次の日山を訪れると、狐はあっさり出てきた。ものぐさに後ろ足で首を掻く仕草だけを見れば普通の狐となんら変わりなかったが、それにしてはその身体に何とも言えないぼんやりとした光を纏って、今にも消え入りそうな不安定さがある。始めの日からずっと馬が怯えずにいるのは、向こうに敵意のない証なのだろうか。 「昨日はすまなかった。こちらも予想外でな」 狐はその点については何も言わない。その代わりに無心で毛づくろいをしている。 「……それで、だ。どうなんだ、俺はもうお前に言いたいことは言った。あとはお前が応じるかどうかだけだ。まずは望みを聞かせてくれるだけでもいい。できることならなんでもしよう」 (本気?) 「本気だ。……確かに、あやしの術を使うお前にしてみたら、我らができることなんてちっぽけだと思うだろう。だがそれでも、俺は一国の城主として、お前をなんとかしなけりゃならねえんだ」 狐は顔を政宗に向けた。それはにんまり笑っているようにも見えて、不気味であった。 (あの僧侶に、何か、吹き込まれたな。そうだろ?まあ、いいけどね。せいぜがんばんなよ?でないとあんたの大事な人たちがいなくなるんだもんね) 政宗は苛立ちを覚えた。がんばれも何も、全ての決定権はこの狐にあるのである。それが、今の調子で応じる気があるとも思えない。いっそ一思いに殺せば早いだろうか、と思う。政宗は柄に手をかけた。 (殺す?殺すか?そうだ、それが早いだろうね!はは、無理だよ、あんたには、無理だよ!) ゲラゲラ笑って、狐は姿を消した。舌打ちが空しく響く。しかし、自由自在に姿を現し消える狐を、どのような手を使っても、人間の手で殺せる気がしなかった。 翌朝政宗は愕然とした。二人食われた、という報告を受けたのである。その苦渋に満ちた顔は、挨拶に来た幸村から見ても、痛々しくて仕方がなかった。小十郎も心中を察して、何も言えないでいる。 「そうか。昨日は、また来たら食わぬという約束をしなかった…。だからか…」 最早政宗は毎日あの場へ行って、なんとかその日だけでも食わぬと、狐に言わせなければならなくなっている。一度は成功したことであるので、尚更だった。 政宗は幸村に暫く留まってもらいたいと言った。そして、なにか手立てを思いつけば教えてもらいたい、と。幸村はそう言う政宗の心が、民を殺された怒りと同時に、国を守らなければならないという城主の意地で燃えているのだと手に取るようにわかった。断ることができるはずもない。 「名を聞いてみてはいかがか」 幸村がぽつりと零した言葉に、政宗は怪訝な顔で聞き返した。 「あれ程の力を持つあやかしには、大抵名があるもの。人の付けたものではない、そのあやかしが神から授かった名が。あやかしにとって名は自分を支配しているもの。……それを知ってどうなるというのではありませぬが、なにもしないよりはましでありましょう」 政宗は頷いて、また山へ向かった。通いなれた切り立った道からは、町の様子がよく見える。遠くから見る分には、雪で落ち着いた町は平和そのものだ。 自分でも言ったように、人食いを獣のすることと割り切ってしまうこともできるのだが、それにしては人間臭すぎる狐の言い回しに、憎しみを覚えずにはいられなかった。最初は和解することを考えていたが、今では殺す手段を講じていることのほうが多くなっている。今朝の絶望感がそれに拍車をかけていた。 狐、といつものように呼べば、今日は木陰からそろそろ顔を出す。相変わらずの美しい毛並みであった。その毛皮を剥いでやりたい気持ちで一杯になるのを、苦笑して誤魔化した。 「よう、狐」 (疲れてるみたいだね。二人食べられたのが、よっぽど堪えた?) 「そうだな。俺としたことが、うっかりしていた…。本当に、悪いことをした。悪いがこの通り疲れているんでな、今日は座らせてもらう」 と言って政宗は鐙に引っ掛けていたゴザを取り出して、雪の上に敷いた。あぐらをかいて座ると、狐は興味を示したのか、不思議な足取りでこちらにやってきた。 「狐、お前も座るか?……お前、名前くらいあるんだろう。いい加減狐と呼ぶのも飽きた」 狐は不思議そうな面持ちで政宗を見上げている。小首を傾げるあたりは、まだ若いだけに獣独特の愛らしさがある。その尻尾が一本ゴザをさらさら掠めている。 (知りたいの?俺の名を、知りたいっていうのか、あんた?変わってるね) 「ああ、そうだ。俺の名は知っているんだろう。伊達、政宗だ。どこで知ったのか知らねえが…」 (この国の城主を知らないあやかしなんかいないよ。あんたは甘い匂いがする。だから、みんな目をつけてる。けれど怖くて手出しできないのさ) 「なんだと?」 狐の言葉を不可解に思った政宗が近くをふらふらしていた尻尾に触れようとすると、それはスルリと逃げて、狐も身軽に飛び上がって一回転した。 (佐助。俺の名は、佐助だよ、政宗さん) 「さすけ」 政宗が呟くと佐助はまた身を翻して消えてしまった。いつも通り後には何も残らない。佐助、今日は食わずにいてくれるか、と唱えてみた。こん、とどこか甘い響きが返ってきた。 小十郎が、政宗は狐に化かされているのではないか、と口にしたのは、その日の夜であった。幸村は昨日に引き続き相伴にあずかっている。その場に政宗はいない。小十郎は幸村と二人っきりで客間にいた。 「と、言いますと?」 幸村はむしゃむしゃ魚を齧っている。小十郎は気にするでもなく続けた。 「今日のご様子を見ると、狐の名を知ってどこか嬉しそうですらあった。……よもや、民を殺された憎しみを忘れているというわけではあるまいが、何か心配でならぬ。……幸村殿は、何か思うところがないか」 「ふむ。狐を嫁に取って、そのまま子を成した…という話もないではない。ですが政宗殿は常人よりも強い精神をお持ちのようだし、そのような心配、杞憂に過ぎぬと思うが」 まだ不安は拭いきれないようだが、小十郎は一応、そうか、と頷いた。 「ところでお尋ねするが、政宗殿の右目は、一体どうなされたのか」 「……ああ、あれは、幼い頃の…ご病気だ。触れない方がいい」 「左様か。……ご病気、で。……ふむ?」 幸村は暫く首を傾げていたが、小十郎がそれ以上何も言わなかったので、そのまま黙って魚の骨までばりばり食べた。 その後政宗に呼ばれた幸村が書院に行くと、なにやら政宗は調べごとをしていたようで、あたりに本が散らばっている。尋ねれば案の定、狐についての資料を探していた、という。 「どれも御伽噺のような伝説ばかりで、詳しい事はなにもないな」 幸村は微笑して、そうでありましょうな、と言った。続けて言うのは、名を知ったら、次は触れてみるとよろしい、ということだった。聞いた政宗は暫く黙っていたが、やがて幸村をじろりと見た。 「事も無げに言うじゃねえか。よもやあんたがあやかしってこたァねえかい?何を企んでいやがるんだ、幸村」 幸村は目を細めた。そうして政宗を眺めていたかと思うと、近寄ってどっかと座った。その顔には笑みを浮かべている。幼子の面影が残る笑みであった。政宗は自分であやかしではないかと言ってみたものの、この純粋な顔の裏に邪気があるとは、どうしても思えなかった。 幸村は政宗の首元に手を伸ばした。伸ばしたかと思うと、耳の後ろに触れた。こそばゆくて政宗が退かすと、それを遮ってまた触れる。真っ直ぐ見つめられて、逸らす事ができなかった。 「狐は、ここをこうしてやると善がる」 幸村の指が耳の裏を撫ぜるようにゆっくり上下に動いた。愛撫のような動きに思わず頭の後ろが痺れて、やめろ、と声をあげていた。幸村はすぐに手を引いた。 「確かにこの幸村、企みがないと言えば嘘になる。某はその昔、名は明かせぬが、一尾の妖狐を飼っておりました。武士の子が狐に化かされるとはあるまじきこと…として、追い出されたのがもう三年前でござる。それからこれまで僧侶として各地を旅して参った」 「その狐はどうした」 「ここに」 そう言って幸村が指すのは、己が胸であった。 翌日、小十郎から何も報告を受けなかった政宗は、ほっと息を吐いた。頻度が落ちるだけでも町の賑わい方に天と地程の差があるのを、毎日山へ通う政宗はよく知っていたのである。死人が出たあくる日は野良犬ばかりが闊歩している。 「今日も、参りますか」 「ああ。多少言う事を聞いてくれるみたいだからな。……先に、仕事を片付ける」 午後、政宗は屋敷を出た。見送りに出てきた幸村に、軽く頷いて見せた。 昨晩幸村が語った話は、驚くべきものであった。幸村は、その飼っていたという一尾の狐と、身体を共有しているというのである。だからやたらと狐に詳しい。幸村がその狐とした約束というのは、互いに一生離れずにいる、というものだった。まるで心中だな、と政宗が言うと、幸村ははにかんだように笑った。 「それを、佐助は見破れなかったのか?」 「今は中で眠っているし、普段はただの人間と変わりませぬ。気付いていたとしても、これが老狐ゆえ、格の違いに恐れをなしたのやもしれませぬ」 そう言った幸村の瞳が何か恍惚として、目には見えぬ何かを見ているようで、ぞっとしたのを政宗はまざまざと思いだせる。とは言え幸村が正直な人間だと確信した政宗は、その後の言葉も信じてみることにした。 名を知ったら、今度は触れてみる。うまくいけば、そのまま懐く可能性もないではない。そうすれば政宗次第で、人を食わぬと約束させることもできるかもしれない。 触れる段階が、一番重要なのだそうだ。狐がなかなか人に懐かないことは、政宗も知っていた。幸村はどうしたのかと聞けば、首を傾げて、某の場合、幼き頃の話で、殆ど意識しておりませなんだ、と言う。全く参考にならなかった。 幸村は、狐が関わっているだけに人事とも思えず、できるならば自分の事は隠して手助けしてやりたかったのだが、案外あっけなく見抜かれてしまった。申し訳ありませぬ、と謝る幸村に、政宗はむしろ感謝した。 僅かに見えてきた希望のせいか、政宗は普段よりも緊張した面持ちで、佐助、と新たに知った名を呼んだ。出てこないのでもう一度呼ぶ。だが佐助が姿を見せる気配はなかった。 「……佐助?」 諦めかけて小さく呟くと、静寂を打ち破るけたたましい笑い声がその場にこだました。いつもの木を見ると、以前にも座っていた場所に、今日は全身深緑の衣を纏った青年が引っかかって、笑っていた。 「……お前、佐助か?」 こちらに向けた顔には、あの狐と同じように筆で書き殴ったような模様が入っていて、やはり怪しい彩光を放っている。佐助は枝から飛び降りると木に凭れかかって、先日から敷きっぱなしになっているゴザを指して、座りなよ、と言った。その声は狐の時のような頭に響くようなものではなく、しっかりとした肉声であった。そうやって聞く佐助の声は、どこか悪戯っぽくて、柔らかい。 政宗は言われた通りゴザに座った。少し凍っている。 「何、笑っていやがった」 「うん?だってさあ、あんた、俺がちょっと出てこないと不安げな顔しちゃって、もうちょっと隠れてようかと思ったんだけど、無理だった。あんたが俺の名を呼ぶと、なんだか小気味よくて楽しい」 「そうか。……それはそうと、昨晩は食わなかったんだな。礼を言うよ」 言いながら政宗は、佐助が人の姿をしているだけに、改めて憎しみが湧き出てきて仕方がないのを感じていた。大罪人を目の前にしながらお縄にできないというのはこうももどかしいものかと、政宗が佐助を眺めながら笑った。苦笑いであった。 それにしたって、この佐助に対して礼をいう滑稽さはどうであろう? 佐助もそれを思ったのか、にんまり笑った。 「心にもない事を言うじゃあないの?本当は俺が憎くて憎くて、割り切れてなんかいやしないんだろ?正直になりなよ、政宗さん。ねえ、俺が、あんたを食わせてくれたら、もう民を食わないと言ったらどうする?あんた、食わせてくれる?」 政宗は血の気が引いた。自分の命を引き合いに出す事を考えたことがないわけではない。 「そう、約束してくれるんならな」 「ふうん。そう?あんた、子供いないでしょ?お家はどうすんのさ?俺に食われて、民は救って、お家は潰れて、それであんたは満足?ねえ、あんたさ、やっぱりあの僧侶に何か吹き込まれてるんでしょ。俺と契約、したいんでしょ?」 佐助は歌うように喋る。その背後には、半透明な尻尾が現れては消え、消えては現れていた。 「ああ、そうだ。狐ってのは、人との約束を違えることができねえらしいからな。……それにしたって、お前こそ心にも無いことをべらべらと言ってくれるじゃねえか」 「ねえ、政宗さん、懇願してよ。俺に、どうかどうか、って縋ってよ。俺はね、あんたが生まれる前よりずっと昔からこの山に住んで、あんたが生まれてから、たまにあんたを見てたよ。けど怖くて近寄れなかった」 「……前もそんなようなことを言ってたな。一体なんの話だ?」 政宗は立ち上がって、佐助に近づいた。これまでのことから考えると、あるいはここで佐助は消えるかもしれないと思ったが、手を伸ばせば触れる距離にまで来ても、佐助はそこにいて、尻尾が興味有りげに政宗の周りをふわふわ浮んでいた。 昨夜のことが思い出される。幸村が触れたのは耳の裏だったが、それは狐の姿である時の話だったのだろう。今この状態で触れろ、と言われても、どうしたらいいのか戸惑った。 すると意外にも、先に触れてきたのは佐助の方だった。しかも、政宗の眼帯に、である。 政宗は幼い頃、原因はわからぬが、ある日突然右目がなくなっていた。それをあやかしのせいだと不気味がられて、一時期はお家騒動にまで発展した。そんな因縁のある右目は今黒の眼帯で隠されていた。 正直、右目を触れられるのは抵抗がある。しかしこの機会を逃してはならぬと思って、黙ってされるがままになっていた。眼帯を撫ぜて、佐助は猫のように目を細めて言った。 「ここから、匂いが漏れるんだよ。甘くてトロリとした匂いがね。人間にはわからないだろ?でもね、ここに住みたがるやつが、たくさんいるんだよ。だけどね」 佐助は顔を近づけて、息が触れる程までくると口を耳元に寄せた。 「下手をすると、こっちが食われるから、怖くて触れない。あんた、知ってた?俺は、あんたの右目を食ったやつを知ってるよ。そいつは子供のあんたに近づいて、右目をごっそり奪っていった。でもその右目を食べて、あんまりにも力が溢れるもんだから、狂って自分を傷つけて死んだ。だから俺は、あんたを食べない」 政宗は突然のことに、目を見開いて、暫く口を聞くことができなかった。佐助がさっと政宗から離れると、踊るように翻って狐の姿になった。 (明日もまた来る?また来るかい、あんた?そうしたら、今日も食べないよ!約束した!ねえ、明日こそやって来て、俺にすがりなよ…) |