その夜、俺は再び家を抜け出し、昨晩とは反対方向の道を歩いた。小十郎にも誰にも告げていない。 あの後家に戻り、俺はすぐに庭で炭を全て、灰になるまで焼き尽くした。ただ一つ、昨晩の祠にあった炭だけは残して。今その炭は布に包まれ、俺の手に握られている。 適当な場所に来て丁度いい切り株を見つけると、俺は胡坐を掻いてその場にどっかと座った。そのまま瞑目する。昨夜よりも、少し風が冷たかった。まわりは木々に囲まれている。さわさわと木の葉が擦れる音だけが響き渡る。そのうち、目の前に妙な気配を感じる。 (よし、来た) そう思う間もなく、目の前の気配は消えた。その代わり、俺の真後ろに突然気配が現れる。俺は目を開けて振り返った。ゆらゆら揺れる尻尾に、夕日色の髪。今日は小袖の上に、裾の長い浅葱色の羽織を着ていた。 「……ビンゴ」 「なんてことしてくれた?」 男の、狐の顔は、忌々しそうに歪んでいた。俺はちらりと死を思ったが、好奇心に押し負ける。果たしてこの好奇心は猫を殺すか。狐の歪む顔に、俺は「意地悪い」と称される笑顔を浮かべてやった。 「嬉しいねえ、あんまり予想通りで」 「相変わらず姑息な知恵はまわるんだね?それで、わざわざ一つ炭を残して、俺になんか用があったんだろ。その賢さに免じて、話してやらないこともないよ」 「ふうん、じゃあまず一つ、しっかり確かめてえんだがよ。コイツのおかげで、お前は山を出られるのか?」 俺は炭をひらひら振ってみせた。狐はくらりと首を動かして、そーだよ、とぞんざいに言った。ふわりと狐の身体が浮く。そしてまるでそこが地面でもあるかのように、虚空に寝そべった。 「それくらいわかってんだろ?現にあんたのとこにいるんだし。……それを焼いちまって、俺は山に篭る羽目になって、それでおしまい。よかったね、あんたの言うがくせーせーかつとかいうのを満喫したらいいさ」 「そうだ、それがちいとばかし気になってるんだ」 「……はい?」 狐はくるりと反転してやはり空中で頬杖をついてみせた。足をぷらぷらやっている様は、ガキくさい。心底どうでもいいといった風に爪をいじくっている。 「お前と『政宗さん』の約束は、この四百年の間、誰の邪魔もなく守られ続けてきたんだろ。いや、お前は守らざるを得なかったのか?なのになんで俺は簡単にお前の行動を制限できる?ただ炭を焼いただけだぞ。いいや、それはできて当たり前だ。お前の方が妙だ。山を下りるにしたって悪さをするにしたって、やろうと思えばできることじゃねえか。だがお前はそれを妙な力で封じられてる。まるで…」 まるで、人間の方には約束を破る権利があるみたいじゃないか。 狐はふうんと言ってみせたが、やはり興味は無いらしい。 「そこに気付いただけ偉いんじゃないの?まあ、答える気はないけどね。……人間とあやかしは違うんだよ、伊達政宗。裏切者はいつも人間だ。口ではうまいことを言って、結局俺達を騙していいとこどりだ」 「じゃあ最初から約束なんざしなけりゃいいだろ。それくらいの知恵も、妖怪には無いってのか?」 突然虚空をふらふらするのをやめ、狐は俺の目と鼻の先に飛び降りた。何か懐かしくて奇妙な香りが漂ってくる。狐はギラつく目で俺の目を覗き込んで逸らさなかった。思わず生唾を飲む。 狐は赤い口を弧にして、やはり赤い舌をのぞかせた。 「ほしいものがあったんだよ。不自由も不平等もどうでもよかった。なのにどうしても手に入らなくて、それでも、死ぬほどほしいものがあったんだよ」 ……望まれたい……? 俺はこの狐自身が言った言葉を思い出した。しかし狐の手が俺の首にかかり、思考を中断される。その力は徐々に強くなった。 「あんたの顔を見てると何もかも同じで虫唾が走る。その口は俺の名前すら紡がないくせに…!」 知るか、そんなもの。朧になる意識をなんとか掬い上げて、切れ切れに俺は声を発した。 「お、まえ、……ぐ、いしょ、を、見たか」 いしょ、という単語に反応したのか、狐は力を緩めた。俺は倒れ、咳き込んだ。そんな俺を狐はつまらなさげに見下ろしている。 「遺書…?」 息を整える。 「そうだ。お前の言う伊達政宗の、遺書だ。それにはこう書いてあったぜ。自分が来世に生まれたら、約束の効果がどうなるかわからないってな…。てことは、政宗公が生まれ変わるまでは、約束は有効、それ以降はまったく未知ってことだ。お前の反応を見る限り、どうやら俺は政宗公の生まれ変わりみてえじゃねえか?」 「……それが?」 「試してみねえか、狐。まだ続いてるこの約束の効果が、『政宗さん』か、それとも『俺』とのものか。もし約束が俺に引き継がれているとしたら、お前にはできなくても俺は約束を反故にできる」 狐は首を傾げた。 「なんでそんなことすんの?このまま俺を山に封じ込めればあんたの一人勝ちだろ。必要ないじゃん」 「教えてやる」 俺はにやりと笑い、なんとか立ち上がった。掴まれた首がジンジンするので、恐らく跡が残っているだろう。だが怖くはない。そうだ、恐怖は無いのだ。 「俺が今まで生きてきた中で、お前みたいなのに出会ったことはねえ。千載一遇のチャンスだ。妖怪には理解できないかもしれねえが、俺は退屈なのは我慢ならなくてね。確かに、ここでお前を封じればなにもかも丸く収まる。だがそれじゃあ俺がつまらねえ。言っちまえば、俺には学生生活なんざどうでもいい。お前を手懐けるほうがずっとおもしろそうだ。だから賭けてやるんだよ」 狐は俺の言葉を飲み込むように目を細め、腕を組んでいた。また首を傾げるが、今度は何か確信犯的な笑みを湛えていた。 「どっちにしてもあんたの都合のいいように転ぶってわけ?だったら好きにしたらいい」 教えてやる、と狐は先ほどの俺の言葉を借りて、静かに俺の傍に寄った。身長がさほど変わらないので、目線がかち合う。 「俺は政宗さんとずっと一緒だって約束した。そのかわり、俺は人間を食らわない。ただ、山に迷い込んだ人間は食らう。もう一つは、多分あんたが予想してる通り。政宗さんが死ぬ少し前、魂の入った遺骨をあの木の下に埋める代わり、俺は行動範囲を山の中とその炭の祀られている周囲に制限する上に、境内では悪さをしないことにした。それが俺達の約束。破れよ、裏切者」 狐の目の奥が燃えているようだった。破り方ってのが多分あるんだろうが、うん、多分要領はわかる。大体俺の方はもう一緒にいるという約束を破っているのだから、つまりは狐を解放してやればいいのだ。 俺はニタリとした。小十郎がいたら「だから第一印象が悪いのです」と言われる顔をしてるんだろう。 ……。……。………! うるせーな。俺の睡眠を妨害すんな、※。 …か、バーカ!政宗さんのバーカ!! ……※。 バカー!!! 「だからうるっせーんだよ!!しつけーぞ!!ブチ殺されてーのか!!」 ……ん?返事がない。あ、そうか。もうあのクソ狐はいないんだった。六畳間の俺の空間は、平和そのものだ。実家のだだっ広い部屋よりはこっちの方が落ち着くようになってしまった。 俺はまだ時間が早いことを確かめると、自分で引き剥がした布団にもう一度くるまった。この季節は本当に布団が気持ちいい。 俺は当初の予定通り、GWが終わると誰にも咎められることなく下宿先へ帰った。狐の悪戯はあの日以来止まった。おふくろも小十郎も、俺を引き止める理由を無くしたというわけで、(駅まで見送りにきたおふくろの盛大な別れの惜しみ方はもう説明しない)俺には無事平穏な学生生活が戻ってきた。 フン、学生生活がどうでもいい?そんなわけねーだろうが。妖怪と言ってもやっぱり獣は獣だ。 「誰が危険冒して約束反故にするかっつーの…」 (ふーん。やっぱそういうことなんだ。ふーんへーえ。で?一体どんな手品をしてくれたわけ?) 「んなの簡単だ、俺は単に俺が政宗公の生まれ変わりだって確かめたかった。あとは悪戯を止める。炭がなくなりゃそっちは万々歳、だから一つわかりやすい約束を破って証明しようとな…ってオラアアア!てめーなんでここにいんだよ!!」 (なんでって、あんたが約束反故にしてくれたからに決まってんじゃん?) いつの間にか布団の上に圧し掛かって尻尾をふらふらさせていたのはあの狐だった。今日は獣の姿だ。ああ、重い!なんだってこいつはこんなに重いんだ!? 「俺が反故にしたのは、お前が境内では悪さをしないって約束だ!お前は山から出られないはずだぜ!?」 狐がニタリと笑った気がした。……なんか俺は見落としてる。直感的にそう思った。 (うん、あんたは境内で悪さをする程度なら見逃してやるつもりで、その約束を破ったんだよね?でもさあ、あんた勘違いしてんだよ。俺は確かに約束を破れないけど、あんたも気付かないうちに、その約束は破ってたんだよ。俺はもうずっと前から、境内で悪さもできるし、山も下りられる) 「なんだと…?」 俺が動けずにいるのをいいことに、狐は人間の姿に化けた。重さは変わらない。そして布団を剥ぐと、俺の鎖骨の少し下あたりを指で突いた。 「な…」 「遺骨のことを言ったよね?『魂の入った』…って。あんたの魂はね、あの土地にある時に限って、二つに引き裂かれてた。遺骨と、あんたの身体と。だから俺はあんたが土地を出るまで、政宗さんが生まれ変わってることに気付かなかった。あんたは山に登ってこなかったしね」 「俺が土地を出たら…?」 「魂ってのはそんなに離れておけるもんじゃない。魂は遺骨から抜け出して、あんたの元へ帰った。どういうことか、わかる?」 つまり、遺骨に入っていた魂と俺の魂とが一つになった時点で、約束の必要条件である『魂の入った遺骨』はなくなり、そのため二つ目の約束は無くなってしまった? 「……俺が土地に戻ってる間はもしかして、その約束が復活してたのか?」 「そう。あんたが戻ってきて確かめたら、遺骨に魂が入ってた。…随分不安定だったけどね?」 「じゃあなんであの祠のまわりでしか悪戯ができなかったんだ。俺がいなかった間は約束が消えてるだろ」 「できなかったんじゃなくてしなかったの。あれはあれで便利に移動できるから有効活用してたし、わざわざ遠くまで離れて悪戯する理由もないっしょ?」 ここでまた俺が、なぜ悪戯をしたのか尋ねたらこいつは拗ねるんだろうか。 真意はどうあれ、俺を呼び戻し、魂がどういう状態になっているのか確かめるため、というのは理由の一つだったんだろう。俺の行方がわからないからそういう手段を取る他なかったのか。 ……子供っぽい……。 「……で、結局俺がまた出て行ったから、お前は自由に動けるってわけか…あ、おい、それより一つ目の約束はどうなってんだ!?ずっと一緒だかなんだか知らねーが、お前、人を食えるように…」 狐は急に真面目な顔になって、布団の上で胡坐を掻いた。……躾が悪ィなあ……。 「食えるよ。それも反故になってる。遺骨から魂が消えたってのもあるけど、だって、あんた俺のこと忘れてんだもん。まだ魂だけしかない状態だったら我慢してやったけどさ、きちんと何もかも同じ身体があって魂もそっちに入っちゃって、あんたは政宗さんそのままなのに、さあ」 「……お前らの約束は、意識の問題なのか……?」 「さあね?でも反故になっちゃったもんはしょうがないじゃん。それは神様が決めることだもん」 もんとか言うなもんとか。つまり俺があの土地に帰らない限り、こいつは好き勝手し放題ってことか?悪戯はまだしも、人まで食われたらさすがに困る。……癪だが、戻るしかねえか? 「……そうか。それでお前は俺にどうしてほしいんだ?……え?狐。遠路はるばる訪ねてくるくらいだ、何か言いたいことがあんだろ」 「言ったろ、不安定だったって」 不服そうに言い、ようやく退いたかと思うと、狐は今度はテーブルの上に腰を下ろした。とことん躾のなってない獣だ。狐の目は、またいつかのように悄然としていた。どうも躁鬱が激しくて、こっちが対応に困る。 「一度は戻ったけど、多分二度目はない。もともと一つの魂だったんだから、癒着しやすくて当たり前なんだよ。だからもしあんたがあの土地に戻ったとしても、もう約束は戻らない。ねえわかる?」 一房の尻尾が、俺の頬を撫ぜた。なんだ、何を言いたい? 「また、ふりだし」 狐は顔を伏せた。夕日色の髪が、ばさりと垂れて狐の顔を隠してしまう。 政宗さん、と小さな声が聞こえた。『俺』が狐にそう呼ばれるのは、多分はじめてだった。 「俺、食べないよ」 「……狐?」 「悪さもしない。……多分」 「おい」 「もう約束はしない。しても無駄だってわかった」 狐は微妙に顔を上げ、髪の隙間からその深い緑をした目を覗かせた。 「縛り付けても、あんたは俺の欲しいものをくれない」 「なんの話だよ」 「でも、いっしょにいて」 俺は多分目を丸くしていたんだろう。こちらを向いた目が濡れている気がしたのだ。憎まれる筋合いだってないが、好かれる謂れだってないはずなのだが…。 「俺は政宗さんじゃねえよ」 「違うかもね。でも、俺の名前を呼んだよ」 「呼んでねえ」 「呼んだ」 「いつ」 「寝言で」 ……記憶にねえぞ。 じゃあ何か、こいつは俺が名前を呼んだってだけで、あんだけ嫌いだなんだと騒いで殺しかけたような相手と、四百年前の関係を続行させましょうって言ってるのか。しかも約束抜きで、俺に都合の悪いことはしない、か。 「それに、俺を手懐けたいんでしょ?」 にやにやしている。あ、そーか、こいついずれ約束が完全に消えるのわかってて、あの夜俺で遊んでやがったな…!なんにも考えてなさそうなボケっとした顔しやがって、クソ狐が。 俺の後をつけてくるくらいなら、最初から構ってほしいって言えばいいだろうが。 「……わかった。とりあえずしばらくはここに置いてやる。本当に悪さをしないかどうかな」 「ほんとに!」 なんだなんだ、嬉しそうな顔しやがって。どうせ嫌だと言ってもいるんだろうが。 「とりあえずだからな。とにかく俺は今から学校だから、留守番してろ」 「学校?行くの?」 「当たり前だろ」 「もう遅いと思うんだけど」 「なんだと?」 狐は尻尾で器用に置時計をひょいっと持ち上げた。その時計がさすのは、いつも俺が起き出す時間だ。 ……いやな予感がした。 「お前」 急いで充電器から携帯をひったくって、電源を入れた。…なんで十二時なんだ? 「針動かしやがったなああ!!!!!思いっきり悪さしてんじゃねーか!!!出てけ!!」 「やだ」 「やだじゃねーよ!!」 「名前呼んでくれたらガッコウまで飛んでってあげてもいーよ」 「だから知らねえって言ってんだろ!お前な、言っとくがここは食料の豊富な山ン中じゃねえぞ?俺が調達してこなきゃてめえはいずれ餓死だ!わかってんのか!」 「俺百日は食べなくても大丈夫だもん。…食料はないけど人間はいっぱいいるじゃん。それ食べる」 「食べるんじゃねえ!!お前自分の発言に責任持てよ!!」 「けち」 「帰れ!!」 その昔の話だ。 俺の前世は殿様だったらしく、その殿様はタチの悪い妖怪が悪さをしたので、そいつと契約を交わした。お互い利害が一致して、それで事無きを得たんだろう。 ……裏切者の俺は、どうするべきか。 とりあえず、このクソ狐を躾ける計画を立てることにした。 |