人食いが出るそうである。 北国の山奥を更に北へ北へと進むとその人食いの根城があり、その根城はなにやら不気味にほの明るく光っていて、迷い込んだ人を呼び寄せるのだという。それが古くから伝わる伝説であった。 今あるのはそれとは別の話である。人食いはぱっと見ると獣の形をしているのだが、それと思って狩ろうとしたり、手懐けようとして不用意に近づくと、たちまち人の様になって言葉巧みに誘いこみ、油断した所を頭から食われてしまう。どうやら町に出るのはこちらの類のようだった。 食われた人間は骨も残らず、ただ血と衣服のみが散乱している。それが発見されて大騒ぎになる。 近くの住人に話を聞けば、大概夜半に狐が啼くのを聞いたというから、人食いはどうやら狐のあやかしらしいとされている。 この話が北の国の城主に伝わるまで大した時間はかからなかった。 「この三ヶ月のうちで、七人は食われております」 一の側近が今のように人づてに伝わったこの話をすると、若い城主はさも面白げに笑った。 「笑い事ではござりませぬぞ。このまま人食いを野放しにしておけば、やがてこの地に住むものはなくなりましょう。そうなっては、代々続く伊達家の名折れ…。なにか対策を錬らねばなりませぬ」 この側近は片倉小十郎という。真面目で家に対する忠義が厚いこの人間の、もっともな憂いであった。なので城主は狐狩りをしてやることにした。残暑ながら、早くも秋の気配のする日々のことである。 とは言え、この城主は、小十郎の話を一から十まで信じきっているわけではなかった。人が死んでいるのは本当だとしても、そもそもあやかしの存在を疑っているばかりか、よもやこの出来事は人間の仕業ではないかとすら思っている。 狐狩りをしてやったのも、民衆の気休めと、冬に向けて毛皮が使えるから、といった理由に過ぎない。 しかし暫く行われたこの狐狩りは効果もなく、それどころか被害は増える一方で、二十人食われたあたりからさすがのこの城主も辟易させられてきた。夜半の見回りにと出した兵が食われてしまうのだから、皆恐ろしがって誰も夜中に出歩こうとはしない。 狐はもともと神聖な生き物でもある。だから仲間を殺されて、人食い狐の怒りを買ってしまったのではないか、という話がたちまち国に広がったので、狐狩りは早々に中止された。 しかし被害はどうにも止まらない。秋に入ってからはますます酷くなり、最早昼間でも安心はできないとして、国中が水を打ったように静まりかえってしまった。それでも入用だからと外に出た人間が食われる。 「どうしたものか……」 年若い城主は、ここで初めて小十郎に弱音を吐いた。これは事体を軽く見ていた彼の責任とばかりは言えず、得体の知れない前代未聞の事件に、小十郎以下の家臣も、全く打つ手なしといった状態だった。 大体一日に一人という調子で食われていく。晩餐のつもりなのだろう。時には二人食われている。その状態が秋中続いた。ところが、北の国にさっそく初雪が降った頃、被害はぴたりと止んだ。 これには城主をはじめ、人食いに恐々としていた人々全員が安堵した。それでもまだ用心として夜中に出歩くことはできなかったが、辛く厳しい冬にまであやかしを気にする必要がなくなって、ようやく北の国に平穏が戻ったかに思われた。 噂では、恐らく狐の方も、雪深くなっては山から下りるのが難儀なのだろう、というのが通説だった。 この北の国では、一度雪が根付いたら春までなくならない。城主の伊達政宗は、屋敷から見える雪山を望んでいた。隣には小十郎が控えている。 「あれに、人食いはいるのだろうかな」 「あるいは…」 「今は止んでいても、いつまた食いだすか…。忌々しいことだ」 果たして、政宗の予想は当たってしまった。 特に雪が深く、殆ど吹雪のような状態の日、北の国はじっとそれを耐え忍んでいた。そんな時に、どうしても医者が必要だとかで、外に出た男がある。妻と娘の三人暮らしで、妻が重い病を患っていた。いつまで経っても帰ってこないが、吹雪のために確かめに出ることもできず、次の日ようやく探しに出れば、医者の住まいへ辿り着く直前の真っ白な道の上に赤が散らばり、男の着ていた衣も傘も落ちている。 娘は泣き崩れて、医者の間に合わなかった母は死んでしまった。娘も両親を殆ど同時に失った衝撃と恨みと疲労とで、やがて気が狂って崖から身を投げた。 これを皮切りに、人食いは今度は一日おきに一人二人と食べるようになった。 今までにない悲劇も相まって、冬にも関わらずこの国を出て、そのまま遭難してしまうものも出てきた。こうなっては最初の小十郎の言葉通りになってしまうのも時間の問題だった。 どうしたらいい、と再び呟いた政宗は小十郎が止めるのも聞かず、馬を出して山に向かっていた。 「狐!」 と政宗が叫んだのは、殆ど悲願のようなものであった。政宗は一人以前眺めた山の麓にあって続けた。 「お前が何を思って人を食うのかは知らねえ!いつか俺が命じた狐狩りを恨みに思うのなら、それでもいい!だが、これ以上俺の民を食われては、この国は滅ぶ!どうか、どうかもうやめてくれ!代わりにお前の望みを聞こう!なんでも言え!俺の民を救えるのなら、出来る限りをしよう!どうか、頼む!」 最早この時の政宗には、これが人間の仕業なのでは、などという疑惑は微塵もなかった。あるいは真実そうだったとしても、それを確かめる術がないのである。ただこうして一縷の望みを賭けて、人食いがいるとされる山に呼びかける他ない。 痛く冷たい静けさが冴え渡り、政宗はもう殆ど足の感覚も無いほどだった。それでも諦めきれず、何度も、どうか!と叫んだ。それ程に政宗は追い詰められていたと言ってもいい。 政宗は肩で息をしていた。力一杯叫んで、息が足りなくなったのである。頭がふら、として足元に目をやったその一瞬の間である。次に頭を上げると、目の前に立派な狐が座っていた。 この狐を呼んで叫んでいたのである。だが、あまりに突然の出来事だったので、政宗は言葉が出てこなかった。それ程に見事な若い狐であった。橙がかった黄色は冬毛なのだろう、ふさふさと柔らかそうであるのに、その艶と輝きはどうだ。政宗はこれ程美しい狐を見たことがなかった。その尾は九つに割れている。あやかしである証拠であった。それに、細長い顔の両耳から、鼻筋の辺りを通って、筆で書き殴ったような深緑の模様がちらちらと怪しい輝きを放っている。 (足がなくなるよ) 果たしてこれは狐が言ったのであろうか? 政宗が確認する間もなく、狐は、こん、と一声啼いて柔らかく翻ったと思ったら、もうそこに姿はなかった。その代わり、雪に埋もれていたはずの政宗の足元だけ、綺麗に雪がなくなっている。 もう一度叫ぼうかと思ったが、恐らくもう出てはこまいと思い、その日はそのまま屋敷に帰った。その際、また来る、だからどうか人は食ってくれるな、と言い残した。 果たして次の日、被害は報告されなかった。これを聞いた政宗は昨日の出来事を小十郎に話してみせた。小十郎は驚いた様子であったが、まず政宗が食われなくてよかったと言い、そしてやはり今日も山を訪ねてみる必要があるだろう、と言った。 「お供を致します」 「いいや、昨日一人で行った。今日も一人で行く。うかとして、狐の機嫌を損ねるかもしれねえからな」 「政宗様を食わぬとも限りませぬが…」 「と言って、他に手立てもないだろう。何、食われそうになったら俺も奴を刺し殺してやるさ」 そうして政宗はまた馬で山へ向かった。今度は凍傷にならないようきちんと防寒している。昨日と同じ場所に着くと、さすがに不安になってきたのは、狐が再び現れるという保障などどこにもないからである。それでも政宗はまた昨日と同じように叫んだ。 「さあ、狐!まだ俺はお前の望みを聞いていないぞ!取引をしようじゃねえか!」 狐はすぐに現れた。太い木の上にいて、枝にゆったりと座っている。九つに割れた尾がゆらゆら楽しげに揺れ遊んでいる。政宗はほっとして、また、狐!と呼んだ。 (そんなに大声を出さなくても聞こえるよ) 声とも知れぬ声はそれでも確かに聞こえるので、政宗は頷いて狐の黒い瞳をじっと見た。 「聞こえただろう。俺はお前と取引がしたい。国と、お前の望みをかけてな。お前なんだろう、夏の終わりからこの国で人を食い続けてるのは」 (そう。あんたの大切な大切な民を何人も食ったのは、この俺様。……俺が憎いかい、伊達政宗殿?) 「昨日の仕業といい、その姿といい、お前があやかしなのはわかった。あやかしで、獣だ。だから民を食ったことをどうこう言う気はねえ。人間も獣を食べるからな。だが、あやかしなら話が通じないわけでもないんだろう」 するとけたたましい笑い声が寒空の下に響いた。政宗は唖然として顔を顰めた。 (あんたに何ができる?確かに俺はあんたらの言うあやかしで、人の言葉がわかる。だからって、あんたら人間のする小汚い取引をしろって?まあいいさ。それで、一体あんたに何ができるってんだい?あんたみたいなちっぽけな人間にさ。今ここで俺様に食われておしまいさ、あんたは) 「俺を食うのか」 (どう?食われたい?あんたがここで食われても何も変わらない。俺はこれからもあんたの国を肥しにさせてもらう。さあ、どう、伊達政宗殿?俺に食われたい?) 「……そんなことを言うなら、なぜ昨日食ってしまわなかった」 (人間とあやかしを、同じと思うな。明日も来るかい?俺に懇願しに、来るかい?来るなら今日も食べずにおいてやってもいい。来ないなら、また娘でも食べる。北の女は肌が白くて柔らかくて、そりゃあおいしいんだ。見ものだ、見ものだ、あんた、どうする?) 楽しそうな声でそんなことを言って、狐は靄のように姿を消した。待て!と思わず叫んでみても、最早そこには清閑な雪山と狐のいた太い幹が残るばかりであった。 結局政宗にはまた山を訪れる以外の選択肢がない。俺で遊んでいるのかもしれねえな、と政宗が憂鬱そうに小十郎に零したのも無理はない。次の日も政宗は同じ山への道を馬に跨って歩いていた。 すると、その場にいたのはまだ年若い青年であった。怪訝に思って、狐か、と尋ねてみた。 「いや。この山にただならぬ妖気が立ち込めていたので、寄ってみたのだが…。下の町で話を聞けば、なにやら酷い有様の様子。お尋ねするが、このように危険な場所に、貴殿は一体何用なのか」 若者はまだ十代と見えたが、精悍な顔つきを見るに単なる旅人というわけでもなさそうだった。聞けば、修行中の僧侶なのだという。それにしては後ろでまとめた髪が尻尾のように靡いているのが不釣合いで、政宗はついこの若者にこれまでの経緯をありのままに話した。 若者は、名を幸村といった。政宗の話を気の毒に思って、よければ某もここで狐に会ってみたい、と言い出した。確かに、僧侶というのならばあやかしにも多少通じていようし、なにより今は藁にでも縋りたい思いだったから、政宗は快く承諾した。 「狐」 これまでと同じように呼びかけてみたが、今回はなぜか何度試みても返事も姿もない。政宗は首を捻って、最後に大きく、俺はここへ来たぞ!どうか、今日も食べてくれるなよ!と叫んだ。そうして幸村を屋敷に招いて、丁重にもてなした。 「なぜ、今日は出てこなかったのでしょう」 同席した小十郎も、政宗と一緒に首を捻った。幸村は余程腹が減っていたと見え、勢いよく味噌汁をかっこみながら、ふむ、と唸った。 「おそらく、某があの場にいたのが悪かった。それに相手が僧侶だというので、警戒していたのでござろう」 では、と政宗が不安げに言うのは、また奴は人を食らうだろうか、という一点だった。それに幸村は首を振り、約束を破ったわけではないのだから、それはなかろうと思います、と言う。 「あやかしというのは神にも通じる生き物。その盟約として、人と交わした約束を違えぬという掟がござる。伊達殿もご存知の通り、狐は人を化かし食らいもするが、時に人に祀られる。それは、人が狐に供物を捧げる代わり、狐はその地を守る、という約束が働いているのだということ」 無論、真実狐と約束を交わした例は少なかろうと思いますが、と締めくくって、幸村は碗を置いた。 「なるほど、だとすれば、我らもあの狐と約束を交わすことができれば…」 政宗は、ああ、と頷いた。 |