダンナ、俺を愛妾にしたいんならさ、かわりに聞きたいことがあんだけど」 案外あっさり承諾した佐助の意外さに対してであろうか、政宗は、愛妾ねえ、と言って、ようやく笑った。微かに口の端を上げただけ、とも言える。 「好きな季節、教えて」 「季節?……」 案外と政宗は答えるのに時間を要した。考えてみたことがない、とぽつりと呟かれて、文化人としての一面を持つ政宗にしては、意外なことだと佐助は思った。 「……春は割と好きだぜ?」 「適当だなあ」 「ハ、自分に春が似合うなんて思っちゃいないさ。適当にもなりたくなるね」 奇妙なこと聞きやがって。 政宗はそう言うと、しばらく笑ったままでいた。 半刻ほど経って、佐助はようやく解放された。いつも政宗に会った後はどっと疲れが出るのだが、今日はそうでもなかった。政宗が穏やかだったせいだろうが、それによって幾分か自分の心持ちも変化したせいもあるだろう。 その帰り際、佐助は小十郎につかまった。忍びとして、他家の正門から堂々と出て行くのは未だにむず痒いものがある。そういう玄関をくぐる瞬間に、小十郎はいきなり現れて、むんずと佐助の腕を掴んだかと思うと、そのままずりずり自室へ引っ張って行ってしまったのだ。 (主人がああだと部下もこうなるのかねェ…) と、半ば諦めながら佐助は巨躯を見つめた。茶を出される。饅頭も出される。そして向かい側に、小十郎が座っている。その顔は、神妙と言えば神妙なのだが、どこかしらから怒りの雰囲気を感じないこともない。なぜ怒りなのか。なにかしただろうかと思って考えてみるが、そもそも小十郎との接触自体少ないのだから、思い当たらない。 小十郎は静かに切り出した。 「俺は政宗様の趣味はよく知っている」 「……はい?」 佐助は首を傾げた。なんとなく愛想笑いを浮かべている。そしてすぐに思い至った。小十郎は、泥棒の件のことは一切知らないのだ。そして政宗が提案した建前を、佐助をはっきり忍びだと認識している小十郎にも使っているとしたら、小十郎にとっては、政宗が忍びと恋仲になった、そういうことになる。 それはやばい。やばすぎる。 「は、はは、……いやあ〜……はは…」 無意味に笑いが込み上げてきた。小十郎は腕を組んで、厳つい顔をじっと佐助に向けている。どうしてこうも伊達家の人間は、不躾に人の顔を眺めるのか。 「政宗様は当然男色も嗜まれる。小姓の恋人も、今も幾人かおられる。俺はそれにどうこう言うつもりはねえ。別に珍しくもない。……だが、わかるな、猿飛?」 お前だけは、政宗様の恋人になっちゃならねえ人間だ。小十郎がいうのはそういう意味だ。それは佐助が一番よくわかっている。忍びと常人との間には、それほど明確な一線が引かれている。佐助とて、もし「真田の小姓」という嘘がなければ、当然受け入れなかった。この嘘にしても多少問題がないことはないが、まだありがちな話しだ。 それはいい。何が嘘であろうと、泥棒の件を政宗が小十郎に話す気が無い限り、小十郎にとっての真実は、今小十郎が信じているものでなくてはならない。それだけは間違いない。 どう納得させたものか。 (……黙っておこう、右目の旦那みたいな手合には) 適当なことを言ってごまかすこともできないではないが、佐助の十八番、「めんどくさいなあ」が顔を出したのである。黙っていれば、殊勝な態度と取れないこともないだろう。 佐助は心持ち申し訳なさそうな顔を作って、小十郎の反応を待った。舌打ちが聞こえた。 「てめえが一度ならず政宗様に刃を向けたこと、俺は忘れてねえぜ」 (……ああ、そっちも、か) 秀吉が天下を治める以前、伊達は武田と幾度か戦った。佐助はその戦場で政宗と一戦交えている。しかし刃を向けたというのなら、主人の幸村とて、それこそ幾度も政宗と死闘を交わし、また狂おしいほど、再び戦うことを望んだ。佐助のみが責められるのは、佐助が忍びであるからに他ならない。 底が見えた。そう思って、佐助は表情を消して小十郎を眺めた。小十郎の目はいつでも曇りがない。竜の右目であるからには、曇りなどあってはならないのだろう。 「右目の旦那、あんた、忍びは苦手だと言ったことがあったね。なぜだか、教えてあげようか」 「……なんだと?」 佐助は軽く笑った。何の感情も湧かない。小十郎の態度は正しい。 「それはあんたが、忍びを卑下してるからだよ。あんたは忍びの正体を知らない。得体の知れないものは怖いし、嫌いになる。それだけさ」 小十郎は言葉を無くして、否、あえて何も言い返さずに、佐助が去るのも引き止めなかった。 佐助は真田屋敷を通り過ぎて例の長屋まで早足で歩くと、布団を引っ被った。しかしすぐに出てきた。長屋を出て、城下に出た。佐助の存在に気を留めるものなどいなかった。 (得体の知れないものは、怖いし、嫌い?) それは政宗のことだ。 春の柔らかな空気は押し潰されそうなほど重かった。 |