佐助は居酒屋でアルバイトをしている。 この居酒屋というのは個人で経営されていて、佐助は高校一年にあがった時からここで小遣いを稼がせてもらっている。時給900円、酔っ払いの相手をするのは大変だが、佐助の年齢にしては割りのいい仕事だ。 居酒屋さんの名前は「幸」。ゆき、と読む。実は店長は真田信幸さん、つまり佐助の幼馴染幸村のお兄さんである。気心が知れた相手が店長であるだけに、非常に居心地のいいバイト先なのだ。温和な信幸さんは厳しいことは言わないし、佐助も器用になんでもこなすので重宝される。 もともと幸村の祖父幸隆さんが道楽ではじめたらしいこの居酒屋は、信幸さんが引き継いでから毎夜常連さんで賑わって、そこそこ繁盛している。定休日は毎週火曜日、佐助はそれ以外基本的に毎日五時から十時まで働いている。運動神経の良い佐助が部活動をしないわけはこれであった。 毎日アルバイト…などと話すと、大概、お前は苦学生か?なんて言われる。両親が健在で一応学費も両親の懐から出ているので苦学生ではないが、佐助は生まれてこのかたお小遣いというものをもらったことがない。だから自分で稼ぐのだった。それは一重に母親の方針だ。 ちなみに幸村はああいう古風な家庭環境に育っていながら、しっかり月一万円もらっているらしい。父さんは昔から小遣いをやりたがる性質なんだ、と言うのは信幸だ。 「まあいつも幸村の方がたくさんもらってたけどね」 にこにこしながらあからさまな弟贔屓の昌幸さんを恨む様子もない信幸になにかシンパシーを感じてしまった佐助はその日いつもより綺麗にキッチン掃除をしたものだった。 そんな信幸から突然店のビール・酒割引券をもらったのは数日前のことだ。曰く、 「店の十周年記念で作ったから、誰か知り合いの人にでも配っといてよ」 だそうだ。幸村と違ってITに通じた信幸が、最近パソコンでこれを作っていたのは知っている。数少ない従業員の佐助に渡すのもわかる。わかるが、飽くまで佐助は学生、そして店は居酒屋、となると、少なくとも友達には渡せない。店の常連さん以外で佐助の知るお酒を飲める大人といえば、 (先生くらい、かなあ…) である。信幸はその辺をわかっているのかいないのか、いつもののほほんとした笑みを浮かべて、お客さんたくさん入るといいねー、あ、でもそうすると仕込みが大変だなー。ま、いいか。佐助くんもいるしね、なんて言っている。どうも真田家の人の迷惑を介しないところは、昌幸さん以下息子二人にもしっかり受け継がれているようだった。 先生くらいかなあ、と、考えたまではいい。それで担任の政宗先生を思い出したのも別にいい。しかし割引券を渡すということは、暗に、俺のバイト先に来てね、先生!と言っていることに他ならない。佐助は自分の部屋のベッドの上で割引券と睨めっこしたまま、このことについて考えていた。 考えていると、携帯が鳴った。電話である。画面には、旦那、とある。時計は十一時をまわっていた。 「もしもーし。なに、珍しいじゃんこんな時間に。テスト終わったのにまだ寝てないの」 「そうなのだ、佐助。もうみんな寝静まっているので、静かに喋らねばいかんのだ」 テレビのない真田家にも、さすがに不便さを痛感したのか、電話はある。電話があるだけで携帯にまでは手を伸ばさないので、幸村は玄関先にあるちょっと古めの電話からかけているのだった。 「実はな、少し前から、変な電話がかかってくるのだ」 「変な電話?どんな?」 それはな…、と幸村がはじめた説明は妙ちくりんなものだった。 短くまとめると、その電話は大概夜のお食事タイムにかかってくるそうなのだが、まず相手の名前がわからない。困惑して尋ねると変な歌を歌いだす。かと思うと人がかわって、なんだかよくわからない話しを持ちかけてくる。困った幸村が昌幸さんにかわると、途端に切れてしまうのだそうだ。 「わっけわかんない。変な宗教?」 「わからぬ。しかしなにか、どこかで聞いたことがある声のような…」 「えー?顔見知りってこと?なんか怖いなあそれ。…つか、それ別に明日話せばよかったじゃん」 「最近は夜中にもかかってくるから、父上がそのうち電話線を切りそうな気配をみせておる。しかしそうなっては部活の連絡に困るので、こうして電話をしていようと…」 そんなことを言う幸村に佐助はいいことを教えてあげた。受話器とっておけばかかってこないよ、と。 次の日幸村はご機嫌だった。佐助の授けた秘策に昌幸さんも納得したらしく、夜中は受話器をはずしておくことにしたのだ。それ以外は昌幸さんが対応することで解決したらしい。 今日も二人の朝は早い。佐助はいつも通り幸村に重箱を渡した。今から中身を楽しみにする幸村は鼻歌なんか歌いながら歩いている。それを見ていつも通り佐助は微笑ましい気分になってしまう。ふと、これだから真田家に利用されるのかもなあ、と思った。 その佐助のポケットには今、信幸からもらった割引券の十枚つづりが入っている。結局昨日幸村に水を差された後、そのまま寝てしまった。だからまだ渡すかどうか、決めていない。 「あのね、旦那、これさ…」 と、幸村に割引券を取り出して見せた。当然、幸村にあげても意味はない。そういうつもりではなく、意見を聞いてみたかったのだ。これ配ってって言われたんだけど、先生にあげてもいいもんかな?と。 「いいだろう。なにか駄目なわけでもあるのか?」 と聞き返されて、逆に困った。幸村は屈託ない。その屈託のない顔のまま、兄上の店に金が入れば自然、真田家も潤うからな、なんて言っているあたり、案外したたかである。 学校に着くと、幸村はそのまま朝練へ、そして佐助は事務所へ向かった。事務員の小十郎と初めて会った時以来、なんとなく朝そこへ向かうのが習慣になっている。 「ああ、お前か。今日も早いな」 と出迎えてくれる小十郎の顔は今日も怖い。しかし何度か話すうちその怖さにもすっかり慣れて、今では政宗に関して以外は案外普通の人なのだとわかっている。向かい合った事務机の反対側はいつも空席なので、佐助はそこに座って小十郎の手元を眺めた。日報でも書いているのだろうが、その時初めて小十郎が左利きであることに気付いた。 「なんだ」 「いや、左利きなんだなあ、と」 「ああ…。昔直させられたんだが、やはりこっちの方がいいんでな」 こういう会話をするくらいには仲良くなっている。ちなみに運がいいと、たまに政宗の子供の頃の話しを聞ける。今は目付け役であるが、小十郎はその昔、十離れた政宗の遊び相手兼教育係りであったらしい。なんだか現代においては非現実的な話しだが、聞く限り嘘とも思えないので素直に信じることにしている。 ちなみに政宗様は…と小十郎が言いかけた時、佐助は、お!と思った。が、そこに元親先生が入ってきて水を差されてしまった。曰く、また倉庫の鍵がないらしい。殆ど毎日のことながら、小十郎の堪忍袋の緒は切れかかっているらしかった。 「またかチクショオ!!おい、前田先生を呼べェ前田先生を!!」 前田先生というと、この学校には二人いる。一人は前田利家先生で、佐助の学年の体育教師だ。いつも短パン一丁で授業をするので、たまに女子と合同クラスになると、逆セクハラだと苦情が絶えなかったり、割とイケメンなので、どうせなら全部脱げという要望もあったりする。小十郎が叫ぶのはこっちである。 ちなみにもう一人の前田先生は、前田まつ先生で、利家先生とは夫婦だったりする。いわゆる職場結婚というやつだ。まつ先生は良妻賢母な家庭科の先生で、男子生徒からの人気が極めて高い。人妻というところに色気があるらしい。 さらにどうでもいいことに、佐助のクラスメイトの前田慶次は利家先生の甥だったりする。学校にいてまで身内の顔を見るというのは、慶次曰く、ちょっぴり複雑なんだそうだ。 「前田先生はどーせ今日も遅刻してくんだろー?もういいからよ、小十郎さんも鍵探してくれよ。ほらほら」 と言って元親は小十郎を引っ張って行ってしまった。事務室に取り残された佐助は手持ち無沙汰で、見るともなしに窓を見た。スズメが飛んでいる。のどかだ。 はっとした佐助は立ち上がって、急いで小十郎を追った。机の上やら下やらで鍵を捜索中の小十郎が怪訝に佐助を見たが、有無も言わせず割引券を全部小十郎に渡した。 「おい…」 「よかったら食べに来てね!おいしいから!んで、俺、校庭の水遣りしてきてあげるから!じゃね!」 と言ってさっさと職員室を後にした佐助に唖然とする小十郎を元親が覗き込んだ。 「なんだよ、ずりーな。今度おごってくれよ小十郎さん」 「なんで俺がお前に奢らなきゃならんのだ」 それから三日後、金曜日の午後五時、佐助はいつも通り居酒屋「幸」で、レジ金を用意していた。次の日が休みということもあって一番込むこの曜日なので、煮付けはいつもより多めに仕込んでおくし、配送を運ぶのも一苦労だ。そうして忙しくしているうちに開店時間になり、さっそく一番のお客さんが入った。白髪頭で厳つい顔をしているおじいさんだ。 「島津さんいらっしゃーい」 「おう、いつものやつば頼む。今日はようやく仕上げ作業が終わったじゃって、しこたま飲むつもりじゃあ」 「芋焼酎と煮付けにご飯大盛り、厚焼き玉子に茄子の餡かけねー。お仕事おつかれさーん。でもあんまり飲むと肝臓悪くするよー。長生きしてこの店に奉仕してもらわないといけないんだからねー」 「おうおう、そげんか矛盾したこと言って年寄りを殺す気じゃ佐助は。あっはっは」 島津義弘さんは、幸村の祖父幸隆の時代からの常連さんである。よくは知らないが大工の棟梁らしく、いつも六時ぴったりに仕事を終えてこの店に通ってくれる。ともすると極道映画の組長として出てきそうな顔に似合わずフレンドリーなので、佐助もバイトを始めて足掛け二年、仲良くさせてもらっている。 厚焼き玉子を作り始めると、事務所である二階から信幸が降りてきた。佐助よりも島津さんとの付き合いが長い信幸は親しげに挨拶をすると、何も言わなくても茄子を取り出して半分に切ったものを四つ網の上に置いた。ちなみに炭火である。そうして言った。 「先生たち、まだ来ないね」 「うん、まあいろいろ忙しいんだよ。…てーか今日団体で来られたら俺達死ねるね。混むのに」 「なんじゃ、佐助の教師ば来るんか」 「佐助くんがうちの割引券を先生に渡したから、どうでしょうね。来たらおもしろいんですけど。ほら、幸村のことも根掘り葉掘り聞けるわけだし」 「……根掘り葉掘りなにを聞こうっての、お兄さんは」 「なんでしょうねー。俺なりに弟が心配ってことだよ佐助くん」 そんな和やかな会話をするうち、また二三お客さんが入り、七時を過ぎる頃にはほぼ満席状態であった。佐助はあっちへ行ったりこっちへ行ったり、注文を聞いて料理を作ってと繰り返すうちあっという間に八時をまわった。そうなると今度はハナからお酒目当てのおじさんたちが多くなるので、回転率が落ちる。そこでようやく佐助も信幸も一息吐けるのだった。 いつもは八時過ぎに帰る島津さんが、今日はまだ日本酒片手に魚の煮付けを摘んでいる。佐助は皿洗いをこなしながら、そんな島津さんのどこか昔話染みた話しに時折相槌を打っていた。 すると、新しく誰かが暖簾を潜って店に入ってきた。赤いジャージを羽織っている、幸村であった。髪はぼさぼさで、顔には汗の乾いた跡がある。柔道部で信玄先生にしごかれた証拠であった。 「おかえり旦那ー。どしたの、食べに来た?」 「あ、そーだった。今日家に誰もいないからさ、ここに来るよう言っといたんだった。ほら、こっち座りな幸村」 信幸はカウンター内の調理場に幸村を通し、小さな椅子を据えて幸村を座らせた。荷物を信幸に預けてどこかフラフラした幸村は、座って俯いたなり寝入ってしまいそうな様子であった。そんな幸村の頭を佐助は保護者の気分で撫ぜた。髪も汗に濡れたせいで湿り気を帯びている。 「お疲れ」 「ああ、佐助…。…、ええと、握り飯を一つ、作ってくれ、塩をうんとまぶして」 「はいよ」 そう言ったきり幸村は目を閉じて、壁に凭れたまま寝息を立て始めた。大会が近いから練習もハードメニューに変わっているのだろう、だからこの前の深夜の電話は限界ギリギリの状態でかけてきたのに違いない、ということに今更気付いた佐助は、この真面目なスポーツ男子を悩ませていた電話が急に憎らしくなってきた。 おにぎりを作り始めると、信幸が二階から降りて来て言った。 「荷物二階に置いといたし、一応布団も敷いといたから、それができたら幸村と一緒に上に置いてきて」 「うん。八畳間の方でしょ?おにぎりと、肉と野菜適当に炒めたの作るよ。出せば食べるだろうし」 「悪いね、頼んだ」 客から声がかかる。 「すみません、これ、追加で」 「ああ、はい、島さんお銚子もう一本ね。ありがとうございます」 佐助は手早く料理を作ってしまうと、先にそれを二階へ置いて、次に幸村を引っ張っていった。既に夢の世界の住人になりかけていた幸村を二階まで連れて行くのはなかなか骨が折れる。半ば担ぐような状態で、殆ど体格差のない幸村の腕を自分の肩にまわし、階段を上がっていった。 部活後の幸村に密着すると、その身体からは独特の匂いが感じられる。畳と汗が擦れた、男臭い匂いであった。こんな匂いが染み付くまでボロボロになって帰る幸村はそれでも決して疲れたなどとは言わない。佐助はそれが幼馴染として誇らしくもあるし、そういう幸村を好きでもあった。 八畳間に敷かれた布団の上に幸村を寝かせた。が、このまま眠らせると朝まで目覚めないので、腕を揺さぶって起こした。この上なく重い瞼をうっすら持ち上げた幸村はしかし用意された食事を見ると輝かしい目をして齧り付いた。特におにぎりをうまそうに食べるのは、身体が塩を求めていたせいだろう。 「佐助の飯は、ほんとうにうまい」 「炊いたのは信幸さんだけどね。…ゆっくり食べなよ、ほら、お茶ポットで持ってきたから」 「すまぬ。…そういえば今日はな、部活でおもしろいことがあって…」 うん、と佐助が聞き入ろうとした時、階下より信幸の佐助を呼ぶ声がした。新規の客が入ったらしいので、佐助は幸村に断り下に戻った。幸村は特に頓着する様子もなく、もくもくと料理を口に入れた。 新しくカウンターに座っていた客は三人。信幸は挨拶を終えたところらしい。佐助はその顔ぶれを見て思わず心臓が跳ねていた。忙しくて、まったく油断していたからである。 「せんせ」 政宗に、小十郎に、元親であった。普段は学校内でしかその姿を見ない人間が居酒屋なんかにいる光景が、奇異なものに見えて仕方がなかった。まず政宗が手をあげて挨拶する。 「よう」 「あ、うん。いらっしゃい、よかった、来てくれて。…ところでなんで元親先生までいんの?」 「おいおい、ひでーじゃねえか。なんでって、割引券こんなにあんだからよ、俺が使って悪いわけでもあんのか」 元親はそう言って小十郎のズボンのポケットからずらずら連なった割引券を取り出す。別に悪いことはない。むしろ店の売り上げに貢献してくれるんだったら、全然いい。ただ小十郎か政宗のどちらかが元親を誘ったという事実が不思議に思えただけだった。 三人は既にめいめい酒を注文して一杯はじめているところであった。小十郎が政宗に酌をしながら言う。 「こいつはただのオマケだから気にすんな」 「なーにがオマケだよ、今日誘ってきたのはそっちのくせしてよ」 「その前にてめえが奢れ奢れとやかましかったんだろうか。まあ俺は政宗様にしか奢らんがな」 「ああ!嘘吐きだなこのヤロー!政宗、この道理のわからねえ事務員なんとかしろよ」 政宗は二人のやりとりをクツクツ笑って聞いている。佐助は、普段事務的な会話しかしない二人を見慣れているせいか、小十郎と元親の案外仲のいい事が意外であった。 その二人の会話を聞いていた人がもう一人ある。それは元親の隣に座っていた島津さんで、島津さんは元親と小十郎の顔をまじまじと見たかと思うと、その奥に座る政宗を覗き込むように見た。それに気付いたのは、三人の料理を作っていた信幸である。 「島津さん、どうかしました?この人たちは、佐助くんの学校の先生方なんですけど」 「ああ、それはわかっておいもす。おい、そこの…政宗っちゅうんはもしかして、伊達の倅か?」 佐助も信幸も政宗を見た。元親もわけのわからない顔をしていたが、小十郎は改めて赤い顔をするおじいさんを眺めると、思い当たるところがあるらしかった。政宗も島津さんを見て、あ、と声を漏らした。 「あんた、島津義弘、…さん?」 「そうほいなら!懐かしいのう、やっぱり伊達の倅か!政宗、わしを覚えておったか!」 島津は立ち上がって、狭い店内にもかかわらずのしのし政宗に近づくと、そのまま政宗を抱きしめた。政宗は苦笑しながらも立ち上がってそれを受けた。小十郎以外の三人はその光景の異様さにびっくりしている。 「いやあ、あげん小さなわらっこが、立派に…わしも年を食うはず、なあ…。いやいや、奇遇な」 「何言ってんだ、まだまだ元気そうじゃねえか?島津のじーさんよ。その様子だと、今でも現役か」 政宗の顔は実に晴れやかであった。佐助は何とも言えぬ思いでそれを眺めていたのだが、その後島津さんがするすると喋った話しについつい引き込まれてしまった。 曰く、島津さんは小十郎と同じように、政宗の親の会社と関わりがある。まだ幼かった政宗が父に連れられて遠方に旅行した際、初めて政宗の祖父の昔馴染みであるという島津さんと出会った。その時は仕事の話しも半分あったのだが、半分は休養であった。だから何日か島津さんの家に滞在した。 その時話す機会のあった二人は思いの他馬が合って、仲良くなってしまったのだという。その頃はまだ十代だった小十郎も、やはり親の関係で政宗と連れ立っていたのだそうで、だから小十郎の記憶にはまだ島津さんの顔が新しい。 その滞在後しばらくして政宗は海外に住んだから、今回は本当に久し振りの再会である。二人の抱擁も頷けようというものであった。 世の中って狭い、と佐助がしみじみ言った言葉に、信幸も元親もこくこく首を振った。 「ほんに懐かしい、懐かしいが、政宗、そん右目、どげんしたとね」 小十郎があからさまに眉を顰めたのを佐助は見た。しかし政宗はけろりと笑っている。 「ちょいと病気をしてな。そこにも眼帯ヤローがいるんだ、大して気にすることでもねえだろ?」 元親を振り返った島津さんは、その左目を覆う眼帯をまじまじと見た。既にしこたま飲んだ島津さんの酒臭さに元親はたじろいだようだが、島津さんが白い歯を見せて笑うので、元親もつられて笑った。 「まっこに、まっこにな!わしとしたことが、な!わっはっは、今日はええ日じゃあ!政宗、飲め、飲め!」 この後繰り広げられたのは、二人の教師と一人の事務員、そして老齢大工さんの宴会である。特に島津さんは地方出身の元親を気に入り、元親も懐の深い島津さんに好印象を抱いたらしく、昔話と愚痴を肴に、二人してどんどん酒を飲んだ。空いたテーブル席を陣取ってしまったくらいである。 料理も酒もどんどん出る。閉店は十一時だが、九時を過ぎるとさすがにお客はまばらになる。それをいいことに、島津と元親を中心とした宴会は盛り上がる一方であった。政宗は途中からカウンターに戻って、信幸と話し始めた。既に最初の挨拶で信幸を幸村の兄と知っている政宗に、機を得たりと言わんばかりに信幸は質問した。それを佐助は隣で聞いている。 「卒業できますよね?」 というのが始まりであった。幸村の真面目さは信幸も認めるところながら、それがうまく学績に反映されているのかについては、兄としてそれなりの心配事となっているらしい。政宗は言う。 「全然大丈夫だ、あいつなら。この前のテストでも、悪い点は取ってなかったろ」 「随分補習してもらったんですよね。あんないい点、今まで見たことなかったですよ。よっぽどいいご指導をされてるんだろうと父とも話してましてね。けど今あいつ上にいるんですけど、今日も部活でへろへろで」 政宗はぐいと一杯飲んだ。大声で騒ぐ元親と島津ほどではないが、政宗ももう随分飲んでいる。まだテーブル席に捕まったままの小十郎が酌をしなくなった途端、ペースが早くなったのだ。 信幸が言うのは、部活ばかりしていて大丈夫なのか、という、ありきたりながら当事者にとっては割りと重要な問題点であった。現に今幸村は泥のように眠っているだろう。 「文武両道、てのァ口で言うほど簡単じゃねえからな。それでもあいつには勉強に対しても柔道に対しても一番大切なやる気があるから、多少飲み込みが遅いのは本当だが、充分補えるレベルだよ」 この答えに満足したらしい信幸の質問はは続いて学校での態度、友人関係、そして恋愛なんかにまで及んだ。本当に根掘り葉掘り、聞きたい事だらけだったらしい。どの質問にも教師らしい態度で淀みなく答えた政宗だが、恋愛に至ってはじめて口を濁した。 「こんなこと先生が知ってるわけないですけど、好きな子とか、いると思います?あいつ高二にもなって今まで恋の一つもしたことないらしいんで、大丈夫かなあと。こういうのは自然の流れに任せるのが一番だとは思ってますよ。でも、ほら、まあ、単なるデバカメってやつで」 にこにこ人のいい笑顔で笑う信幸は多少口下手な幸村と違って案外お喋りだ。 政宗は、事情を知る佐助にわかる程度の苦笑いをした。まさか、一時俺はあなたの弟さんに好かれてたみたいですよ、とは言えない。というか、それは言わないという佐助との約束だ。政宗は目をあらぬ方向へやりながら、 「……まあ、あいつにも好きな奴の一人や二人、……いても俺ァ驚かねえけど、な」 「ほらほら信幸さん、んなこと聞かれたって先生困るから、質疑応答はここまで!」 信幸は明らかに不服そうだ。 「えー、けちー、先生についても色々聞きたいのになあ。かっこいいから、もてるだろうし」 それは俺と同じレベルの発想です!と、叫びやりたいのをなんとか抑えて、信幸には政宗の席から離れてもらった。これでようやく政宗と話せる、と思った矢先、信幸と入れ替わりで小十郎がカウンター席に戻ってきた。戻ってきたと思ったら、政宗のお銚子を取り上げた。政宗の目があからさまに据わった。 「なあにすんだ、こじゅう…」 「なにではございませぬ。生徒の前で、泥酔するおつもりか」 「……こじゅうと、か、お前は…。おい猿飛、なんとか言ってやれ」 「もーやめときなって。完全に割引券意味ないくらい飲んでんじゃん?」 佐助にまでこう言われ、政宗は舌打ちするとしぶしぶ酒を諦めた。代わりに佐助の作った出汁巻卵をつついている。時計の針は既に十時に差しかかろうとしていた。 もうあとは客が減るのを待つだけなので、事務所に上がって納品チェック作業をしていた信幸が、二階から佐助に声をかけた。普通なら佐助はこの時間に帰るが、今日は知り合いもいるし、どうするか、と聞く。階段下から、もうちょっといるよ、と言った。ついでに、 「旦那、どう?」 「めちゃくちゃ眠ってるよ。んじゃ、あとちょっとしたら俺下降りて片付けはじめるから、よろしくね」 「はいよ」 「猿飛」 矢継早に佐助を呼んだのは政宗である。はい?と返事をしてカウンターに戻れば、なぜか不機嫌そうな顔をしているので、疑問符を浮かべたまま椅子を持ち出して座り、カウンター越しに政宗と向かい合った。小十郎はまたテーブルに捕まったようだった。元親が小十郎に肩をまわして絡んでいる。 「お前な…」 「…先生なんか怒ってる?ていうか酔ってる?」 「誰が酔っ払いだ。…お前な、なんで小十郎に割引券渡したんだよ」 「なんでって」 「俺に渡せばよかったろうが。…つーか、小十郎に渡して、なんで俺には渡さねえんだよ」 なんでと言われましても、と心の中で呟きながら、佐助は体温がみるみるあがるのを感じた。恥ずかしかったからだ。しかし同時に酷くほっとしてしまった。佐助が夜中に割引券を眺めながら考えていたのは、まさにこのことだったのである。 (俺って先生をバイト先に呼べるほど、先生と仲いいのかな?) と、これが佐助にはわからなかったのである。確かに最近は話すようになったし、校内留学と称した補習もたまにしてもらっている、お弁当を交換したこともある。とはいえ、それ以前はむしろ好もしく思っていなかった存在でもあるだけに、急にそれほど仲良くなれた、とは、どうしても確信できなかった。 だから小十郎を通して間接的に政宗に割引券を渡したのだ、としか、ほとんど無意識にしてしまった行動を説明できない。小十郎とははっきり「仲良くなれた」と思える佐助であるのに、これが政宗になると、とたんに自信がなくなってしまうのだった。 それが一番不思議なのは佐助自身である。 ともかく政宗の意識としては、佐助は政宗に割引券を渡して当然だった。それくらいはして当然の仲である、と政宗は思っているのだ。だから佐助はほっとした。 「……なんで黙るんだよ。変なこと言ってるか?」 「え、いや、ちがうちがう!今度はさ、絶対渡すから!うん、絶対渡す!」 「……そーか?なら、いい。許す」 佐助が頬が緩むのを抑えきれずににこにこ笑っていた。そして気付くと、いつの間にかテーブル席を離れた島津さんが政宗の隣を陣取っている。小十郎はというと、ちょっと離れた席にいて元親とお茶を飲んでいた。その顔には笑みが浮んでいるが、元親はどうやらまだ小十郎に奢ってもらう魂胆らしく、なにやらこまごまと口上を述べていた。どうやらそろそろお開きらしい。和やかな空気が店内に流れ始めたところで、 「政宗先生!」 と盛大にその空気をぶち破って幸村が降りてきた。とはいえまだ眠たげな顔をしている。 「よう、真田。お疲れさん」 「今日は、激励に来ていただき恐悦至極、この幸村、大会に向けての士気を高めましたぞ!」 幸村はフラフラしながらそんなことを言った。 「旦那、起きてきて大丈夫なの?つーか、一体なんの話し…」 「大丈夫、ではない。しかし礼を言わぬわけにはいかぬのだ。実はさっき話しそびれたことだが、」 「大げさなヤローだな…。なに、今日ちょいと柔道部に顔出して、何本か相手してやっただけの話しだ。俺も昔柔道を齧ってたんでな、懐かしかったんだよ」 へえ、政宗先生が柔道。意外といえば意外ながら、言われて見れば細身に見えて腕は筋肉質な政宗のことである、納得できないことはない。それよりも佐助は下世話なことを考えていた。 真田の旦那が、政宗先生と柔道?へー、寝技とか、しちゃったわけ。ずるい。 佐助はそう思っている自分が不思議でならなかったが、そろそろ帰るというめちゃくちゃに飲んだ四人の面倒臭いおあいそにかまけて、うっかりこんなことを考えた自分をなかったことにした。 四人がぞろぞろ帰った後幸村は先生達が来ている間眠ってしまったことを悔しがっていたが、すぐにまた夢の世界へとダイブしてしまった。佐助も家に連絡して、その日はそのまま店の二階に泊まった。政宗は、また来る、と言った。なんだかふわふわ浮んだような満足感とちょっとした疲労感のおかげで、ぐっすり眠れた。 こうして居酒屋「幸」での長い夜は、更けていったのである。 |