時は、少し遡る。慶次が佐助に許されて真田を訪れる前、伊達家の使者が真田屋敷の門を叩いた。まだ朝方で、ふわふわした空気に誰もが「春眠暁を――」の有名な句を思い出しているような頃である。眠たげな眼を少しでもしゃっきり見せようと努力する門兵に、伊達の使者はただ朴訥と、 「先日の碁打ちの礼がしたいと、主の仰せである。今より伺いたいが、如何」 と述べた。軽く、寝耳に水のような話であった。 ここには一つ、伊達家と真田家の格の違いが現れている。どちらも由緒正しい家柄ではあったにせよ、名門伊達家の所謂ブランドは、政宗自身の奥州での活躍も手伝って、遠くは鎌倉の頃よりも一層冴え冴えとして大名間には聞こえている。 その伊達家を、真田が訪ねるのならまだいい。逆となると、それなりの準備をせねばならぬというのが、当然の認識であった。だから思わず門兵も聞き返した。 「い、今から」 「ご心配めさるな。礼と言っても、ただの茶飲み。幸村殿と会う口実にござる。近頃は何事にも堅苦しく、儀式ばっていけないが、こう屋敷が近しくなったのもなにかの縁。今は農民のごとく、ただの隣人と思うて、とのこと。よく、幸村殿にお伝え頂きたい」 農民のごとくとは、政宗の言葉と思えばまた風流ですらある。門兵はそのまま幸村に伝えた。その急さに、さすがの幸村も少し慌てた様子ではあったが、すぐに取り直し、 「さもあれば、お断りもできまい。よい、すぐにでも来られたしとお伝えせよ。なに、我家は取り立てて準備が必要なほど、さもしいわけではない」 門兵はこの言葉に、真田の血か幸村の天性か、純朴な懐の深さを感じた。 さて、やり取りの後、政宗は本当にすぐやってきた。軽装で小姓を一人連れ、出迎えた幸村へは、軽く笑って挨拶を済ませる。 幸村は茶道にあまり通じていないが、それなりの形として茶室はある。そこへ政宗を通した。政宗は小姓に外で待つよう言い渡し茶室に入ってしまうと、自然、幸村とほとんど友人のような近しい距離で対することとなった。その雰囲気をかえって増長させたいのか、政宗は座ると同時に楽に胡坐を掻いた。 誘いをかけてきたのが例によって政宗からであるにしろ、幸村にはとまれ言っておきたいことがあった。言うまでもなく、 「先日は、佐助が世話になり申した」 ということである。それを考えたら、むしろ幸村の方が礼だか詫びだかをしなければならないような気分にすらなる。普段自分では佐助の身分を省みないが、他家に対してまで無頓着になれるわけではない。所謂、「出すぎた真似」ではないかと思うのである。だが政宗は至ってけろりとしていた。 「俺が誘ったんだ、気にするな。もっとも、向こうは気にしてるかもしれねえがな」 「気にするとは、何を。無礼を働いたのなら、叱らねばなりませぬ」 「Ha、それならあいつの首を刎ねたほうがいいぜ。俺が言ってるのはそういうことじゃねえよ。なにも聞いてねえのか?」 なにも、と素直に答える幸村に、政宗はふうんとおもしろげに首を傾げた。何か言いたいことがあるような素振りなので、幸村は横道と知りながら、追求せずにはいられなかった。 「あやつめの失態は某の失態。何かおありでござったろうか、政宗殿」 政宗は答えず、とりあえず茶を、と催促する。礼と言いながら亭主を務める気もなさげだったのは、他家であるという理由ばかりではなく、幸村が茶を点てるという、政宗にしてみれば奇妙この上ない姿を、少し見てみたかったからだろう。 「あ。これは失礼した。では、稚拙ながら」 と、やはり幸村は素直に動いた。しかし言葉の通り、その茶筅を掴む手振りからも、普段あまり茶に馴染んでいないことが伺える。予想通りだったのか、政宗の幸村の手の動きを見る眼差しは、どこか優しげである。それが気になったらしい。 「……呆れておられるのか」 半ば本気で伺っている様子の幸村に、からりと笑ってみせる。 「いいや。俺ァあんたの手に槍が握られている所しか見たことが無い。前の碁の時もそう思ったが、あんたが小さいものを持っていると、すぐにでも壊しそうで危なっかしいな」 「む、そ、そうでござるか…しかしそれを言うなら、某も政宗殿の平生の姿が、奇妙でならぬ。……そう言えば、あの碁打ち以来、まともに言葉を交わしもしていない。つくづく……」 「ああ、つくづく思うな。……こういうのを、不具合というんだ、真田の。俺たちは戦場でしか交わることができねえ人間だ」 あまりにはっきりそう言ってのけた政宗に、幸村は瞠目した。自分が思うことをずばりと言い当てられたからかもしれぬし、それよりは、言葉にならぬ気持ちを、こうもあっさり形にされて、呆気に取られたからかもしれない。 「そうは言って…ここが戦場でないのは、また奇妙」 「そうだな」 互いにそれ以上核心には触れない。言ってはいけないと思っているようである。両者共これ以上ないほど相手を理解していると思いこんでいるのは、その考え方や思想、例えば幸村が「戦は終わらぬ」と思うこと、政宗が「戦は終わったはずでなければならぬ」と思うこと、そんな上辺のことではなかった。 なにを言うにしても、戦場で形作られる自分と相手のみが、この二人の間では揺らがぬことだった。それが今、幸村の内にも、政宗の内にも、すんなり理解せられた。これは奇妙な、一種の悟りの境地であったかもしれない。 「本題に入る」 と俄かに政宗が言ったのは、幸村の点てた茶を一口二口飲んでからだった。 武将としての勘か、幸村は、これはなにかあると、すぐに身構えた。期に反せず、 「ここからは、俺とあんたの契約で、ある意味じゃ政治だ。俺は、あんたが乗っておかしくない条件を用意してきた。乗るか反るか、今決めてもらおうか」 政宗は途端に一国の主の目になる。幸村は渋い顔をせずにはおれず、しかし、低い声音で頷いてみせた。幸村にしてみても、上に立つものとしての意識が、薄いわけではないのである。 契約の一つの形は、労働にも似る。その働きの見返りとして、どれほどの報酬を得るか。政宗が幸村にした話を当てはめるとすれば、まず働きとして、佐助を使え、ということ。しかし政宗はそれを先には言わなかった。慶次が持ちかけた泥棒の件については一切口に出さず、まず、 「あんたにも、いずれ子供ができるだろう」 と振った。確かに、幸村の妻の腹には今子供が宿っている。生まれるのもそう先ではない。楽しみでもあり、密やかな心内としては不安でもある幸村は、訝しげに頷いた。それがなんだと言うのだと、真っ先に抗してしまいたい気持ちを抑えているらしい。 「俺にも、子がある。……例えばだ、真田。この先、万が一戦があるとして」 この時、幸村ははっとしたに違いない。政宗の「万が一」という言い方が、あまりにも悲痛すぎ、また、心に響くものだったから、政宗が以前幸村に見せた態度のわけが、はっきりとわかったのである。 (政宗殿は真に平和を願っておられたのか……) と理解すると同時に、あまりに自分の視野が狭かったことをまざまざと突きつけられ、衝撃であった。が、そんな幸村の様子を悟ることもなく、政宗は続ける。 「再び、俺とお前が敵対する事も、あろうな」 「そ、それは…なにゆえ、今、そのようなことを申されるのか」 政宗は苦笑したらしい。幸村の「今」の後ろには、「この平和な世に――」と、付くとでも思ったものか。 「今だからこそ重要だ。…真田。今、世はまとまってきている。最早遠く室町の頃、世はさんざんに乱れきった。ゆえに、誰もがその乱れを抑えんと立ち上がった。わかるだろ?早くは北条、今川、…武田、そして織田。そしてこの俺も、天下統一のため立ち働いた。が、結局、収束する先は豊臣だった。俺は気に入らねえが、世は豊臣を選んだ。そのまとまりが再び、戦火になるとしたら、」 世は二分されるしかない、と政宗は言う。幸村は、そのようなこと、考えてみた事がない。そうでなくとも、世が二分されるなどという大胆な構図は、そう易々と実感として描けるものではない。 で、すると、どうなるというのか。幸村はいつの間にか政宗に釣り込まれる形で聞き入っていた。 「巨大な戦いは、巨大な犠牲を生む他ない。すなわち、半分に分かたれたこの天下、半分は死ぬるということだ。そして、もし、伊達と真田が相対することがあれば、どちらかが消える。…ここまで、いいか」 「…ま、……待たれよ。貴殿の話は、もしものことでしかないでござろう。それを言えば、我らが共闘するということも考えられましょう」 幸村にはとても現実感をもってこんな話を聞けるものではない。政宗の言い方はまるで、伊達と真田が天下の主人公となって戦を起こす可能性がある、そう言っているようで、まさかそんなことはあるまいと単に否定したくなるのも無理はなかった。 だが政宗が言うのはもっと違うことらしい。 「それならばそれでよし。真田、俺が今なんの話をしているのかわかるか。契約だ。…その言い方が嫌なら、約束とでも、絆とでも言ってやろうか。答えろ、真田。あんたは真田の家が消えるとしたら、どうあがく」 「……?」 「逆を言う。伊達が消えるとする。その時、俺がどうしても伊達は消したくない、どんな形であれ、伊達の名を、先の世に伝えたいと取りすがったとしたら、あんたはどうする」 これだけ言われても、幸村には政宗がどんな答えを望んでいるのか、わからなかったろう。しかし、先の「子――」という一字が、幸村の頭をさっと通り過ぎた。 「……あ、貴殿は、子を……子を、某に託す……」 「そうだ。消える直前の炎から、種火をもらう。いつかまた生を燃やすため。……保険は、いくらあっても困るというこたァねえだろう?真田、俺はな……」 ここで初めて政宗は言い淀んだ。が、すぐに意を決したように、 「あんたほど、心の底から斬りたいと思った相手はいねえ。だから、いざとなれば、俺はどうしてもあんたを斬るだろう。……これが、俺のケジメだ。これから先、どんな変事が起ころうとも、俺は、あんたの子孫だけは、何を措いても守ってやる。どうだ、飲むか」 「政宗殿」 しばし幸村は、言葉もなかった。そしてようやく、 「それは、某の身に余る」 と呟いた。政宗にはその意味がよくわかる。家の存亡に関わる約束事をするのは、たとえ口約束でしかないとはいえ、幸村一人の手に委ねるには大きすぎる、というのだ。 「政宗殿はそれでよいかもしれぬ。……某とて、うんと頷いて差し上げたい。何よりも心強い絆であろうと思う。が、…伊達と真田は、あまりに違いすぎる。卑下するのではないが、某は生まれた時からお館様のもとで、一武将として立ち働いて参った。そこを比べると貴殿は生まれながらの国主。されば、某が伊達の子をしかと守るとは、とても……」 「つまらねえことを言うな」 気付くと、政宗はじっと幸村を睨んで、さっきよりもずっと、近しい距離にいた。幸村は思わずぐっと黙り、その眼の強さに引き込まれそうになった。 (―――これが、人を惹きつけてやまぬ) と、思う。 「……じゃあ、こうしようじゃねえか」 と、ようよう政宗が、豊臣の金を奪う話を出したのは、この後だった。 この危険に加担をするかわり、さっきの約束を俺はきっと守る。だから佐助に命じろ、と言う。しばし考え続けた幸村が結局どうしたのかは、政宗が帰ってから、佐助が幸村に告げられた言葉からわかる。 しかし佐助に告げる頃には、幸村にも、政宗がこの馬鹿らしい発想の元に、二人だけの秘事を置いたわけが、しっかり飲み込めていた。考えれば考えるほど、それは、 「――俺は、またあんたと戦いたい」 という、告白でしかなかった。 幸村にとって、話を承諾する理由に、これは充分だったとも思われる。 結局誰にも知られることがなかったこの約束が後年生きることにはなるが、それはまた、別の話である。 そして、幸村が「道理と思って従う」と慶次に述べ、内々のうちに佐助へあれこれ命じて幾週間か。最早臨月を迎えようとしている妻の腹をさすってやりながら庭を眺めるうち、ふと気付き、幸村は妻を奥へやった。 「なんだ、佐助」 と、庭の奥に拵えられた小さな木戸の向こうへ投げかける。果たしてひょいと戸をくぐり、入ってきたのは佐助である。そのばつの悪そうな顔は、少し前に見た事がある気がした。 「ああもう。別に、邪魔する気じゃなかったのに」 「馬鹿を言え、そのような気を遣うな、むず痒い。……ところでなんだお主は、また女郎買いか」 佐助の驚きようは、見抜かれたゆえであろうか、否、このようなやりとりは前にもしたのだからそれはおかしい。違ったか、と思って訊ねようとすると、かえって肯定された。あー、そう、そうね。そうです、と投げやりに言う。それがまたいかにもおかしかった。 「……大概にしておけ」 と、幸村にしては珍しく窘めの言葉をかけた。あるいは、佐助がひどく疲れているように思ったのかもしれない。ボサボサの髪をがりがりと掻く佐助はしかし、そんな幸村の言葉は歯牙にもかけず、存外軽い足取りで傍まで寄った。 「さっきまた、小介から連絡があった。…旦那も知ってると思うけど、近々、桜狩があるでしょ」 「おお、確かにな。太閤殿から諸大名へ直々にお達しがあった。なにやら趣向を凝らしたものらしい。各々好きなように仮装をせよ、とか。一体誰の発案であろうな」 「さあ、誰でしょうね」 と、佐助はもったいぶった言い方をした。 「…あ、もしや」 幸村に答えさせるのを故意に防ぎ、佐助ははじめてにやりと笑った。 「決行はその日にする。酒も入る、民衆と大名の区別も付かない、城は手薄。忍びにとっちゃ、これ以上ない舞台だ。風来坊にもすぐ手配させる。…短い間に、小介もうまく入り込んだもんさ。忍頭として、鼻が高いよ。……ま、桜が散る前に、太閤さんに一泡吹かせてやろうじゃないの」 「そうか、ご苦労であった。……此度は、俺の勝手で、すまなんだ」 佐助はまたちょっとびっくりしたらしい。幸村に素直に謝られることなど、滅多になかったのだろう。 「んなのいーって。事情がどうあれ俺はあんたの命で働くんだから、今更ぶつくさ言いはしないさ。……任せておけって、あんたが引き受けた以上、面目は潰させない」 「……うむ、有難いこと」 まだ真面目に頷く幸村に、佐助はいつもの呆れ顔で溜息を軽く吐き、その場を去ろうとした。が、不意に、茶室での出来事を思い起こさせる香りが佐助から漂い、幸村は気付くと呼び止めていた。不思議そうに幸村を見下ろす佐助を、それよりも不思議な顔で、幸村は、 「なぜ、お前からその香がする?」 と訊ねる。その香とは。 言うまでもなく、普段政宗が着物に炊き込んでいる香のことである。幸村は昔から鼻がよく、茶道には疎くも、香道は、一度嗅いだ匂いならば二度と忘れぬほど、得意としていた。ただ具体的な名前をすぐ忘れてしまうので、やはり疎いと周囲からは思われている。 が、佐助は。幸村が嗅覚に優れていることを、よく知っていた。それで、黙り込んだ。 「政宗殿と、なにかあったのか」 なにかとはと、具体的な想像までされたわけではない。幸村は自分で言って、とても信じられない。が、思い起こせば――政宗が佐助を気に入る要因だけは、確かにあったような気がする。飲みに誘った、というだけでも幸村には奇なることと思われる。 佐助、と追求すると、いつもの苦笑が返ってきた。その笑みに似つかわしい手の振りも加え、 「なにもないよ、」 と言って、立ち消えてしまった。 その場に残る香ばかりが、佐助の自然な笑みを、不確かなものにしている。 |