お主はよう働くのう、という言葉が降って来たのは、連日連夜続いた任務がようやく終り、否、信玄に逐一報告することによってようやく終わるという時であった。報告するまでが任務である。まだ年若い忍びは、ぽかんとして主の主にあたる人物を、はじめて見る生き物のように眺めた。
「……それが忍びというものだと心得ます」
 とりあえずは大真面目に答えてみた。
 佐助の主は武田家傘下の真田昌幸の次男、弁丸である。と言っても、まだ元服まで数年ある若い主なので、佐助はむしろ昌幸と信玄からの命で駆り出されることが多かった。つまりは、昌幸に仕える他の忍びたちとなんら変わりがない。
「佐助!」
 と、その剛健な身体に見合った低く重みのある声で呼ばれ、また佐助はびっくりすることになった。信玄がその名を覚えていたことに、である。佐助が武田・真田の忍びとして働き出してから、まだ日が浅い。上に、信玄とまともに対峙するのはこれがはじめてであった。
 思えば最初の時から、どうも自分の認識と周りとが、食い違っているように思えてならぬ。例えば、今こうして自分と信玄が対面していることにしてもそうであった。
 信玄に報告する事柄は、当然先に昌幸へ伝えたものを、命じられて運ぶのである。が、忍びは卑しく思われるのが常であるから、通常情報を伝える経路は、佐助から昌幸へ、昌幸が改めて選んだ使い、もしくは昌幸自身から、信玄へ……という道を辿る。が、昌幸はその中途をはぶく。
 自分のような、飽くまで武田の部下である真田の忍びでしかないものが、信玄に直接目通りするなど、平気にあってよいのだろうかと、佐助が戸惑ったのはその点である。が、昌幸がその狡知をうかがわせる食えない笑みを浮かべて言うのは、
「手間ではないか」
 ということである。別に伝えるべきことは全て佐助の頭に入っているのだから、わざわざ他のものを介すのが面倒だと、昌幸ははっきり述べるのである。まるで信玄を軽んじているようですらあるその言葉は、素直には佐助の内に落ちなかった。佐助は里で忍びとして生きる術を学んだが、そこで日々刷り込まれたのは、
「忍びとは、卑しく、影となりて生きるもの……」
 という常識なのである。卑しいものは世間に出てはならぬ。影は光に寄り添う存在でありながら、決して光と相容れぬ。忍びとは、そうしたものだ。
 そして佐助も、この常識になんら疑問を抱いていなかった。ものごころついた頃には里で修行をしてい、金で動く大人たち、それが全うする使命の陰鬱さ、重大さをまじまじと見てきた佐助には、むしろ自分の存在を表す道標のようなものですらあったのである。
「さ、お前といつまでも無駄話をしていても仕方がない。お館はそのような些事気にせぬゆえ、行け、行け、」
 半ば放り出されるような形で、信玄の館へ追い立てられる。まったく不可解であった。
 昌幸だけでももてあましているというのに、佐助はまた、信玄も不可解であると知らねばならなかった。それが、佐助!と呼ばれたこの時であった。さすがに訓練を受けているだけあって佐助は容易に顔色を変えぬが、なにを納得することがあるのか、うんと口を引き結んで頷いた信玄はあっと思うほど素早く佐助へ近寄り、その肩を両手で鷲掴み、
「昌幸が息子を、ようしてやれ」
 などと言うのである。佐助はもうわけがわからなかった。かっと顔が熱くなった理由も、わからぬ。

 翌日真田の庄へ戻ると、忍びが常時詰めている屋敷のそばで、木刀を抱えた弁丸が待ち受けていた。その両脇で、同僚の忍びの者が困った表情でなにやら話し合っている。佐助はちらと嫌な予感がした。思ったとおり、佐助の姿を認めた二人はぱっと顔を輝かせ、さらに弁丸も佐助の存在に気付くと、一も二もなく、
「どこへ行っておった!」
 と、駆け寄ってくる。
 残された二人は、やれやれこれで荷がおりたと言わんばかりに、佐助へ手を振り、ひくついた笑いを浮かべながら、佐助はそれに応えた。どうも真田は、同職の忍びですらどこかのんびりした気風がある。
 黄昏時、すでに空気が赤い。今しがたまで剣術に励んでいたのだろうか、童子の額に浮ぶ玉のような汗の中に夕日を見ながら、佐助は跪いて叩頭した。
「たった今、武田のお館様の屋敷より、帰ったところでございます」
「お館様のところへ、か。うむ、大儀であったな!お館様は、なんと仰せであられた」
「なんと、とは?」
 頭を上げると、弁丸は栗色の眼をじっと佐助へ据えて、なにかを期待している風であった。まさか、仕事内容を聞いているわけではあるまい。弁丸がそこまで家中の内情を把握しているはずはなかった。事実、佐助がどこへ行っているのかすら知らなかったではないか。
 佐助がいつまでも首を傾げて答えないので、気の短いところがある弁丸は、ぐいっと佐助へ顔を寄せて、
「なんと仰せであられたと聞いているのだ。佐助、佐助はそれがしの忍びであるな」
「はあ」
「では、なんと仰せであった」
 ぱっと頭に浮んだのはもちろん、ようしてやれ…という信玄の弁であったが、佐助には、どうも弁丸の理屈がわからない。佐助は確かに弁丸の忍びではあるが、だからなんだと言うのだ。
 ここまで言っても答えぬ佐助を、鈍い、と思ったのかもしれなかった。弁丸はちょっと小首を傾げて、なにも仰せではなかったか、と、残念そうに言う。言外に、そんなはずはあるまい、という意を含んでいる。
「あの……」
 途端、弁丸はぱっと明るくなり、丸くて大きな目をさらに大きくさせて、うむ、なんと仰せだ!と繰り返した。
「なぜ、なにか仰せであると思われるので」
「うん……?言うたではないか、佐助はそれがしの、」
「は、それは。しかしおれのような愚鈍には、どうも、その真意がわかりかねまする」
「む、そ、そうか…?そのような……うむ、おれはお主は、愚鈍ではないと、思っておるが、な……」
 そこが重要ではない。佐助は思わず苦笑いした。なぜ論点がすりかわってしまうのか佐助にはわからぬが、どうも弁丸にとっては、愚鈍という一言が、ひどく気にかかるらしかった。
 埒が明かぬと見て、どうやら共も連れぬ弁丸を、寝食している居館へ送り届けることにした。
(……いくら砥石城場内とはいえ、身が軽い)
 佐助は一歩先を歩く弁丸の小さな背中を眺め思った。
 弁丸は、誰の許可も得ず、そこらじゅうをうろちょろして遊ぶ癖があった。本来、城主の息子という立場の人間が、気安く忍びのいる場所へなど訪れないはずである。が、弁丸はなんの躊躇もなく、悠々と忍び館へ顔を出し、忍びのものと交流をはかるのである。否、弁丸自身は交流などという名目じみたものは感じていないであろう。単純な、遊び場として捉えているのかもしれなかった。
 それは佐助が仕える以前からのことらしく、他の忍びは気にも留めていない。が、同僚とのふとした会話のはずみに出てきたのは、近頃の弁丸は、
「明らかに、佐助目当てで……」
 忍び館へやってくるというのだ。その時は、さもあろうかと思ったものだが、よくよく観察すれば、今日もあれは、佐助はどこに行ったのだと騒いで、困らせていたのだろう。そこを目撃しては、反論のしようもない。
 嘆息した。佐助は佐助なりに、小さな自覚があった。身寄りもなく、厳しい掟の内に生き、いつかひとりで歩いていかねばならぬ日を常に思い、さていざ里を出た自分は、
(無条件に向けられる好意というものを、知らぬ……)
 のである。さりとてそれがわかっても、具体的にどうしたらいいのかについては、ずっと考えあぐねている。それには一つ、例えばこの小さな主弁丸にしてみても、弁丸が佐助に向けるほどの好意を、佐助は弁丸に持っていないというのがある。
(だっておれはここに仕えるために来たんであって、馴れ合うために来たんじゃない)
 弁丸が気軽に佐助を呼べば呼ぶほど、その無邪気な好意を感じれば感じるほど、佐助は頭の片隅でこのように抗してしまう。忍びという立場が無論そうさせるのだが、また、ぬるま湯につかるような居心地の悪さが、無意識のうちに顔を出すのである。
「ああ、忘れておった!なあ、佐助」
 くるりと身を翻した弁丸は、両手に抱えていた木刀を一丁前に構え佐助へ向けると、
「今度、おれと為合え。佐助は、剣術も秀でておると、父上がおっしゃっていた」
 夕日を背に、さも楽しげにそんなことを言う弁丸を佐助はにべもなく一笑してやろうかとすら思った。忍びなどにに手習いを受けずとも、城内にはもっとふさわしい人物がいよう。佐助はそんなこころを内にしながら、弁丸の木刀の先をちょんと指で押して、
「買いかぶりでございましょう。おれには若様の相手は務まりませぬ」
 これでしょんぼりするか、そうかと頷くかと思えば、弁丸の言い分は実に意外なものだった。
「ばかを言うでないわ、佐助。父上の眼力はほんものじゃ。人を見る目がなくば、一国の城主は務まらぬと、父上はいつも申しておる。その父上が言うこと、買いかぶりなどであるものか」
 佐助はかえって気分が良くなった。初見では、年よりも少し幼げに見える主を頼りなげに思い、時には愚直とも取れるほどの素直さが不安要素であると判断した佐助であったが、この今の弁はどうも十一のこどもにしては、上等すぎる。
「それにのう佐助」
「はい?」
「おれとて、その父の血を引いておる。まだまだ及ばぬとはいえ、おれはお前を見込んでおる。お前は、どうも強い。おれはな、佐助!強きものと戦いたいのだ。戦は好かぬが、強きものは、好きだ」
 言い切った弁丸は、なにかはっと気がついたように、佐助の顔を見ているようで、見ていなかった。目と同じ色の柔らかそうな髪が、西日に照らされて縁取られるように輝いていた。佐助にはそれが、眩しい。
「そうだ、父上も、おれも、お前を気に入っておる。であれば、お館様が気に入らぬわけが、ないのだ」
 あっ、と佐助が思うと、弁丸の真面目で真っ直ぐな眼差しを、とても見ていられなくなった。
 なにか言いたくなるのをぐっとこらえ、弁丸の手を奪うように取り、すたすたと歩き始める。すでに弁丸の居館はすぐそこである。
 熱い。弁丸を握る手も熱いし、躊躇無く握り返してくる弁丸の手も熱い。上に、信玄に力強く掴まれた肩も、内からこみあげ沸々するものに浮かされるように熱かった。
「なあ佐助、本当にお館様は、なにも仰られなんだか……」
 わからぬ。佐助はこんなもの、知らなかった。こんなにもむず痒く、こころを甘く包むものを佐助はこれまで、その存在すら、知らなかった。
 しつこく尋ねる弁丸を無理矢理引き剥がすようにして居館に押し込めた佐助は、その去り際、わざと聞こえるように、
「変な家!」
 と吐いたのであった。