佐助の幼馴染は英語が出来ない。
 中学一年生の初めての英語の授業で、現代においてはほとんど天然記念物なのではないかと思ったのだが、その幼馴染はどうやら生まれて初めてアルファベットなるものを書いたらしい。
 そもそもスタートラインが普通の生徒よりも百メートル程後ろだったそんな男だから、授業についていくには相当の苦労を買って出なければならなかった。放課後の補習が当たり前。
 幸い普通のお子様並に横文字に慣れ親しんでいた佐助はそのような苦労とは無縁だったのだが、如何せんこの男が幼馴染で、しかも家がお向かいさんというのがまずかった。この男が佐助に泣きついてきたのは極自然な流れであった。
 いらぬ苦労を買ったおかげで、佐助の英語の成績はぐんぐん伸びた。おもしろいくらいに伸びた。幼馴染の、幸村の成績は、どうにか平均よりやや下といった程度に収まっていた。
 どうやらスペルは気合で覚える事ができるらしいのだが、文法が理解しかねるらしい。SとVまでが限界なのだそうだ。五文型って何?だそうだ。
 高校二年に上がってもまだそんなことを言う幸村に、さすがの佐助も鉛筆を三本折った。なぜこのご時世に鉛筆なのかというと、それだけ真田家が古風な家柄だからだった。幸村がこれまで横文字と無縁の生活を送ってきたのも、言うなればこの古風さが原因であった。自宅にテレビが無いというのだから徹底している。
 そんなわけでまだ幸村の補習生活は続いていた。幸村は根が真面目なだけに、英語教師も哀れに思って懇々と教え続けている。
 この教師というのがまた問題だった。伊達政宗という立派な日本男児らしい名前がありながら、長年海外に住んだおかげで会話の途中途中に英語が混じる。いや、それは大した問題ではない。
 政宗が私立武田高等学校に赴任してきたのは佐助も幸村も高校一年生の頃だ。新学期の新任挨拶でこの政宗は初っ端から完全に英語で話して生徒の八割を唖然とさせた。しかもスーツに眼帯という異様な格好だったので、こいつ何人?とヒソヒソ声が飛び交ったのを佐助はよく覚えている。
 同じクラスで出席番号も並んでいる幸村も、佐助にこの時の衝撃を述べている。なんと格好良い御仁か!なあ、佐助!と。あっそう、あんたにはあれがかっこよく映るわけね、と佐助が幸村に言わなかったのは、幸村の目があまりにも輝いていたからだった。幸村があんな目をするのは、校長兼柔道部顧問の武田信玄と暑苦しい殴り合いをする時以外見たことがない。
 Hello everyone, I'm your new English teacher, Date Masamune.
 佐助が覚えているのはこのくだりだけである。というか後は聞き取れなかった。しかし随所にふぁっきんやらいでぃおっととかしりーとか聞こえてきたので、英語教師らしからぬ発言をしていたのだけは間違いないだろう。名前の順番が日本語の通りだったのは、それが今の流行だとかいう話である。
 このとんでもない教師が佐助のクラスの担任だとこの挨拶の後知らされた。あの時の異様などよめきは一体どんな種類のものだったろうかと、今でもうまく説明できない。少なくとも佐助は面倒臭く思った。始終あの調子でクラスを仕切られたらたまったものではないと。政宗をかっこいいと称した幸村は素直に喜んでいた。
 しかしそれも大した問題ではない。政宗はいざ担任を務めると、並の教師より人気があって信頼も置けた。人気の半分は政宗の顔が多少整っていたこと、もう半分はどこかカリスマ染みた統率力を持っていたこと。政宗が並び立てる理屈の数々は生徒に多かれ少なかれ他の教師が言うのとは違う夢と希望と現実を抱かせたらしい。
 常に血を求めて危険な実験をさせる理科教師や、いつも戦国時代からなかなか進まない(特に織田信長の部分を長時間に渡って語り尽くす)目つきの恐ろしい日本史教師をはじめとした個性的な教師が多いこの高校でそれ程の地位を築けたのは、まず評価に値するだろう。
 佐助はと言えば、晴れて二年連続でお世話になり、既に学校内で一大勢力を築きだしたこの政宗をどうしても好きになれなかった。これを言うと幸村とクラスの小さいツインテールの学級委員長にものすごい勢いで文句を言われる。
 まず幸村の言い分はこうだ。
「政宗先生はすごいのだぞ、佐助!俺など英単語を見ただけで頭が痛くなるというのに、あれをああもうまく使いこなすには、相当の修練がいったはず!まずはこの努力からして佐助は先生を尊敬すべきだ!いや、無理に押し付けるわけではないが、しかし佐助!先生のおかげで一致団結したこのクラスは体育大会でも優勝をもぎ取ったではないか!どうだ!」
 どうだと言われても困る。優勝したのは本当だが、短距離走で一位になってクラスに貢献したのは佐助だし、綱引きで勝てたのも幸村の馬鹿力が大きい。政宗はせいぜい職員席で応援していたくらいだ。しかしこれ以上言い返すと今度は合唱会のことまで引き合いに出されるので黙っておく。
 学級委員長のいつきはこう言う。
「さるとびは何にもわかってねえだ!おら、今まであんなに優しい先生は見たことねえだよ!政宗先生はおらがみんなを並ばせられずに困ってるとき、いつき、お前ならきっとできる。お前の声は、みんなに届くさ、って励ましてくれただ!その言葉に勇気付けられて、おらは今まで学級委員をやってこられただよ!」
 だよ!と言われても困る。佐助自身フェミニストなので政宗の言動自体に疑問は抱かないが、これはそもそもいつきが政宗を贔屓目で見ているので、佐助に共感を求めるのは土台無理な話だ。政宗でなくてもこれくらいは言うだろう。しかしこれも言い返すと今度はホームルームでみんながうるさかった時の話を引き合いに出されるので何も言わない。
 彼らは言うだけ言って勝手にすっきりして、結局「政宗先生はすごいな!」という結論に至って頷き合うのだから、最早佐助が政宗をどう思っていようがどうでもよくなっている。
 これも別に問題ではない。佐助が疎外感にちょっぴり寂しい気分になるだけだった。
 先に述べた通り幸村はこの政宗に補習を受けている。とは言っても部活動もあるので、部活休みと土曜日の、月にせいぜい五、六回の話だ。テスト期間になるとほぼ毎日になるが。それも別にいい。幸村の成績が上がってくれれば佐助も素直に嬉しい。だが問題なのはこの前幸村が放った一言だった。
「佐助、俺はどこかおかしくなったのかもしれぬ。政宗先生が気になるのだ」
 佐助は七回程聞き返して、逆に幸村に怒られた。気になるってどういう意味?なに、旦那ってホモだったの?と。ホモではない!と幸村は言うが、真面目な顔をしてそんなことを言われても、どう返せばいいのか。
 佐助は必死に考えた。思いつめると何をするかわからない幸村のことであるから、佐助にとってどんなにアホらしくても、きちんと対応してやらなければならない。それがこの幼馴染として育ってしまった佐助の義務だとすら思った。うーんと唸る佐助を幸村はじっと見守っている。
 佐助はこれ以上ないくらい考えた。一生懸命考えた。自分の将来についてだってこれ程真剣に考えたことはないという程考えた。そして一点にピーンと来た。気分は某姿は子供、頭脳は大人の名探偵だった。
 今はテスト期間中で、幸村は毎日政宗と一対一で補習を受けていた。それだ!と思ったのである。
「旦那はつり橋で恋に落ちるのと同じことになってるんだよ!」
「つり橋を!?佐助、それは一体なんだ!?」
 食いつきがよかったので佐助は少し得意気に説明した。
 どこかで行われた実験だという。何組かの男女に、違ったシチュエーションで告白させる。すると不思議なことに、今にも千切れそうな古いつり橋の真ん中で告白された女性は、相手が何とも思っていない男性であったにもかかわらず、とってもドキドキして、この人のことが好きだ!と思ったのだそうだ。別の場所ではこれ程の結果は現れなかった。つまり。
「どういうことだ、佐助?」
「つまり、いつ切れるかわかんないつり橋の真ん中で、女の人は異常な緊張状態に置かれていた。その時告白されて、緊張からくるドキドキを、恋からくるドキドキだと勘違いしたってわけ」
「ふむ、そのようなことがあるものなのか…」
「だからね、今テスト期間中でしょ?旦那は英語が大の苦手、赤点を取っちゃうかもしれないってすごーくナーバスになってるってことでしょ?あ、ナーバスは緊張って意味ね。そんな状態で毎日英語教師の先生と顔合わせて勉強して、旦那はドキドキしちゃった。けどそのドキドキは、別に先生を好きになっちゃったとかじゃなくて、緊張してドキドキしてるだけであって、旦那はそれを勘違いしてんの。そういうわけ」
 元々先生に好意は抱いてたわけだから、余計勘違いしちゃったんだね。旦那ならありそうな話だよ。佐助がそう締めくくると幸村は微妙な顔をしつつも、ふむ、そうか、と何度か頷いた。これで佐助の心労も一件落着、この日もさっさと帰って家でテスト勉強に励めるはずであった。再び幸村が一言言わなかったのなら。
「しかし、どうして見分けたものか」
 なるほど、幸村からしてみればどんなドキドキであれ政宗が気になる事実に変わりはない。この若い衝動を結局どうしてくれようというのである。何か見分ける術でもあるのなら、多少ドキドキしても平気なのだと。
 また佐助は困った。いっそ自分でなんとかしろ!と叫びたいくらいであったが、もし幸村が政宗に対して強引な手段を取ったとしたら、それは投げ出した佐助の責任かもしれない。そう考えると、苦い顔をしつつもまた何か策を考えてやらなければならなかった。
 佐助が講じた手はまさに苦肉の策であり、幼馴染としての慈悲に溢れていた。佐助は幸村と一緒に補習を受けてやることにしたのである。
 見分ける術は最早幸村自身が自分で気付く他無い。だから佐助ができることと言えばこれくらいであった。だがこれなら一応佐助も自分の勉強ができるし、幸村を監視することもできる。よもや思い余った幸村が政宗に手を出すということもあるまい。これを聞いた幸村は、恩に着るぞ、佐助!と笑顔であった。
 この事情をまさかありのままに話すわけにもいかないので、政宗には、現在佐助の親が旅行中で、幸村の家に泊まらせてもらっている、だから幸村と一緒に帰る必要があるので、一緒に居残って補習を受けさせて欲しい、と捏造した理由を述べた。特に政宗が反対する理由もなく、晴れて佐助は補習組みの仲間入りを果たしたのであった。
 テスト当日まであと一週間ある。佐助にとっては補習一日目、一体どんな様子で受けているのだろうかと好奇心と若干の恐怖が入り混じった気持ちで幸村と共に補習場所である図書館に向かった。
 暫くしてやってきた政宗は長方形の机のいわゆる王様席に座り、右に幸村、左に佐助といったポジションに構えると、さっそく幸村に、課題、と一言言った。幸村が取り出したのは一冊のノートで、見慣れた下手くそな字で「英単語帳面」と書いてある。ノートと書かないあたりが幸村らしい。政宗はパラパラそれを捲り、OK、次は五十六から六十までの単語、同じように十回ずつな、と言いながら幸村のノートに花丸をつけていた。どうやら単語練習の宿題を毎日出されているらしい。
「じゃあ今回の分の確かめな。まずconstruction。ついでだ、猿飛もやれ」
 佐助が完全にオマケ扱いなのは、政宗も佐助の英語の成績をよく知っているからだろう。佐助はノートを取り出して、構造、と書いた。幸村を見れば頭を抱えつつも、何とか思い出して書けたようである。こんな調子で今回分の単語が終わると、政宗はまた赤ペンを取り出して丸付けをした。佐助は全問正解、幸村は一問思い出せなかったようである。
「も、申し訳ござらぬ…」
「まあいいだろ。今回は大目に見てやる。で、今からは真田に文法説明してやるんだが、お前はどうすんだ?完全に自主勉でいいのか?」
「あー、それでいいよ。物理がちょっとヤバイから、そっちやります」
 それから政宗は懇切丁寧に分詞構文を説明していた。幸村がちょっとでもわからない顔をすれば表現を変えて同じ場所を何度も説明するのだから、並大抵の根気でできることではない。しかしSとVしかわからない幸村にはそれでも難解らしく、やはり首を捻っていた。政宗は言う。
「お前に一番足りねえのは、英語に触れる時間だ。どんな馬鹿でも日本にいりゃあ日本語が話せるだろ?言語ってのはこうして文法を理解すんのも大事だが、感覚的に唱えられるようにすんのが一番手っ取り早いんだ。だから何度も言ってんだろ、吹き替えじゃねえ洋画を見てみるだけでも違うってな」
 確かに、だから留学が流行るのである。佐助は至極普通に納得したのだが、幸村を見ると、今の話を聞いていたのかいないのか、ただ政宗の顔を見て曖昧に頷くだけであった。幸村の家には肝心のテレビがないのだから仕方がない。佐助は幸村の名誉を思って黙っていた。
 二日目。昨日と同じ調子で始まり、佐助も一人黙々と物理をやっつけていった。どうやら自分がしていた下世話な想像ほど事体は深刻でもなさそうなので、佐助はつい夢中になって教科書とノートと睨めっこしていた。二人が交わす堂々巡りの文法説明、質問、単語の由来、質問の応酬も、BGM代わりだった。
 帰り道、佐助はふと気になって聞いた。
「旦那さ、英語の補習はいいけど、他の教科は大丈夫なの?」
「うん、暗記ものはなんとかなる。国語と数学が少し心配だが、それは家でやっているからな」
 確かに夜中思い出して向かいの家を窓から見てみれば、幸村の部屋の明かりは深夜を過ぎてもまだ消えていなかった。これ程真面目な男なのだから、この努力が英語の成績に反映されてもいいのに、と呟かずにはいられなかった。頭が悪いわけではない。英語が絶望的にできないだけなのだった。
 三日目。例によって単語から始まり、佐助は今度は数学に手を付け始めたのだが、今回は文法説明はなく、幸村は政宗が用意した訳の問題を解いていた。その合間に何か書類を読んでいた政宗は、ふと佐助に話しかけた。
「お前の親、いつまで旅行に行ってんだ?」
 佐助は少しぎくりとした。真っ赤な嘘なのだから仕方がない。幸村もちらりと佐助を見ている。
「テスト期間中は、ずっと。ほら、あの…海外だから」
「へーえ。この時期に一週間近くもか。どこに?」
「なんか色々まわるって言ってたよ?ヨーロッパの方をさ。ヨーロッパ巡りってやつだよ。今頃はフランスにでもいるんじゃないかなあ。道楽好きな親でね、どーも」
 この口からでまかせを政宗は特に疑う様子もなく、ふーんと呟いたきりまた書類に目を落としていた。これを幸村は後から複雑な思いで褒めた。嘘を吐くのは関心できぬが、佐助、よくやった、と。
 そういえば、二年も担任をしてもらっているというのに、佐助が政宗とまともな会話をしたのはこれが初めてだったと、家で昨日と同じように幸村の部屋の明かりを眺めている時に気が付いた。
 四日目。この日になって、佐助は気が付いたことがある。幸村がどうやら時折政宗に見惚れているらしいということだった。政宗がいつものように丁寧な説明を言う間、幸村は教科書ではなく政宗を盗み見ている時がある。本人は無意識らしいが、その瞬間を佐助は数学が一区切りついて背中を伸ばした時に丁度目撃した。その目が、例の信玄との殴り合いの時とはまた違った熱を帯びていたので、そう大したことではないとは思いながらも、頭の片隅でつり橋以外の可能性を考えずにはいられなかった。
 もし幸村が本気でこの教師を好きなのだったらどうしよう。そう一瞬考えたが、すぐに思いなおした。政宗が受け入れるはずがないと思ったのである。
 五日目。単語で始まり、幸村は今回は全問正解だった。素直に喜ぶ幸村の横で、政宗も笑顔を見せている。
「よくやったじゃねーか。この調子でどんどん覚えていけば、そのうちお前も英語を使いこなせるようになるさ」
 と言うその様子が本当に嬉しそうなので、佐助はちょっと意外に思った。どちらかと言えば、政宗は感情の動きが少ないのだと思っていたからである。少なくとも普段クラスで喋る時はそう見えるし、そのような発言をしている。
 相手にする人数が少ないと、そうでもないってことなのかな?と考えた。まさか、相手が幸村だからだとは思いたくなかったのである。
 佐助がそんな心配をしているとは露とも知らず、この日政宗は佐助にも課題を与えた。長文で、私立難関校の過去問だという。暇ができたら息抜きにでも訳してこい、と言われ、素直に受け取った。
「先生ってさ、こういう仕事してると、生徒にムラムラっと来ることあんじゃない?」
 出し抜けな質問に、政宗は苦笑した。幸村はびっくりして佐助を見ている。破廉恥な!という声が聞こえてきそうであった。
「そりゃ、立場上んなこたねえって言わねえとな。けど俺も人間で男だからな、結局お前らよりちょっと長く生きてるだけで、そうそう完璧でいられるわけじゃねえさ」
「先生ってモテるでしょ?」
「……何を聞き出してえんだ?中学生みてーな質問しやがって」
「俺、先生を好きって言ってるやつ、知ってるよ」
 幸村は顔から火が出そうなほど真っ赤だ。幸い政宗が気付く様子もないし、気付いたとしても単にこのテの話題に免疫が無いだけだと思っただろう。むしろそう思ってもらわなければ、困る。
 政宗は一言、へえ、と言ったきり何も言わない。佐助は続けた。
「けど、あんたに対しての好きが単なる尊敬と憧れなのか、恋なのか、わかんないんだってさ。俺は勘違いだって言ってやった。だからさ、もしそいつがあんたに告白したとしても、キッパリ振ってやんなよ。勘違いすんなって。先生と生徒だから、なんて理屈は簡単に超えるやつだからさ。OK?」
 この後、帰り道で佐助はさんざ幸村から責められた。なぜあんなことを先生に言うのか、と。佐助にしてみたら、いざという時のために先手を打っておいたのにすぎない。
「別に旦那のことだって言ったわけでもないし、バレてもいないんだからいいだろ。……つーかなんなの、あんた、そんなに怒るっていうのは、本気なの?本気で先生が好きだっていうの?」
 それは、と幸村は言葉を詰まらせる。幸村本人にもよくわからないというのが本音だろう。
「確かにさ、先生は俺が思ってたより全然いい人だよ。旦那にあんだけ丁寧に英語教えてくれるし、言う事はいちいち理に敵ってるし、尊敬だってできるかもしんないよ。けどそんだけだ。何度も言うけど、勘違い。恋と尊敬を、混合してんだよ。わかった?」
 幸村はどこか不満気である。佐助がそこまで突っ込んでくるとも、真剣になるとも、思っていなかったのであろう。その顔に、佐助は思わず自制がきかなくなった。馬鹿らしいと思う気持ちが勝ってしまったのである。
「大体、男相手に気になるだのなんだのって、あんた先生をどうしたいんだよ?カマ掘って傷つけたいの?俺はあんたにそういう可能性があるってんだったら、それを止めてやろうって言ってんだろ。そんな顔される覚えはないね!」
 幸村ははっきり傷ついた顔をした。佐助にもそれがわかったが、何も言わずにさっさと帰ってしまった。
 なんという事はない。幸村はただ単に政宗を慕って、その延長線上で時折顔を眺めていただけである。あるいは一年生の時に「格好良い御仁だ!」と言った時から、なんら感情自体は変わっていなかったのかもしれない。だから実際政宗をどうこうなどと考え付いたこともなかった。
(あれ!?変に事を飛躍させたのってもしかして俺!?)
 と、佐助がベッドの中で猛省するまで、さほど時間はかからなかった。勉強に手が付くはずもない。
 六日目の朝。家を出て早々に顔を合わせた幼馴染に、佐助は開口一番、ごめん!と言った。幸村も同時に何か言ったと思ったら、佐助と同じように頭を下げて、すまぬ!と叫んでいたのだった。
「佐助に頼りきりで、佐助にそこまで思いつめさせるとは、思わなかった。すまぬ」
「いや、俺のほうこそさ、あんなこと突然言ってごめん。先走りすぎたよね」
「俺は、昨日いろいろ考えた。考えすぎて今日は頭痛がするのだが」
 俺が思うに、と幸村は言う。先生のことは確かに好きだが、昨日佐助が言ったように、だからと言ってどうこうしたいわけではない。今までどおり先生と生徒として仲良くできればそれで満足なのだ。それより、こんなことで佐助の信頼を失うほうが怖い、と。
 さすがにこれを聞いた佐助は顔が熱くなった。こんなことを臆面もなく言うあたり、幸村らしいと言えばらしい。と同時に、ようやくほっとしたのも本当だった。要するに幸村は、佐助の言葉によってようやく自分で「見分け」を付けることができたのである。
 補習にはきちんと二人とも出た。佐助の中で最早問題は解決していたし、幸村もわだかまりが取れて心なしか気持ちが上向いているのか、普段よりもお喋りが多かった。
 ところが、幸村に訳をやらせている間、政宗はちょっと来いと言って、佐助だけを廊下に連れ出した。なにやら深刻な様子なので、一体なんだろうかと佐助は不安に思った。壁に凭れながら政宗が言ったのは、全く予想外の言葉だった。
「昨日告白された」
 途端に佐助は地面がふわふわするのを感じて、まるで立っている感覚をなくしてしまった。政宗は続ける。
「……ま、薄々そうだろうとは思ってたんだがな。まさか帰り道に待ち伏せされるとは思わなかった。しかもお前が言ってた台詞まんまを言うんだからまいった。『先生と生徒だからなんて、関係無い』ってな」
 そんな馬鹿な。待ち伏せ?昨日?幸村の家の明かりは付いていただろうか?考えてみても思い出せない。というか、幸村は今朝佐助に「今までどおりがいい」と言ったばかりではないか。その幸村が告白などするはずがない。するはずがないのだ。そう思いながらも、佐助は幸村に裏切られた気持ちで一杯になっていた。
「……そんで、先生は?」
「猿飛」
 佐助は心臓が跳ね上がってそのまま飛び出るのではないかと思った。さるとび、と自分を呼んだ政宗の顔は、今まで見たこともないような悲しげなものだったからである。それにはっきりとした嘲笑を浮かべている。
「ほんとは、生徒にこんな話しすべきじゃねえのは、わかるな?情けねえな。あいつに好きだと言われたとき、お前の言葉を思い出した。確かに、勘違いだと言うべきだったんだろう。……けど、あいつのいつもの真剣な目を見たら、とてもじゃないが言えなかった。勘違いだ、の一言で無下にしてやるのは簡単だ。けど、あいつは俺の生徒だ。俺の一言が、一生あいつを傷つけると思うと、言えなかった」
「……だ、だからって!だからって、受け入れたりできねえだろ、あんたは。……まさか」
 心臓が早鐘のように打って、そのまま政宗に聞こえるのではないかと思ったほどだった。むしろ自分の身体がドンドンと傾いている気がする。違う、だめだ、あんたは旦那を振らなきゃいけないんだ、と、それだけが頭の内側を支配してぐるぐるまわっていた。
「……あいつのことは、俺も気になってた。元気で明るくてやかましくて、どっか不器用だ。それでもいつも必死に頑張ってる姿を、二年間見てきた」
 気が付くと佐助は政宗の袖を掴んで揺さぶっていた。
「なんでだよ!約束しただろ、きちんと振るって。だって、そうでないと、俺」
 俺。佐助は言葉を繋ぐ事ができなかった。俺、何が困るんだろう。互いに真剣な気持ちであるのなら、佐助にそれを止める術はない。男同士という非常識さも、幸村なら恐らく簡単に乗り越えるのだろう。だからその幸村の言葉を、政宗も無下にはしなかったのだ。
「あんた、馬鹿だ。俺、あんたはそんなやつじゃないって思ってたのに。……先生なんか、俺らの前に現れなきゃよかったんだ。先生が全部掻き乱して、全部壊したんだ」
 本当は勘違いだったのに。佐助が最後にこうぽつりと呟くと、政宗は佐助の頭を撫ぜた。泣きそうになっているのを悟られたのだろう。情けなくなって、振りほどく気力も湧かずに、ただされるがままにしていた。無骨な手の平はしかし暖かい。暖かくて、寂しかった。
「……お前、あいつのこと好きだったんだろう」
「……好きだよ。世話がかかって、どうしようもないけど、どうしても放っておけないし、一番の親友だ。……けど今日、旦那はきちんと俺に言ったんだよ?先生とはこのままでいいって。それより、俺の信頼失いたくないって。……なのに、なんで」
 政宗の佐助を撫ぜる手が止まった。佐助が顔をあげると、何とも微妙な顔をしている。口に突然虫が入ったような、そんな顔だ。そんな顔のまま、政宗は首を傾げた。
「なんでそこで真田が出てくるんだ」
「は?いや…………だって、先生、旦那に……え?あれ?」
 政宗はまだ訳に手こずっているらしい幸村を扉越しに見た。見て、今度は虫を飲み込んでしまったような青い顔をしている。佐助も一気に青ざめた。
「先生、一体、誰の話してんの?」
「お前こそ誰の話してんだ。………いいか、昨日俺に告白してきたのは、」

 いつきだ。

 その後幸村が呼びにくるまで、二人は微動だにせず、ただただその場で固まっていた。

 七日目。いよいよ明日がテスト本番なので、最終確認の復習をして、テスト前最後の補習は無事終わった。帰り道でも幸村は恐ろしい形相で文法書と睨めっこしている。
 これで佐助の任務も一応終了したことになる。
 現在家でのんびりみかんでも食べているであろう母と、工場でラインを務める父も、無事ヨーロッパ巡りから帰国、晴れて佐助は幸村のお守から解放されるというわけだ。
「どう、旦那。うまくやれそう?」
「政宗先生に、あれだけ協力してもらったのだ。せめて平均点は…いや、赤点だけは取らぬようにせねば」
「……消極的だなあ。らしくないの」
 そうして二人は無事テストも乗り越えた。あとは結果を待つのみである。幸村はテスト当日、始終頭痛がすると呟いていたものの、なんとか答えを埋めることだけはできたようだ。他の教科もそこそこできたらしい。
 佐助はと言えば、どれもそつなくこなした自信はあるものの、英語の時間だけは余計な事を考えていた。
(主語と代名詞が省略不可って、素晴らしいなあ)
 ということである。文章を訳す時も、やたらとSheやHeが愛しく思えてならなかった。
 日本語の、あいつやそいつやこいつの、なんと曖昧なことか。一体それ誰のことだよ。男?女?と、一人不気味な笑みを浮かべていた。
 数日後に出た結果に一番驚いたのは幸村だった。なんと平均より十点も高い得点をとることができたのである。今まで英語の辛酸を舐め尽した幸村にしてみれば、奇跡にも近い快挙であった。佐助もこれを自分のことのように喜んだ。そして当然、放課後二人して政宗にお礼を言いに行った。
「俺がこのような点数を取れたのも、全て政宗先生のおかげ!いくら感謝し尽しても足りませぬ!この気持ちを、どのようにして伝えたらよいか…!政宗先生、本当に、感謝致しまする!」
「ああ、よくやったな真田。毎日あんだけ教えてやった甲斐があった。今日はそうやって浮かれてても構いやしねえが、気を抜くとすぐにまたついていけなくなるからな。明日からはまたしっかり予習復習しろよ。必要ならまたいつでも補習やってやるから」
 ははあ、教師の見本みたいな台詞だと思いながら、佐助は笑顔の政宗を眺めていた。
「なんと有難きお言葉…!先生、俺は先生を校長先生の次に尊敬致しておりまする!」
「あ…そう。武田のおっさんの次にね。まあいいだろ、さっさとそっちにも報告してこい」
 はい!と気持ちのいい返事をして幸村は信玄のいる校長室まで佐助を引っ張って行こうとした。
「や、俺はちょっと政宗先生に用事あるから、旦那だけで行ってきなよ。終わったら校門の前で待っててよ。俺も行くから」
 そうか、と言って幸村はあっさり校長室へ走って行ってしまった。その目はきらきらとまぶしいほどに輝いていたから、今日も校長室はすごいことになるのだろう。政宗に用事があったのは本当だが、あの二人の殴り合いに巻き込まれたくはない佐助であった。
 政宗は、結局いつきを振ったのだという。なんて言って?と聞けば、企業秘密なのだそうだ。今日のいつきの様子を見る限りでは、そう手酷くしたわけでもないらしいし、それは政宗も相当気を遣ったのだろう。
 そして佐助と政宗は、済し崩し的に秘密を共有する仲になってしまった。
「はいよ、これ、先生に出されてた課題」
 佐助が渡したのは、補習の五日目に政宗から出された難関私立の訳文の問題だった。テストが終わって勉強に追われる必要がなくなったので、ふと思い出してやってみたのだ。
 へえ、真面目だな、と言いながらもちょっと嬉しそうな顔をした政宗に気恥ずかしげに頬を綻ばせていると、職員室のすぐ隣にある校長室から、ものすごい音が聞こえてきた。幸村と校長が互いの名前を叫び合っているのと、何かが割れる音である。
 幸村が高校付属の中学に入学してすぐ見られるようになったこの光景には、最早誰も突っ込む者がいない。周りの教師達は黙々と事務をこなしている。さすがだ、と佐助は思った。
 政宗は聞こえてくる暑苦しい大声に、口元を引き攣らせた。
「真田の一番になると、あれを強いられるってわけか」
「……どうかな。まあ、もうその可能性はないんだからいいじゃない。素直に慕ってくれる分には、あんただって悪い気しないんでしょ?」
「そりゃな。……訳は、ぱっと見た限りじゃ綺麗にできてるな。ちょっと型にはまりすぎてる感じもするけど、お前センスあるよ。テストもほぼ満点だったしな。そんなに英語、好きか?」
「ううん、別に取り立てて好きってわけでもなかったんだけど、中学ん時から旦那に泣きつかれてね。人に教えるのって、テストで満点取る以上の理解力がいるでしょ。旦那に教えようと思って頑張ってたら、いつの間にか得意科目になってたんだよ」
「……好きこそものの上手なれ、ってか?」
「……言っとくけど、あれを変な意味に取らないでよね?旦那はもう家族みたいなもんなの。旦那が俺をそういう目で見るのもありえないし」
 ちなみに、佐助の両親が旅行に行っただのというのが嘘だと言う事も、あの事件の後さっさとバラした。手違いで政宗に知られることになった幸村の気持ちも、きちんと一から説明して、今は御覧の通り、政宗を敬愛しているだけなのだと話したし、政宗も若干戸惑いつつも納得して、幸村にはこのことは全部内緒、にした。しかしいつきが教師である政宗に告白したのは事実で、本当なら政宗の胸の奥にしまっておくべき出来事なので、これも、図らずも知ってしまった佐助と政宗の間の秘密となった。
 それにしても、あの日以来、佐助の政宗を見る目は百八十度変わったと言っていい。男として教師として、一人の女性を本気で気遣う、意外な側面を見てしまったせいだろう。
(あん時ドキドキしたのは)
 異常事態の緊張のせいだ。だから佐助は、センスがあると言って褒めてくれた政宗に対して今まで以上に喜びを感じたとしても、単にこれまで英語を褒められたことがなかったからだ、ということにしておいた。
「じゃあこいつは改めて添削しておく。…向こうもそろそろ納まる頃じゃねえか?」
「そーだね。んじゃ俺帰るわ。あ、そうだ、こんど補習してよ。旦那も引っ張ってくからさ」
「真田はともかく、お前はもう必要ないだろ?どっか不安なとこでもあんのか?」
 違うよ、と佐助は笑み浮かべながら言った。
「先生って、帰国子女でしょ?なんかの雑誌で見たことあんだよね。生きた英語を話せるようになるには、現地の人と喋るのが一番手っ取り早いって。俺、将来は英語喋れるようになって、海外まわりたいんだよね。だからさ、駅前留学ならぬ校内留学ってえの?お願いね」
 今は英語結構好きだし、と言って職員室を出て行く佐助を、政宗は呆気に取られて眺めていたが、すぐに苦笑を浮かべて、校内留学ね、と呟いていた。