「なにしてんの、ほらこっちこっち」 一階は極普通の飯屋で、浪人らしい客がちらほら酒を楽しんでいる。給仕は女でしかもかわいい。佐助はつい目が女に移ったが、奥から慶次の声がするので政宗の後を追ってそちらに向かった。階段の手摺越しに慶次が手を振っている。上がると二階は何部屋かの座敷らしく、慶次を先導していた店主らしき男に一番奥の部屋に通された。 ゆうに十畳以上はある部屋の上座に政宗、その下に適当に慶次と佐助が座り、そして一番下座に店主が恭しく畳に手をついて頭を下げていた。 「仙台様、此度はようお越しくださりまして、まったく店主冥利に尽きる次第でございます。店をあげて接待させて頂きますゆえ、どうぞごゆるりと」 「ああ。顔を上げな。接待は嬉しいが、二、三聞きたい事がある。ここでは遊女も出すが、他からの借り入れで高くついてるだろう。それよりはどうだ、隈八。自分ちで女を育ててみる気はねえかい?」 へっ、と店主は素っ頓狂な声を上げた。意外な話だったのに違いない。隈八と呼ばれたこの男、店主と言うからにはさほど若いわけでもあるまいが、まだ青年と言っても無理はない。商売人らしからぬスッキリした人の好さそうな顔が、思わず慶次を見た。慶次はにやにや笑って何も言わない。 「女はこっちで用意をするし、しばらくはこの慶次が世話もするそうだ。いわば仙台は単なる仲介人、誰に気兼ねをする必要もあるまい。寝耳に水か?」 「へ、へえ、それはまさに――。いえ、ほんにありがたいお話でございますなあ。しかし、そのう…どいてこないなしがない飯屋に、わざわざ仙台様御自ら…慶さん?」 名を呼ばれて、慶次はやっと、うん、と受け答えをした。隈八はそれにどことなくほっとした様子であったから、慶次とは政宗よりも長い付き合いなのだろう。 「まだ京の都の整備しきれていないとこじゃ、食いっぱぐれた女子供が少なくねえのさ。俺がこういう性質だからさ、そいつらをどうにも放っておけないのよ。そいつらを少しでもここに引っ張って、女には芸を仕込んで、男は丁稚をさせて、なんとかおまんま食わしてやれねえかい。もちろん政宗の言うとおり、俺も協力するよ。そのうち育ったやつらを他へ斡旋してやれれば、あんたにも悪い話じゃないと思うんだけどね。きっと仏顔の隈八の名にも箔がつくさ」 聞いていた隈八は腕を組んで考え込んでいる。 「慶さんがそういうお人やいうんは、この隈八もようわかってます。せやけど、仙台様、どいて仙台様は仲介人を買って出てくれはるんでっしゃろ。出すぎたこととわかっておりますけど、お教え願えますやろか」 てっきり食事をしに来たのだと思っていた佐助はここまでの会話をぽかんとして聞いていた。佐助を除いた三人はお互い顔見知りであるらしいし、政宗も慶次も、最初からこの話をするためにこの玉川屋へ足を運んだものと思われる。 ではなぜ自分を連れて来たのだろう。前例があるだけに、何かあるに違いないとは思いつつも、口を挟むにも挟めない微妙な状況に、居心地の悪さを感ぜずにはいられなかった。 「なに、俺は慶次から話を受けていい考えと思ったから手を貸してやったまで。この名が邪魔になるような真似をする気はねえから、てめえらで好きにやるといい。たまに飯を食わせてくれりゃ、それで充分だ」 「それはもう!御仙台様、噂に違わぬ…いや、それ以上の大海のようなお心、この隈八、仙台様のようなお大名は生来見たことあれしません。とは言えこれも商売事、なんぞ手違いがあったら仙台様にご迷惑かかってしまうかもしれまへん。これのなきよう、ことはゆっくり慎重に運びたく思います」 「そうか。苦い返事を聞かずに済んでまずはよかった。縄張りのこともあろうし、慶次といくらでも話し合え。必要なら時折は俺も飯を食いに来よう」 「ほんに有難いお言葉を…。ほんですから、今日のところは固い話は抜きにして、お連れ様とどうぞごゆるりしてくださりますよう」 と言って、隈八はまた恭しく頭を畳につけたかと思うと、人の好い笑みを浮かべて慶次に声を掛けた。 「ほなさっそく慶さんには聞きたいことありますんで、昔みたいに一杯、ちょいと他所でやりまっか」 「はいよ!仕事の話もいいけどさ、恋の話も聞かせておくれよ。そんじゃ、ちょっくら行って来るから」 隈八と慶次は立ち上がって、ぞろぞろ部屋を出て行った。政宗はさも当たり前のように手をひらひら振っている。佐助はびっくりして、思わず襖から廊下を覗いて、悠々と歩く慶次を引き止めた。 「ちょっと、俺をどうすんの!」 振り返った慶次は首を傾げている。隈八も足を止めて佐助を見た。どこか怪訝そうである。 「慶さん、あの方は仙台様の小姓と聞いておりましたけど」 「そーだよ。政宗の小姓さんで、佐助ってんの。俺と同じくらい無礼な奴だろ?政宗は無礼好きなんだよ」 誰が小姓かああ!!!!などと叫んだりはしない。多分無駄だからだ。 唖然とする佐助を置いて、慶次はどこか悪戯っ子の笑みを浮かべて、溜飲の下がらない顔をしている隈八の背を突いてどこかの部屋に消えてしまった。仕方がないので佐助も首を引っ込めた。 政宗を見れば、案の定腹を押さえて笑いを堪えている。たまらないといった感じで身体を震わせているので、いっそここで殺してやろうかと思った。一体政宗には何度殺意を覚えれば気が済むのだろう。 「お前は、ほんとーに、おもしろい奴だな。クク、ぶははは!」 もしかして、先日自分が立ち去った後の伊達屋敷から馬鹿みたいな笑い声が聞こえてきた気がしたのは、怒りから来る幻聴などではなかったのかもしれないと、佐助は思いなおしていた。 「一応、聞くけど。なんで俺を、連れてきたの」 わざわざ聞くのも馬鹿らしいと思ったが、そうしておかねば自分が納得できないのでまさしく一応聞いておいた。政宗は息を整えながら咳き込んでいる。何もそこまで馬鹿笑いすることはないではないか。 政宗が答える前に、給仕が三人して膳を運んできた。豪華絢爛、近頃終ぞ見ない晴れやかな料理の数々であった。佐助の給料が少ないのではなく、佐助自身も真田家も倹約家なのだった。 「ああ、酌はいい。今日は静かに飲みたい気分でな、女も下がらせておいてくれ」 これが紳士的なのかどうか、政宗は給仕の女の一人にこう言い添えた。女の方は勝手知ったるように口元で優しく笑い、ほなごゆっくり、とどこか清潔な印象を残して下がった。 「お前と一度飲んでみたいと思ったんだ。食えよ佐助」 「相変わらずわけわかんないな、あんたは。旦那とは屋敷で囲碁、俺とは酒屋で飲み会ってわけ?」 政宗が自分を名で呼ぶ違和感はともかく、佐助は並べられた朱色の膳に乗る色とりどりの料理を眺めた。もちろん酒瓶も何本か置いてある。酌をした方がいいのだろうかと思わず考えてしまったのは、佐助の性格と言っていい。政宗を見ればさっそく手近の酒瓶から手酌で飲んでいた。 どうも阿呆らしい。 「あんな路地に隠れてたわけ、当ててやろうか」 「とある要人を尾行してたんだよ。団子を買いに来た善良な一般市民の振りをしてね。あんたらのせいで邪魔されたんだ、どう責任取ってくれる?」 政宗はクツクツ笑っている。佐助の方は至極真面目であった。真面目な顔をして、美しく盛り付けされた魚を裂いて口に運んでいる。なにやら開き直ったらしい。 「そうかそうか、そいつァ悪いことをした。お前にはどうしても苦労ばかりかけちまうらしいからな、責任というなら、なにか望みのものをやらんこともないぜ。佐助、欲しいものがあるなら言ってみろ」 そうだなあ、と佐助はちょっと考えてみた。その間にも政宗はぐいぐいと酒を煽りながら佐助にも勧めてくるので、快く受けた。ぐいと一気に飲んで言った。 「平穏」 「は!そいつァ無理だ、諦めな。せめて物質で言え。しかし平穏とはね。ひょっとして真田家にいてもお前に平穏はないんじゃねえか?」 それはその通りと言えなくもない。 佐助は軽く酒がまわるのに任せて、「なぜ俺様が前田慶次に会いたくないと思うに至ったのか」というエピソードを、殴られて気絶したくだりをやんわり回避しつつ、きちんと身振り手振りを付けて話してやった。 苦労話のつもりだったのだが、これもやはり政宗にしてみれば単なる笑い話に過ぎないらしく、随所で笑い声を上げていた。 「そんなわけで、その野菜は今旦那の食卓に上がってんの。すぐ残そうとするんだけどね、俺が目ぇ光らせて許さないわけよ。…つーかそんな事してるうちに、どんどん周りから旦那の保護者扱いされるようになっちゃったんだよね。みんな旦那のことは俺様に言えばなんとかなると思ってんの。最近入った家臣の中には、俺を旦那の教育係かなんかだと思ってる奴もいるらしくって、敵わねえよ、ホント。だって今日も……」 ふと佐助は窓辺に目をやった。閉じられた障子の向こうからは、微かに雨の降る音がする。多少先程より雨足は強くなっているのかもしれない。佐助は溜息を吐いた。 「今日も?」 「今日も旦那は朝っぱらから開口一番、俺は今日は団子が食いたいのだ、佐助!て。俺が帰るまでに買って参れ!て。確かに俺暇だし、そんなお使い命じられるのだって今に始まった事じゃないけどさ、これなんていうんだろうね。場所が京都であろうが、信濃であろうが、ひっくり返ったって俺は戦忍びなわけよ」 佐助は政宗を見た。政宗は適当に膳をつまみながら、もう随分な量の酒を飲んでいる。酒豪というのは聞いていたが、さすがに目元に仄かに朱がさしている。少し眉を顰めているのは、佐助が自ら禁じた「忍び」という言葉を使ったからに違いない。 佐助はお猪口に中途半端に残った酒を舐めた。辛味の効いているのは、政宗の好みなのだろう。 「あんたらや普通の家臣みたいに、他に仕事があるわけじゃない。政務もなければ、家の役割もないし、戦がないからといって戻る畑があるわけでもない。あんたや前田の旦那のように、京都の孤児を救えるわけでもない。俺は戦場でしか」 言いかけて佐助は止めた。政宗を睨む。 「――あんたさ、碁を打って旦那を試したろ。まだ、旦那があんたと戦場でやりあう気があるのかどうかって。今度は俺を試そうってのか?」 本気でそう思っていたわけではない。政宗が佐助に対して確かめなければならないようなことは何一つないのである。政宗はあるいは佐助を酔っているように思ったかもしれない。 政宗は変わらず独眼で佐助を眺めている。 「また説教でもたれてみるか?この俺に」 「あれ聞いてあんたは笑ったんだろ。今のあんたも怒ってなんかいやしないもんな。そんなに俺が滑稽だったか?忍び如きがあんたに楯突く姿は、下賤を見るよりみすぼらしくて、さぞや興を呼んだんだろう。だから笑ったんだ、あんたは」 この言葉だけは、意外に思ったようだった。政宗は初めて杯を置いた。だがやはり怒っている風ではない。その代わり、独眼がチラチラ閃光を放っているように思ったのは、佐助が柄にもなく酔いはじめているからではなかった。 「この世で一体何人が、俺に説教くれてやれるのだと思う、佐助。あれはまるでガキを諭すみたいな言い方だった。赤の他人のお前が、よくぞこの仙台様とやらをな。言っておくが、俺は嫌われるのには慣れてんだ。お前がうじうじ俺を嫌ったところで、何とも思わん。けどな、」 雑音がうるさくなった。雨足が一層強くなったらしい。咲いた花はこれでいくらか散ってしまうのだろう。 「お前が忍びの前に人間であるように、俺も大名の倅である前に人間だ。世の中ひっくり返ったってそれは変わらねえ。俺にはあんたが人間に見えるよ。人間のあんたが俺に怒鳴って、幻滅させるなと言った。滑稽だったんじゃねえ。小気味よかったのさ。あんた、戦場じゃ、なんの面白味もないただの忍びだったのにな」 政宗は身を乗り出してそんなことを淡々と言う。酒が入っていなければ到底言えた台詞ではない。聞いていた佐助は、たまらなくなって目を背けた。あまりに予想外の言葉が返って来たからだった。のらりくらりとした政宗のこと、どうせまたあやふやな口車でなにもかも煙に巻くのだろうと思ったのだ。 それなのに、忍びという道具として今まで生きてきた佐助を、堂々と人間だというのだからたまらない。継ぐべき言葉が、どこを探しても見つからなかった。 幸村は佐助を人間であるなどと言ったことはない。その代わり戦忍びには不要の仕事を押し付け、当然の如くとしている。これは暗に佐助の人格を認め、人間であると肯定しているのに違いないのだろう。佐助はこれにもたった今気が付いたのだった。 (俺は人間だと思われてたんだ) まるで全身の力が吸い取られて、まったく気力がなくなってしまうかのような心持ちだった。なぜ、と思う。 (なんで、それを暴くのが、あんたなんだ) 理不尽であった。 黙りこんだ佐助を眺めたまま、政宗は更に酒を煽った。プツ、と薄暗い部屋に音がした。外は土砂降りらしい。最早春雨とは言い難かった。 |