いつまでここにいるつもりだ、と目下の図体のでかい男に問うと、へらりと笑って曖昧な返事をされた。そろそろ無理にでも追い出した方がいいかもしれぬと、幸村は思って顔を歪めた。
 一度やってきた時は、嵐のようだと思った。佐助を殴る、食していた蕎麦を掻っ攫う、さんざ暴れて出て行った。丁度桜の時期だった。慶次は桜を散らす凶暴な風のように、あるいはおぞましいほどの勢いで咲き乱れ散っていくその桜自身のように。なにかに急いている男だった。
 それが、二度目に上田城の門を叩いた男は、そんな急いた感じをまるっきり失っていた。だから、幸村が報告を受け、前回の狼藉のために門を開かずにいても、強固な真似はしなかった。――しばらく後、どうやら上田城下に奇妙な男が住み着いたらしいと、噂で知った。佐助は実際見てきたよ、と言って幸村にひそと話したことがある。
「……で。どうであった」
「どうって、どうもこうもない。なにも」
「ふむ?」
「普通に生きてる。牢人と一緒さ。適当なとこに宿を取って、一日中ふらふらして、どうだろう、戦があったら、出るんだろうかな」
「……出ぬだろう」
 そう、と佐助はひらり、消えた。さもどうでもいい風である。幸村も表面上はどうでもよかったに違いない。
 数日して、おもむろに佐助を部屋に呼んだ。
「迎えに行け」
「は」
「前田慶次を」
「どうして。旦那、あの風来坊のこと、嫌いなんじゃないの」
「誰もそんなことは言っておらぬ。好き嫌いなど、どうでもいい。だが、変に俺の周りをうろつかれるのは気に障る。ならいっそサシで話し合った方が早い。なんでもいい、いいから、迎えに行け」
「……ふん。御意」
 佐助は意地悪そうに笑っていた。そうして慶次が食客として真田に迎えられ、幾月か経つ。
 幸村の生活は大して変わらぬ。
 ふと気が向いて、慶次に与えた長屋の一室に伺いを立ててみると、大抵おらぬ。長屋の頭に尋ねると、女郎のところへ、とか、何某という武士のところで力比べをしようと集りがあるのでそれへとか、向かいの婆に餅作りを習いにとか、得体が知れぬ。一人ふらりと南の森へ行ったかと思うと、兎やら鳥やらを狩って、それを近所の者に振舞ったりもするという。
 つまり幸村から出向いても一向会えはしない。ただ確かにふらふらと出歩いてなにかしらのことをしている、そのことと、頭の話しぶりからしてみても、向かいの婆にしても、一様に慶次は好かれている。そのことしかわからぬ。そのうち長屋を訪れることは諦めた。
 また佐助を呼ぶ。
 佐助はその時機嫌が悪かったらしい。用件を忘れて、珍しがってしまった。
「あぬしともあろうものが…いや、昔からよく、お前は拗ねることがあったな」
「そうでしたっけ。昔のことは、忘れましたよ。忍びだもの……」
「馬鹿、忘れたで済ますな。なんだ、なにかあったか。俺が、なにかしたか」
「しやしないよ。で、なあに。用事があったんでしょ」
「あ。そうだったな。……まあいい、今日は。機嫌を直したら、また来い。よいな」
 からと笑ってそんなやり取りをした。ために、割と一大決心のつもりで言いつけようとした事柄も、たいしたことではないように思え、かえって気が楽になった。数日して佐助に、前田慶次を連れて来るよう言いつけた。
「そういえば、まともに話し合いもせなんだ」
 と、幸村にしては珍しく、軽口っぽく言ってみせた。機嫌を直した佐助は、そう、といつものように笑っている。慶次が嫌いではないらしい。
 以来慶次は時折呼ばれて幸村の屋敷にどんと座っている。暴れもしない騒ぎもしない、紐にくくられた虎のように大人しく庭や空を眺めている。しかし隣に幸村が座ると、口ばかりはよくまわる。
 人づてに聞いたような、力比べや餅作りのことが実際慶次の口から出ると、それは想像よりもよほど面白かった。誇大ではあるし、彼自身の感想も多分に含まれているので、どこまでが事実でどこまで鵜呑みにしてよいのかはわからぬが、それでも幸村は感心しきりだった。
 内容というよりは、どんなこともいかにも楽しげに話す慶次のほうに、であったかもしれぬ。
 慶次の話はとりとめもないが、最終的に同じところへ収束していく。
 恋はいいもんだよ、恋をしなよ、と幸村に詰め寄る。幸村には詰め寄られているように思われる。ため、そこへくると、幸村は顔を顰めて否を唱える。軟弱なと、こちらも同じことを言う。
「いい加減、」
「ん」
「いい加減、堂々巡りだと気付かれよ。益体もない」
「いや?」
「ん?」
「いや、かい?俺と話をするの」
 慶次はその男ぶりの割りに、まるで子どものような目をしている。その目でじっと見てくる。
「い、いや…」
「え、」
「いや、というのでは、ない。そうであれば、呼ばぬ。いや、そんなことは、どちらでもいい」
「変な奴だなあ、幸村は」
「それは、そちらだ」
 この辺りで幸村は慶次を長屋へ帰す。帰路に着く慶次は振り向きもしない。幸村も、その頃にはもう夕食のことに気が行っている。
 そんなことを繰り返すうち、段々慶次は上田の名物になった。常の行動が派手というか落ち着きがないというか、とにかく一所に留まっているということをしない。あちこちで楽しげな話を見つけてきては、実際赴いて騒いで、どんどん人脈を作っていく。
 佐助ですら、この間、前田の旦那にちょいと出くわしたもんで、と幸村に話した。
「うまい団子屋ができたってんで、連れ立って行って来ました。で、これ、土産」
 ひょいと包みを渡す。それはそれで、しっかり茶も用意していただいた幸村だったが、少し咎めるように佐助、と呼んだ。その意味をどう解釈したものか、佐助は慌てて手を振り振り、
「仕事はちゃんとやってますって」
 と言い訳した。むむ、と唸る。実際なにを咎めたかったのか、なにが気に障ったのかよくわからなかった。ただ団子 はうまい。佐助は、旦那、近頃変だね、と伺うように言う。
 生活はなにも変わっていない。しかしこの時、幸村は、慶次に上田を出て行ってもらうことを、考えていた。追い出したとして、慶次は次にどこへ居つくのだろうかと、眠りに落ちる寸前、思った。
「いつまでここにいるつもりだ」
 と、そして問うた。無感情に言ったつもりであるが、心持ち嫌そうに聞こえたかもしれぬ。慶次はへらりと笑うばかりである。さてね、と、幸村の矛盾を指摘すらしない。最初訪れたのは確かに慶次だったが、半ば強いるように招いたのは、幸村自身に他ならない。変だ、と思った。
 無理にでも追い出したほうがいいかもしれぬと、顔を顰めた。幸村の生活はなにも変わらぬが、慶次は今どこか悲しげであった。その顔を見ているのは、どうも耐え難い気がした。
「出て行ってほしそうだね」
「うん」
「上田を出たらね、」
 慶次はもう見慣れたであろう庭をぐるりと見渡した。初夏が迫って日差しがじりじり暑い。
「行かなきゃいけないところがあるんだ」
「……とは」
「教えない」
 つい、謝った。慶次から頑なな拒否をされるのは、これが初めてだった。慶次は長い髪を緩く結い上げている。女のような。しかし小袖から覗く腕は幸村よりも逞しく鍛え上げられている。幸村は、そちらになら興味があった。一体どれほどの鍛錬を積んだのか、と問うたことがある。
「俺は鍛錬なんかしないよ」
 と、倣岸に言われた。虎に鍛錬はいらない、生来強いのだから必要ない、ときっぱり切り捨てた。
 思えば今あったのと同じようなような拒絶が、その時あったやもしれぬ。幸村は初めて気が付いた。
「…なあ、」
 犬が主人の機嫌を伺うような、慎重な様子だった。上目に見られ、幸村はなぜか、息を飲んだ。
「恋は、いいよ」
「けいじ、」
「どうしてあんたは、恋を知らないんだろう。あったかくて、優しくて、苦しいけど、幸せなのが、恋だよ。どうしてあんたは、恋を知らずに生きていけるんだろう。なあ、幸村」
「やめろ」
「恋をしなよ」
「やめろと言っている!何度同じことを言わせるおつもりか!」
「何度でも言う」
 この時、慶次がわざと怒らせるような、無闇に詰め寄るような言い方をしているのだと、幸村は気付いた。頭の裏が真っ白になった。慶次の得体が知れぬ。同時に、どうして己は、ここまで頑なに慶次を理解しようとせぬのかと、それが不思議であった。
 この不思議は、彼も感じていようか?
「…幸村」
 慶次は手を伸ばした。その手は肩から前に垂らしている幸村の後ろ髪にするりと触れそうで、触れずに終わり、そのまま静かに床に落ちた。慶次に表情はなかった。庭の池の鯉がざぶんと音を立てて跳ねた。
「伝わるまで、何度でも、何度でも、」
「…慶次殿?」
「何度でも、言おうと、決めたんだ。俺は、どうしてもそういうやり方しか、できない。幸村、あんたにも、伝えたいことがあるよ。伝わらなくても…間違ってても」
 嘘を言っていると思った。慶次は口では幸村と言いながら、まったく別のところを見ている。そのことだけはわかったが、幸村には、最早皆目検討もつかぬ、慶次がわからぬ。幸村はいつも、人がよく志と呼ぶ、単純な理由と動機を以って人と接する。例えば佐助も。佐助は忍びであり、幸村はその主である。佐助は幸村のために命を賭す、その覚悟で生きている、全てはそこから発して淀まぬ。
 慶次の人生に、一体なにがあって慶次は今こうしているのか、理由がどこから生まれてくるのか、幸村は知る術を持たぬ。また、慶次も言おうとはせぬ。それが、堂々巡りの発端であった。
 それでもいやではなかった。
「…間違っては、おらぬであろう」
「え」
「慶次殿は、某と違う。ただ、それだけのこと。…間違っているとは、いわっしゃるな。とはいえ、慶次殿の言うことを理解はできぬ。だが、…世が、二分できぬことくらいは、…好悪で全て片が付くことの方が、少ないということくらいは…慶次殿から、学んだ」
 慶次の顔が綻んだ。見ているこちらが恥ずかしくなるくらい、嬉しそうに、素直に、笑った。
「よかった」
 翌日慶次は上田を去った。

「慶次殿は変わったな」
 と、書簡を佐助に押し付けながら、幸村は突然呟いた。佐助はきょとんとして、はあ、と曖昧な返事をした。まあ確かに、無闇に暴れることはしなくなりましたけどね、でも年中頭がお祭りなのは変わってないでしょ、とつらつら述べた。使いで走るのが少し不満と見える。
「違う」
「はい?」
「なにかあったのだ」
「なにかって、なにが」
「わからぬ」
 わからぬでよい、と佐助をしっしと追いやった。佐助はますます拗ねたようだったが、どうせ仕事だけは忠実にこなすに決まっている。へいへいと気のない返事を残して佐助は出て行った。
 慶次はまた来ると言った。
 その時には、また変わっているだろう。幸村はそう思うと、自分も知らず、どこかが変わっていようし、また、自覚して変わらねばならぬこともあろうと、てらてら光る硯を眺めた後、目を閉じた。