店を出ると雨が降っていた。空は仄かに明るいものの、気温が落ちたらしく底冷えを感じた。春雨らしく細かな粒である。店主は早々と傘を持ってきてお得意様に手渡した。佐助は気軽く礼を言って店を出た。主人が好むこの団子屋から屋敷までは半里程だろうか。大した距離でもないが、団子の包みを持ったまま濡れたくはない。 幸村の団子を買いに行くのはいつしか佐助の仕事になっていた。何度それが戦忍びのすることではないと言ってみても、通じたためしがない。信玄が存命の頃は時折その信玄の使いまで頼まれる程であった。京に上ってからもその習慣は消えない。要するに使い走りである。 (一体俺をなんだと思ってんだろ) と、一時思い悩んで、再就職を考えたことがないことはない。しかしそれも今となってはかなりどうでもいい事となっている。主人が喜んでくれるならそれでいいではないか、とすら思うようになっているのだから、これを成長というべきか諦めというべきかはともかく、こうして佐助が団子屋に出入りするのは極自然の事であった。 その佐助が現在会いたくない人物は二人程いる。 一人は前田慶次。交流のある前田夫妻から聞く限りでは、まだ京都で浪人をしているというから、外にいればいつどこで会うとも限らない。 慶次は一度上田城に押しかけ、幸村と手合わせをさせろだのなんだのと騒ぎ、それを見かねた佐助が取り次いだところを問答無用で殴り飛ばしている。打ち所が悪くて気絶した。 後から幸村から聞いた話だと、慶次はそれから食事中の幸村の部屋まで押し入り、その幸村が食べていた蕎麦を見るなり横取りして平らげ、当然何事かと怒った幸村と喧嘩になり、周りに人が集ってくるとそのドサクサで逃げたという。 ある意味とんでもない偉業を成し遂げた生きた伝説に当然好感を持てるはずもないというのに、困ったのは、その慶次がちょくちょくそこらじゅうの大名屋敷を訪ねてまわっているということだった。本人は遊びのつもりなのだろう。 そのつもりでとうとう慶次は先日真田屋敷にも訪れた。しかも、さも親しげに幸村の名を呼ぶ。 貴様と旧知の仲になった覚えはない!佐助を殴り俺の蕎麦を横取りした狼藉、一時たりとも忘れぬぞ! 蕎麦と同列にされているあたりどうかと思うが、平素は案外温厚な幸村がこうして怒鳴りながら槍を振り回すので、あやうく屋敷を全壊させる大惨事になりかけた。止めたのは当然佐助である。さすがに自分の名誉と何千石かかるかわからない屋敷の修理費を天秤にかければ、忍びの名誉など羽よりも軽い。 ようやく騒ぎを収めて当の慶次を見てみれば、大変満足そうな顔で、おもしろかったぜ!また来るわ!と手を振って帰っていく。幸村などよりははるかに気が長いと自負している佐助でさえ、この時ばかりは血管が何本か音を立てた。 気付けば、二度と来んな!!と叫んでいた。これを聞いた幸村が、やはり殺してくるなどと物騒なことを言うので慌てて撤回した。 唯一救いなのは、後から前田夫妻に丁重な詫びとお野菜を頂いたことだ。夫妻から話を聞くに佐助は同情を禁じ得なかった。現在頂いた野菜は幸村の食卓に上がっているが、野菜嫌いの幸村はあまり有難がっていない。 これが一人目。二人目は伊達政宗である。 これもつい先日の話だが、佐助は政宗に対して怒鳴り立てている。理由は正当なものだったと佐助自身は信じているのだが、如何せん政宗からなんの音沙汰もないのが不気味で仕方なかった。それこそ幸村の言うように「狼藉――」と称して屋敷に乗り込まれてもなんら不自然ではないのだ。 半分はこの不気味さ。半分は、体裁が悪いので、どんな顔をして会えばいいのかわからない。この二点であった。不気味さを消したいのなら屋敷に忍び込んで様子を探ってみればよさそうなものだが、それをしない辺り余程政宗の顔を見たくないらしい。 なぜ体裁が悪いのかと言えば、幸村のような身内はともかく、佐助がこれまで他人に本気でお説教したことなどないからだった。あれはお説教だったに違いないと佐助自身思っている。 その「佐助が今会いたくない人物ブラックリスト」の上位二名が目の前を仲良く並んで歩いてくるのだから、思わず、ゲッ、と蛙が潰れたような声を出して素早く傘を閉じると、忍び足で建物の間に隠れたのも無理はあるまい。団子は懐に入れて濡れないようにする。二人との距離は一町程もなかった。城下で人通りも多い上に雨が降っていたので、気付くのが遅れたのだろう。 右を見た。反対の通りに出られるかと思ったが、柵と木で塞がれている。上を見た。屋根に上がればさすがに目立ちすぎる。濡れたくもない。下を見た。ここで土遁?冗談じゃない。左を見た。政宗と目が合った。 いっそ下手に隠れなければ人ごみに紛れてやり過ごす事ができたかもしれない。時既に遅し。 「や、やあ政宗公」 「よう」 政宗はちょっと笑っている。それがいつもの皮肉めいた笑いではなく、なにやら思い出し笑いのようだった。 俺を見て思い出し笑い?あ、こいつもしかしてあの時のこと思い出して笑ってんのか!?むきー!!と汗と一緒に怒涛のように思考が廻ったが、さすがに口に出さないだけの余裕はある。 慶次が路地を覗き込んで、ようやく佐助を認めた。 「あっれー、幸村んとこの忍びじゃねーか!佐助だっけ?んなとこで何してんの?忍んでんの?」 遊び人はずいと佐助に近寄って、逃げ場を塞いだ。故意ではないだけに、佐助も舌打ちするしかない。 真田家に働いた狼藉を当然の如くすっかり忘れている様子の慶次は派手な色の傘を差して、なんのオマケか自分の頭にも飾りのついた小さな傘を差していた。小猿がその傘の下で可愛く鳴いている。佐助は質問には答えずになんとなくその猿をぼんやり見つめた。 「あ、こいつ?夢吉ってんだよ。ほら夢吉、挨拶しな。幸村んとこの忍者の佐助だよ」 キキ、と鳴いた夢吉という猿は小さくお辞儀のような仕草をした。わあ、可愛い、と素直に思ってしまった自分が嫌になった。それよりもこんな所で堂々と役職を明かさないでほしい。 それにしても、慶次のような派手な巨躯が狭い路地を興味有りげに覗いていると、相当目立つ。それでなくとも京都では顔も名も知られた慶次なので、また慶さんがおもしろいことやってるよ、なんて言ってすぐにでも人が集りそうな予感がした。政宗も同じ事を思ったらしい。 「おい慶次、目立つからやめろ。一応俺もお忍びなんだぞ」 確かに政宗の方は地味な紺の頭巾を被っている。しかしあまり意味がないような気がする。 それはともかく、これで見たくない顔から解放されると思った佐助は、そうだよ目立つよ、それじゃ、俺はこれで――と言いながらそそくさと退散しようとした。 「待ちな。どうせ暇なんだろ?ちょっと来い」 ブラックリストが何を言う。 聞こえなかった振りをしてやり過ごそうと構わず進もうとするが、進まない。気がついたら腕をがっしり掴まれていた。政宗は六爪という、頭がおかしいとしか思えない武器を扱う。指の力が尋常ではない。 「ひ、暇じゃない暇じゃない!俺ァ今旦那から大事な使いを頼まれてんの!あんたらなんかと遊んでる暇はこれっぽっちもない!」 これっぽっちも、の部分に力を込めて訴えてみたが、政宗はふうんと頷いたきり、腕を離そうともしない。 「お前、よく俺に暇だってぼやいてたよな。幸村の使いっつってもどうせ団子とかじゃねえのか?どうだ、当たってるならこのまま引っ張ってく」 「……!いや、これは………じ、重要なアレで、……その」 「よし、行こう。お前、仮にも忍びってんならもう少し喋りに強くなんな。……いや、今の場合図星すぎた上に、咄嗟の言い訳も思い浮かばねえくらい最近仕事が無かったのか。どうだ?」 様子を見ていた慶次が珍しく神妙な顔をしながら、なんか可哀想だなあ、忍びって、なんて勝手な事を呟いている。それ程今の自分は惨めな顔をしているのだろうかと、佐助はちょっぴり泣きたくなった。しかし現に返す言葉もない。この時はじめて佐助は再就職、ではなく、辞職を考えたのだった。 なんでよりによって前田慶次と一緒にいるのだろう。わざわざお忍びでしかも自分を連れてどこへ行く気なのだろう。というかこの前の事をどう思っているのだろう。など、佐助はと無理矢理一緒に居合わせるハメになってしまった政宗に質問したいことが山ほどあったが、まずは当面、政宗と相合傘になってしまっていることが気になって仕方なかった。しかも手を繋いで。 実際繋ぐなどという生易しいものではなく、政宗が佐助を逃すまいとがっしり掴んだ手は振りほどく事も叶わず、かと言って政宗の傘が邪魔で団子屋の店主から借りた傘を差すことも叶わない。結局男同士で一つの傘を仲良く手を繋いで使うという寒い状況になっている。 政宗を見やれば佐助の困惑など毛程も感じていないらしく、更に政宗の横を歩く慶次を見やれば、そこかしこから声を掛けられ、おう、はいよ、今度な、わかったわかった、明日見に行くよ!などと町人たちとコミュニケーションをとっている。むしろ政宗はそちらに興味を示しているようだった。 「ちょっと!ちょっとダンナ!」 「ああ?なんだ、今更引き返せとか言うなよ?ここまで来たら潔く腹を括れ」 「違う!激しく違う!あの、ちょっと、手ェ離してくんない?この状況すんげえ嫌」 この状況、と言われてどう判断したのか、政宗は独眼を細めると佐助をジロリと見た。 「嫌だ嫌だで通る世の中だと思うな忍び!いいか、世の中には幾筋もの流れがある。人間てのは時にその流れに逆らい、逃れようとする。即ちこれが『嫌だ!』を貫き通すということ!だが時にはまたこの流れのまま行かなきゃならねえこともある。即ちこれが『嫌だ!』が通らぬこと!今はどっちだ?お前はこの流れに逆らうのか?流されるのか?二つに一つ!」 「え、いや、あのね?そういう難しい話をしてんじゃなくて、俺は単に――」 これを聞いていた慶次はおもしろく思ったらしく、急に首を突っ込んできて、俺なら流されるね!なぜってそりゃあ、そっちの方がおもしろそうだからさ!とわけのわからないことを言った。間髪入れずに政宗が答える。 「そうだ、よく言った慶次!馬鹿はこの選択を誤るのさ。大体流れるべき時は、逆らおうとしても徒労に終わるもんだ。忍び、俺ァお前は割りと流れに任せるタイプかと思っていたが?違うってのか?」 「ち、違わないですけど、あのね、俺が言ってるのはそうじゃなくて――」 今まさに徒労に終わろうとしている佐助のささやかな努力を更に遮って、今度は慶次がニカ、と笑う。 「違わねえなら気にすんな気にすんな!あんま気にしてると、胃が小さくなっちまうよ!これからうまい飯食おうってのに、そいつァ損損!」 あっはっはと笑い合う二人には、最早佐助の言葉は通用しないようだった。 結局不本意な相合傘のまま、三人と一匹は雨の京の町を歩くことになった。 十町半ばかり歩いて着いたのは花街の一画にある飯屋で、看板には玉川とある。二階建ての新築らしく、まだ木の色が明るい。佐助は見かけたことがあるくらいであったが、確か夜には遊郭にもなるはずであった。 先程の慶次の言葉から察するならば、当然ここで食事を取ろうというのだろう。時刻は大体昼八つ半くらいだから、丁度おやつ時だ。この時間に合わせるように佐助は行動していたのだから、概ね正しい。 少し早い夕餉を取る気でいるらしい、と佐助が予想する間もなく慶次はさっさと店内に姿を消し、政宗もこれに続こうとするので思わず袖を掴んで引き止めた。 まだ逃げようとしていると思ったのか、政宗は呆れ顔をして佐助に振り向いた。 「往生際が――」 「だから違うってば!俺の話を聞け!!」 店先で怒鳴られて、さすがの政宗も怯んだらしい。その隙をついて腕を振り解く。が、逃げようとはしない。 「真田の旦那はちょっと使いが遅れたくらいで怒る人じゃないし、ここまでついてきたんだから今更逃げない。けど、一つお願いを聞いてもらわないと」 ここから佐助は声を落として、政宗に耳を貸せと言った。政宗はちょいと佐助に近づいて素直に従った。佐助は政宗の耳元で言う。 「俺を忍びって呼ぶのはやめてくんない?さっき往来でさんざ唱えてくれたけど、一応他家には真田の旦那の口取りで通ってんだから、店の中でまでそう呼ばれちゃ迷惑だ」 ははあ、と政宗は納得した様子で、さもあろうと頷いた。 「名前で呼べばいいのか」 「できれば。名字の方は悪目立ちしすぎてるんでね」 自分のせいだろうが、と笑う政宗は佐助の顔をじっと眺めていた。じっと眺めて、何事かを計っているようにも見える。往来の邪魔になりはしないかと気になったが、他に入る客もないらしいので佐助は暫く政宗のさせるままにしておいた。政宗がこうして時折人を眺めるのは珍しいことではない。 (何考えてんだか) それにしても、今日の政宗は幸村と碁を打った日とは人が変わったように明るい。あの日以来あれだけ政宗に会いたくないと思っていた佐助が、この明るさの前には、なぜ会いたくないなどと思っていたのだろうと問い直さねばならない程だった。政宗とて佐助が言い散らした言葉の数々を覚えていないわけではあるまい。最初の様子で、どうやら怒っているわけではないらしいということだけはわかったのだが。 政宗は口の端を上げた。 「ま、いいだろう。慶次にも注意しておく。使いといい、苦労が絶えねえな、」 佐助。 言って政宗は暖簾をくぐった。佐助も後に続く。酷い違和感は、中途半端な傘の差し方のおかげで濡れてしまった肩ばかりのせいではない。 政宗に名前で呼ばれるのは、正真正銘これが初めてだった。 |