まだ政宗が梵天丸と呼ばれた頃、政宗は小十郎に問うてみたことがある。お前の望みはなにか、と。なんのことはない、小十郎の誕生日を知ったから聞いただけのことだった。望みはきちんと聞けた。 「梵天丸様が、世に出ることにございます」 この時小十郎は二十歳を超えた所だったろう。その小十郎は、梵天丸と出会った最初の瞬間から、このことばかりをあるいは呪いのように政宗に呟き続けていた。 幼い梵天丸は十を超えた頃からその明敏さを表し始めていたが、その時は子供心であったろう、違う、と言った。なにが違うのかまでは、当の梵天丸にもよくわからなかった。違う違うと数日言い続けた結果、梵天丸は小十郎に手ずから草を取ってきて餅を作ってやった。以前小十郎がうまそうに食べていたのを思い出したのである。 またある時。梵天丸は既に政宗の名をもらい、家督を相続して間もない頃であるから十八の時である。小十郎は三十路を前にして、妻との間に子供を授かった。政宗が家臣達からの噂で聞いたのは、とんでもない話であった。小十郎がこの子を殺そうというのである。 政宗は幼い頃一度疱瘡で九死に一生を得た身であるだけに、生死に関しては並々ならぬ精神で接している男であるから、この小十郎の行動は気遣いではなく何か嫌がらせのようなものであった。政宗と正室愛姫との間にまだ子供はない。だから不忠にあたる、殺せ、というのが小十郎だった。 政宗はこの噂の真偽はともかくとして、小十郎に手紙を送った。 これこれとの噂があるが、真実そうだとしたらどうかどうかやめてほしい。まだこの政宗を頼りなく思うかもしれないが、どうか俺に全てをまかせて、子供を殺すような真似はしないでほしい。どうかどうか、よろしく頼む。 という内容である。この切実な手紙を見た小十郎は、嗚呼、と溜息を吐いて、結局子供は殺さなかった。 この頃から政宗は、小十郎の中で自分が頂点の存在なのだと知った。どの時点でそうなっていたのかは知らない。梵天丸の出世の必要を毎日子守唄のように言い聞かせた小十郎に私的な野心がなかったかと言えば、必ずしもそうではないだろうと思うのである。 それが証拠に、小十郎は昔こんな事も呟いている。 「もし俺の守役に抜擢されなかったら、今頃どうしてたと思う」 と、梵天丸が訪ねてみた時のことである。小十郎はいつもの冷静な眼差しで平然と、 「武田信玄が上洛を手助けしていたやもしれませぬな」 果たしてそうならなくてよかった。梵天丸はこう返して微笑した記憶があった。今考えれば、政宗という枷さえなかったのなら、奥州さえも飛び出して京を眺めていたであろうというのである。並々ならぬ自信と野心がなければ言えない台詞である。 奥州統一への道を着々と歩んでいる最中の話である。最上領近域で、政宗は側近らの小勢で鷹狩に出かけた。鷹狩と称した新しく広がった領地の偵察及び視察、であった。しかし政宗にとっては怒涛の如き他国への侵入を進める中で、ようやく一息吐ける貴重な機会とも言えた。 数日かけて宿まで移ると、その日のうちに鷹狩へ出た。小十郎も小姓の成実も一緒であった。日が暮れるまで領地の隅々から近くの農村を回って話を聞き、宿に戻ると持参の酒を振るって楽しんだ。 政宗は酒が好きでよく深酔いするまで飲んでしまうのだが、遠方に出てきたこともあって、宴もたけなわといったとこ ろで寝所に入って寝た。 その次の日である。成実が政宗を起こしに寝所に向かうと、そこはもぬけの殻で、馬も一頭消えている。慌てて小十郎の部屋まで駆けつけたが、小十郎も何も聞いていないという。一人で一体どこへ向かったというのか、二人して首を捻りつつも、大事があってはならぬと、小十郎は馬を駆って辺りを捜してみることにして、成実は宿にいて帰りを待った。 政宗はその奔放さから言えば、あるいは織田信長と比べることもできる。梵天丸の頃も、小十郎が出会ったハナこそ内気で臆病な少年だったが、数年したら見違えるような溌剌とした若殿に成長した。溌剌としていて、狡賢いところがあったので、時折側近の目を盗んではどこかへ忍んで遊びに行っていたようだった。これが賢いのは、騒ぎになる前にきちんと何気なく戻って、理由も拵えているところである。しかしそれもさすがに元服してからは落ち着いて、代わりに口で人を弄んではにやにや笑うようになった。 小十郎にはこれが小気味良い。しかし諫言をやめたことはない。人を喰った態度が悪いとは言わぬ。あるいは大名にとって必要不可欠な要素の一つであるかもしれないとすら思う。ただ、それが悪い方向に作用することもあるのだと予感していたのだった。 最早半里は駆けたかもしれない。小十郎は一旦馬を止めて、辺りを見渡した。位置は山の裾にあたる。波打つ小高い山々のどこかにまで、身軽い主は行ってしまったのかもしれない。 馬が無いし寝所が乱れていたわけでもないので、攫われたのではないのだろうが、それでもここは城内ではない。城内にも未だ政宗の母義姫の怨恨からかと思われる刺客が時折あるのに、ましてや城外で身の安全は全く保障できない。それを思って小十郎もこうして政宗を捜しているのである。 とにかく暫く馬で駆けることにした。それで巡り合えばよし、すれ違いになる可能性の方が高いので、一刻たったら戻ろうと思った。そうして南の方向に馬頭を向け、再び走った。 風は最早秋のものである。日差しが濁って心細い。 そのうち遠くに見慣れた馬の色を見つけた。藍色の軽装でいるのは、政宗に間違いないだろう。向こうも気付いたらしく、手を振って呼びかけた。合流してさっそく詰問してみれば、政宗は至って軽い調子で言う。 「草がいたぞ」 「草!?忍者がいた、と申されますか」 「そう。そこに見える山があるだろう。あれの低い所に、丁度溝のような形の隠れるにはうってつけの場所がある。そこにいた。お前も見知ってると思ったがな?いただろう、真田に」 真田の名を聞いて、小十郎はぴくりと眉を動かした。丁度一年程前の戦で政宗は真田幸村と邂逅し、刃を交えている。それは小十郎もよく知っていたし、その時政宗の言う真田の忍もその目で見ている。守役としてその戦ではずっと政宗の後ろを守っていたのである。 「あの、派手な」 「今日はちいとばかり地味だったぜ。ナリは行商人ってところか。それが、さっさと逃げりゃあいいもんを、ぐだぐだと取引を持ちかけるんでね、笑えて仕方がなかった」 「左様で…」 二人は馬を並べてゆっくり元の宿への道を辿っている。難しい顔をしている小十郎に対して、政宗は飽くまで気軽い。早くも草原を飛んでいるトンボを見つけて一瞬童子のように目を輝かせたと思うと、その気軽さのまま言った。 「そうそう、一人使いを走らせて、城の警備を強化させろ。あいつ、まだウチで何かやるぞ。……おもしろいことも言いくさったな。最上が、忍を雇って城を警護させている、とか」 「使いはやりましょう。しかしその情報は所詮忍の言うこと、当てにはなりますまい。殿は信用なさると?」 政宗はちょっと考えた風であった。そして、どうやら本当のような気もした、という曖昧な答えを言ってそのまま黙った。小十郎はそれならば真実やもしれぬと思う。政宗のいわゆる第六感は異様なほど鋭い。 「しかしこのように不慣れな土地で勝手に出歩くのはよしていただきたい。その忍に殺される可能性もあったのですぞ。……その忍、あるいは殿を尾行していたのやもしれませぬ」 結局一人で何をしようとしたのか、聞いても答えようとしない。代わりに、忍と会ったのは正真正銘単なる偶然で、予想外だった、と言ったきりである。 宿に戻ると、政宗は小十郎よりもむしろ成実にくどくどと怒られた。というよりは、朝姿が見えなくてどれ程心配したかを切々と語られた、と言ったほうが正しい。これをうまく撒いてしまうのには、さすがの政宗も手を焼いた。一つ年下の、生まれた時から共にいる同胞とも言える他でもない成実だったからだろう。 「わかった、わかった。お前が俺を一番に考えてくれているのは、ようくわかった。俺が悪かった」 素直にこう言われて、ようやく成実はひん曲げた口を閉じて、しかしまだ尖らせている。向こう一週間はこのことを出汁に使われるのだろう。政宗は小十郎に冗談交じりにそう言って、昼からまた鷹狩に出かけるため衣装を用意させていた。政宗の衣装は金銀煌びやかな眩いものである。それを小姓に付けさせる。 「たまに、あいつはお前よりも厄介だな」 既に支度を終えて、そばで聞いていた小十郎は、そうですな、と頷く。 「確かに成実殿は、殿を一番に考えておいででしょう。しかしそれは、我ら家臣団全員に通じること」 「お前もか」 「無論」 政宗は何か満足気に笑っている。その中にどこか哀愁のようなものを感じ取れたのは、小十郎がこの世で一番政宗の感情の機微に鋭いからに他ならない。子供の頃とは比べ物にならぬほど成長した政宗であっても、小十郎にしてみればまだどこか梵天丸の面影を残しているのである。 影という程の影でもない。しかし政宗の機嫌はいいようなので、気になった小十郎は尋ねてみた。 「何か思うところでもございますか」 すると少し驚いた様子をした政宗は苦笑して、 「本当に、お前に隠し事をしようと思って、できたためしがない」 政宗がするすると話し出したのは、真田幸村のことであった。彼と戦場で出会った時の話を聞くのは、これで幾度目か知れぬ。 最初槍をふるって自軍の兵を突き殺す幸村を見たとき、政宗は、その姿に何か爽やかなものすら感じたのだという。その身に烈風を取り巻いて血を浴びる幸村は、鬼とも、仏の使いとも思えたらしい。 それを言うたび、政宗は自嘲染みた笑いを零す。我を忘れることほど愚かなことはないとしている政宗だから、それも当然かもしれない。 気付いたら六爪を引っさげて幸村に向かっていたというのだから、余程のことだろう。 「俺は自分が怖かったんだ、小十郎。人を殺すのにも、兵が死ぬのにも、いつの間にか俺は慣れた。あるいは仕方ないとすら思った。そんなんじゃ師匠にまた怒鳴られるのはわかってる。何千人もが俺を信用して、そうして俺がそいつら殺す時もある。それを俺は、一時たりとも忘れちゃならねえ」 政宗が言うのは人取橋での苦戦であろう。お世辞にも勝った戦とは言えぬ上に、味方に甚大な被害を残した。政宗の身体にも小十郎の身体にも、その時受けた傷が残っている。 「それは、この小十郎も承知しております。……しかし、怖いとは」 政宗の背中で紐を縛るまだ幼い小姓の手が震えている。政宗の話を恐ろしく思ったのだろう。政宗が気遣って、お前は下がっていていい、と言ったが、小姓は、いいえ、と小さく首を振った。 「……真田の忍を見たとき、俺は自分でも知らないうちに、あいつの姿を探した。こんな所にいるはずもねえのに、それでも、何か期待せずにはいられなかった。……なあ小十郎、怒らないで聞いて欲しい」 「……は」 小十郎にはこの時政宗がまだ人の死を知らぬ幼子に見えた。幼子が、何か悪さをしてその罪悪感から自供するような響きを持っていた。 「俺は誰かの一番になったとしても、誰かを一番になど、してはいけないと思ってる。……小十郎、これは時に多くの仏を殺す俺の枷だ。俺の体は、俺のものであって、俺のものじゃない。お前のものでもあり、家臣どものものであり、兵のものであり、民のものだ。そして、母のものだ。その俺が」 恨みでも、計算でも、慕情でもない、どこから来るのかわからない欲のために、一人の人間を求めている。一人の人間を、この手で殺したいと願っている。 政宗の声は段々小さい。小十郎は思わず、梵天丸様、と呼んだ。 「だから、自分が怖いんだ。笑うか?」 「いいえ。……いいえ、政宗様」 今この場で泣き崩れでもしそうな政宗を抱いてやる人間は存在しない。小姓は手を止めてただ政宗の背中をじっと見ていた。小十郎も、政宗の横顔をただただ見てやるしかできない。抱きしめてやっては、この竜はだめになるのだ。 「お前の望みはなんだ、小十郎」 「小十郎の望みは、政宗様が奥州を統一し、そして広き世界へと出ることにございます。……あなたに仕えた瞬間から、それは変わりませぬ」 「そうだろうな。ああ、そうだ。お前の、その、言葉だ」 まるで呪いだ。とまでは言わなかった。小十郎のこの言葉が、一番最初に政宗の目を世界に向けさせたのだった。政宗は小十郎の慣れた響きを噛み締めるかのように、暫く目を瞑って、黙っていた。小十郎にはこれが、まるで幸村への殺意を必死に押し込める作業に見えた。押し込め、そして次に目を開けた瞬間には、もう政宗は幸村をその手で引き裂くことを願う侍ではなく、奥州を束ねる伊達政宗であった。 もう、違う、とは言わない。これが小十郎の心の柔らかい部分を揺さぶって仕方がなかった。何かねっとりとしていて、禍々しいにも関わらず、得も言われぬ快感を含んだ感情であった。 政宗は立ち上がって、行くぞ、と言った。小十郎もそれに続く。 (殺さねば、前に進めぬというのなら) 手助けでもなんでもしよう。虎哉はこれを叱るかもしれないが、それでも構わないと思った。真田幸村一人の命が政宗の深い所を駆り立てて止まないのだ。ならば、殺せばいい。 小十郎は苦笑した。あまりに物騒なことを考えている自分に気が付いたからである。 |