碁でも打ちたい、今度幸村をこちらに呼ぶよう計らえ。
 幸村付きの小姓が政宗の伝言を伝えてきたのは、まだ肌寒い中にも、京が春の気色を見せ始めたある昼下がりだった。どこぞかから微かに梅の香が香る。ついこの前幸村と遠乗りを興じた時も、川の淵に早くもネコヤナギがその可愛らしいふさふさした花を咲かせていた。
 しかし小姓がその伝言を伝えた相手は、なぜか真田隊忍び頭の猿飛佐助であった。幸村は今城に出ているが、当然伝えられた方も首を傾げた。伝えた本人も愛らしい少年の素振りで首を傾げ、政宗の言葉であろう台詞を続けた。
「共の者には、そちらの忍び頭を付けるように、と」
 佐助が何かの企みを感ぜずにいられなかったのも自然であろう。ともかくそういう事なので、幸村には後から伝えるけれども、とりあえず佐助に報告しておいた、という。
 わかった、と頷いて小姓を下がらせたものの、そもそも碁を打ちたいというのがどこかわざとらしい。伊達家が真田家と屋敷を隣にして早数ヶ月になるが、政宗が個人的な興に幸村を誘ったのはこれが初めだった。

 これを聞いた幸村が素直に喜んだのは言うまでもない。さっそく明日にでも屋敷を訪ねるという。
 佐助は忍びながら主人の部屋を自由に行き来することを許されている。主人の部屋で佐助は幸村と食事を取りながら、少し気になるね、と漏らした。
 何がだ、と返事をしながらも嫌いな野菜を避けようとする幸村を目ざとく見つけた佐助は、答えるより先に、野菜!と叫んで主を睨みつけた。小さくなって不満気な顔をする幸村とさながら母親の貫禄を見せる佐助は暫し睨み合っていたが、やがて幸村が折れて緑の葉を齧った。苦味があるらしい。
 その様子にまだ小言を言いたそうな気配を見せていたが、一応満足して佐助は続けた。
「伊達殿と碁を打つの、楽しみ?」
 何を当たり前の事をと言うように幸村は頷いた。楽しみでないはずがない、俺も碁は好きだ、と。政宗殿がどの程度の腕前であるかはわからぬが――と続けようとした幸村を遮って、でもさ、という。
「俺を付ける必要性って、何?」
 わざわざ箸を止めて怪訝な顔をする佐助に、今度は幸村も、ふむ、と碗を置いた。確かに、共を付けるまでは良いとして、わざわざ向こうから人物を指名してくるというのは、そこになんらかの意図が存在すると考えるのが普通だろう。少し考えてはみたものの、大した答えは出なかったらしい。
「佐助とも打ってみたいと思ったのではないか?」
 呑気に言って沢庵に箸を伸ばした。ポリポリと気持ちの良い音を立てて齧る所を見るに、そう重大なこととも捉えていないようである。対する佐助はそうでもないらしく、それなら普段俺が屋敷に出向いた時に言えばいいんじゃないの、と食い下がる。また幸村は、ふむ、と言って白米を贅沢に掻っ込み、飲み込むと佐助を見て、否、佐助の膳を見て、その魚、食わぬのなら俺にくれ、と言った。
「いやだ」
「先程から手をつけておらぬではないか」
「旦那が食べるの早すぎなだけ!」
「いいや、佐助が遅い。食事中にべらべらと喋りおって」
 食事中に私語をするなど、武士のすることではない。当然真田家もこのような教育方針である。佐助ももちろんこの原則を知らなかったわけではない。
 痛いところをつかれて、佐助は出しかねた言葉を飲み込み、仕方なく黙って魚を突付きだした。
 そんな事を言うくらいなら、最初から返事をするな。佐助は多少機嫌を損ねた。既に食べ終わってしまった幸村は、まだ名残惜しげに佐助の魚を見つめていた。

 翌日、幸村は昼を過ぎた頃に佐助を連れ出して伊達屋敷へ向かった。結局佐助の疑問が再び話題にのぼる事はなく、佐助は食事の後幸村から賜った書簡などに耽っているうちに案外夢中になり、疑問も大して気に止めずにそのまま寝所へ入ってしまった。
 何度か通ううちにすっかり慣れた伊達屋敷への道も、幸村と二人っきりで歩くのは初めてと言ってもいい。
「それにしてもよかったね、丁度暇があって」
「うん、このところ忙しかったからな。折角誘われたというのに無下にしてしまっては、申し訳が付かぬからな」
 門前に来ると、すぐさま小姓がやってきて二人を奥へ案内した。中庭がよく見える客間には事前に連絡を受けていた政宗が待っており、碁盤も用意されていた。軽く挨拶を交わし、予定通り幸村についてきた佐助にも声を掛けると、微笑して、横に座って打つ様を見ていてくれればいいと言った。
 それだけでいいのか?と佐助は勘繰ったものの、素直に従った。
 幸村は久し振りに見える好敵手に碁盤を挟んで対面すると、何か言わずにはいられなかったらしい。
「この幸村、ほんの少し前まで、こうして政宗殿と対して碁を打ち合うなど、夢にも思いませんでしたぞ」
 部屋は庭側の障子が開け放されてはいるが、やや薄暗い。その庭に面した縁側の脇に碁盤が置かれ政宗と幸村が座し、その奥に佐助が庭に望む形で座している。中庭は表に鬱蒼と茂る青竹とは打って変わって、数々の季節の花が趣向を凝らして植えられている。梅の香が強いが、木は見当たらない。
 政宗は幸村の言葉を聞くともなしに聞いて曖昧に頷くと、黒をもらうがいいかと訊ねた。反応が鈍いので幸村はちょっと意外に思ったが、特にこだわらず白石を手元に置いた。
 政宗の初手になる。合図もなく置いたその手に、幸村は思わず声出した。佐助も眉を顰めた。
(面妖な)
 天元である。滅多に打たれない。
「そこでよろしいのか」
「昔の名人に、初手天元を打ったものがいたそうだ。勝ってみせろ、幸村」
 派手好きの伊達のこと、と言われれば変わった趣向、で済む話である。幸村は先日の夕餉の時よりも一段低く、ふむ、と唸った。政宗は笑っている。
 確かに笑っていたのを佐助も見ているし、幸村も盤を睨みながらも、政宗が面白げに笑っているのを言葉から察している。だが察するだけで、佐助のようにそれを見て肌が一瞬ぞっと粟立つような事はなかった。
 もし政宗の周りに刀でもあったのなら、佐助はなんの躊躇もなく常備しているクナイをその喉元に突きつけていただろう。
(どうしてそんな目を)
 碁盤を戦場に見立てているのなら馬鹿らしすぎる。
 幸村の一手目は、右下の星であった。

 勝負は幸村が勝った。
 吟味は無用だと言うと、政宗は盤面を崩した。特に悔しがっている風でもない。碁石がチャラチャラ鳴る音だけが静かな一室に響いて、時が止まったようですらあった。薄い日差しが畳を掠めて仄かに暖かい。
 幸村は茶を啜った。政宗は対局中も一切手をつけていない。
 ずっと傍観していた佐助は不可解で仕方がなかった。政宗から悔しさは確かに感じられないが、そのかわりにどこか落胆のような色が伺える。あの身震いするような目と合わせて考えても、なぜだかわからない。
「幸村」
 独眼竜の声はぐっと低い。低くて静かであった。
 京に上るようになってから、政宗は以前のような覇気がなくなったように思える。派手なパフォーマンスは相変わらずなので、微かな変化ではあるのかもしれないが、戦場での政宗を知る佐助にはより明白にそれがわかった。幸村も何度か政宗と見えて察しているだろう。
「初めて戦場で会った日のことを、覚えているか」
 幸村は目を見開く。その脳裏には、すぐにまざまざとその日の戦場が蘇ったのであろう。
「忘れろと言われても、終生忘れ得ぬ」
 佐助は何度も何度も、幸村のその口から、政宗と出会った瞬間を聞かされている。あるいは自分が体験したかのように錯覚することすらある程であった。
 再びあの方と刃を交えることこそ、一人の侍として、我が無上の喜び――。
 確かにそうであったろう。死ぬまでこの二人は互いを最上のものとするのだと、佐助も信じて疑わなかった。疑いようがない程に、互いは執着し合っていた。
「今一度政宗殿と手合わせができれば、と思う。容易にはならぬが、いずれ機会も御座いましょうぞ」
 手合わせか、城内でやればいい見世物にでもなるんじゃないか?と政宗はまた笑う。今度は仮面のような笑いであった。幸村ですら怪訝に思ったろう。
 そうした仮面をつけたまま、まだ何か言いたげであった幸村を遮って、今日はなかなか楽しめた、またいつか打とう、近いうち、礼になにか贈り物をするから――と、言葉を羅列して幸村を返した。佐助には、少し話があるから残れ、という。それを聞いた幸村は柄にもなく気難しげな顔をしてはいたが、すぐお返しくだされよ、某の大切な忍びでござるゆえ、と揶揄を返して一人戻った。

「俺の質問に答える気、ある?」
 門前まで幸村を送ると、佐助はすぐに訊いた。政宗は笑いを零して、がっつくなよ、とからかった。
「なんでお前を呼んだか、だろ。簡単だ、俺が幸村に手を出さずにいられるか、自信がなかっただけだ」
 突拍子もない台詞に、佐助は言葉が出てこなかった。なにから言及したものかと思ったのである。唖然とする佐助を後ろに、政宗は玄関先の脇にある縁側に座った。辺りが気になった。
「平気だ、聞かれて困ることなんざねえ。質問はまだあるのか?」
「あんた、そんなに旦那を殺したいのか」
 政宗はカラカラと笑った。佐助は至極真面目である。あの目と殺気を冗談にしておけるわけがない。だが、いつも肝心なことは煙に巻いてしまう政宗が、果たしてまともな答えを返すかどうか?
 笑いをどうにか抑えて政宗は言う。
「そうだ、俺はそう思ってた。あいつだけは、心底」
 殺してやりたいと。
 佐助こそ、よっぽど今ここで政宗を八つ裂きにしてやろうかと思った。
 それを察したのか、政宗はwait、と異国の言葉で喋る。待てというのだろう。無言で政宗を睨んでいたが、まだなにか話す気らしいので、仕方なく隣に座った。間はやや広い。
「悪い、聞いても怒るなよと、最初に付け加えるのを忘れた」
「今まさにその言葉にも怒れるけど、そんなんでごまかされると思うなよ。言い訳があるなら聞こうじゃないの」
「言い訳はねえが、お前に話したいことはある」
 一つ溜息のような息を漏らすと、政宗は柱に凭れて青竹を眺めた。佐助はそんな政宗をしげしげと眺めた。疲れているように思えたのである。
 こうして政宗と席を並べるのは今日が初めてではない。幾度か茶をご馳走になっているし、世間話もしたが、政宗の方から佐助に取り立てて話があるなどと言われたことなどはない。精々言付けを頼まれる程度だ。それを改めて一体なんだと、身構えずにはいられなかった。
 庭番がひょいと顔を出した。剪定していた所に主の顔を見つけたので、挨拶のつもりだったのだろう。深々とお辞儀をして前を通り過ぎる。五十も過ぎた背中の曲がった小男だ。障子の向こう側にも、何やら女性のくすくすと笑う声が聞こえた。
 たっぷり間を置いて言い出さないので、本当は大して重要なことでもないのかもしれないと、佐助が思い始めた頃だった。ようやく政宗は口を開いた。
「お前にこれを聞かせてどうしろと言うのじゃない。覚えておいてくれればいい。多少勘違いをしていた。あいつだけが俺を高揚させるのだとな。あいつだけが、掛け値無しに、」
 俺に向き合うのだと思っていた。
 そんなことを、政宗は独り言のように佐助に言う。寂しげというのならば、確かにその独眼だけは哀惜のようなものを漂わせていたように思う。佐助は注意深く政宗を見た。
「別に幻想ってんじゃねえ。あいつが俺を好敵手と呼んで、俺が自分でもわからねえくらいにどうしようもなくあいつとの戦いを求めたのも本当だ。ただ、今日改めてあいつと向き合ってわかった。あいつの様子を見てたらどんどん悔しくなってきてな。どうやら、こんな場所じゃ駄目らしい。あいつに裏切られたというのは言い過ぎだろうが、俺が、本当に望んでいたのは、――」
「たんま」
 佐助は唸るようにして政宗を遮った。遮って、先を言わせないようにじっと睨む。
「……なんだよ」
「なんでそれを言う相手が、俺なの」
 政宗は首を傾げる。不可解に思ったらしい。腕を組み直して、佐助にこのように睨まれるのはたまらないとでも言うようにそっぽを向いた。苛立ったような溜息を漏らす。
「部下にこんなこと言えっていうのか?主人がたかが一武将に固執してそいつに振り回されてる様を自ら?バカ言うな」
「そういうカッコ悪いことは、部下はおろか、片倉の旦那にすら言えないってか」
「意味が違う。お前があの一局を見ていて、俺と幸村の事をよく知ってるから言ってんだろうが」
 我慢がならずに、佐助は勢いよく立ち上がった。同時に床に叩きつけた拳が乾いた音を立てる。なぜ佐助がそこまで突っかかるのかわからない政宗は、怪訝に佐助を見やる。その様がまた佐助を苛立たせた。
「ああ、あんたはそうやって勝手に旦那を弄んでおいて、一人で勝手に落胆して、それを誰かに言わずにはいられなかったってわけだ!冗談じゃない!覚えておけだって?嫌だね。俺がいつあんたを認めたっていうんだ。悪いけど俺にとってあんたは、いつ旦那を殺すかわからない危険人物だよ。忍びだから何を言ってもいいと思ってんのか?あんたなんかオモチャを取られて駄々をこねてるだけじゃないか。箱を空けたら中身が違ったからって、俺に当たるんじゃねえよ!あんな、わざとらしく自分から殺されに行くような碁を打ってためすような真似して――」
 幻滅させるなよ。
 佐助は最後にこう言い切ってさっさと屋敷を出て行ってしまった。おい、待て、と政宗が追いすがるのも無視した。 大声を聞きつけて戻ってきた庭番がびっくりした顔をして、政宗を見ている。
 どうやら先程の男に怒鳴られていたらしい政宗を恐々として眺めていると、その政宗が童子のように笑い出すので、また別の意味でぎょっとした。政宗は声を枯らして笑いながら、言う。
「おもしれえじゃねえか、俺に、まだ、幻滅の余地が、あんだって?あいつ、ハハッ、オモチャを、ね、確かに、ハハハ!」
 カラカラと転がるような政宗の笑い声は、しばらく止まなかった。