佐助の家に変な電話がかかってきたのは火曜のゴールデンタイムであった。
 それは丁度佐助がその口にエビフライを入れようとしている時で、ものぐさなお母さんは至極当然に佐助に電話を取るよう言った。湧いた唾を飲み込んでしぶしぶ受話器を取るとこうだ。
『アナター、恋シテマスネー?』
「してません。さようなら」
 聞くだけなら穏やかに佐助はそう告げて受話器を置いた。そしてからっぽのお腹にいざエビフライを投げ込まんと箸で摘んだ時だった、再び電話が鳴るので、佐助は箸を叩きつけてやろうかと思ったのだが、そうすると案外躾には厳しいお母さんが怒るのでそうはせずに静かに箸を置いてまた受話器を取り上げた。こうだ。
『ンモーウ、ナンデ切ッチャウノー?照レ屋サンナンダカラーア!素直ニ愛ヲ告白スレバ、人生薔薇色ダヨー?ワタシー、アナタガ恋シチャッテルノ知ッテマース!ソンナアナタに祈ラセテ!ザビーノ愛デ、イ・ノ・ラ・セ・テ!ソレデハ愛ノ交響曲一番、『ヤルナラ本気デ』歌イマース、』
 佐助は受話器を叩きつけるようにして電話を切った。お母さんが一体なんの電話かとエビフライを頬張りながら尋ねてくる。佐助にはめちゃくちゃ心当たりがあった。ついでに以前幸村を苦しめていた電話の謎も全部解けた。なんなら笑い飛ばしてもいいくらいすっきりしたような気分と、突然の被害に呆然とした気分が入り交ざっていたが、とりあえず佐助はテーブルに戻って念願のエビフライに齧りついた。
 それは以前、佐助が政宗先生に校内留学と称した補習を職員室でしてもらった時のこと、それを妙な至近距離で微笑ましげに見ていた歴史の織田先生の隣には、なぜ学校にいるのだかわからない、牧師のザビーおじさんがいた。
 そのザビーおじさんというのは、一言で言えば謎のおじさんである。生徒からはザビーおじさんザビーおじさんと呼ばれるものの、それが果たして本名なのかどうかは誰も知らない。喋ると外人らしい日本語だが国籍不明。ザビーおじさんは大体毎日校庭か職員室、もしくは武田高校程近くにある教会に出没する。情報はそれだけで、住所不定。ちなみに歴史の織田先生とよく喋っているのを見かける。きちんとした意思の疎通がなされているのかどうかも不明だ。あと付け足すとすれば、フランシスコ・ザビエルのような格好をした人たちを引き連れていることもある。そういう場面に元親が遭遇すると、大概よくわからない理由で喧嘩になって技術の授業が自習になったりする。
 要するに今の電話は佐助の記憶にあるザビーおじさんと見てまず間違いなかった。そうなれば話しはとりあえず簡単で、まず明日直談判するという手があるが、なにせザビーおじさんと話したことなどないから多少不安ではあった。そもそも話しが通じる相手なのだろうか。
 また電話が鳴ったが無視してその日は受話器をはずしておいた。お母さんに説明すると、そのザビーおじさんってもしかしてこの人?と言ってなにやら小冊子のようなものを取り出した。表にでかでかとザビーおじさんの顔写真がありその周りは黒と金のキラキラした柄で覆われている。中身を開くとまず『ザビー教とは』という見出しがあった。可愛らしい少年のイラストから吹き出しが出ていて、
 Q.ザビー教ってなあに?
 と尋ねていた。その下には髭を生やしたオッサンのイラストがあって答えている。
 A.世の中に愛をもたらして下さるザビー様を崇める団体だよ!決して怪しい新興宗教じゃないよ!
 怪しくないと思うほうがおかしい。
「こんなもんどこでもらってきたの」
「アンタの学校の近く通ったとき、もらったの。ティッシュがついてたから」
 と言ってお母さんはビニールにやはりでかでかとザビーおじさんの顔がプリントされたポケットティッシュを取り出した。それを使う気なのかお母さん、使えちゃうのかお母さん、俺は本当にあなたの息子だという自信がありません、と内心思いながら佐助はそれを取り上げた。文句を言われるがその筋合いがよくわからない。

「ザビーおじさんって一体何者なの?」
 翌日、開口一番佐助は小十郎に言った。その日は珍しく事務所に政宗もいた。小テストの丸付けをしている。なぜか机の上に新聞紙を広げその上に平たい花器を置いて花を生けている小十郎は突然の質問に眉を顰めた。何者とはどういうことだ。
 佐助はまず幸村の家にかかってきた不審な電話のこと、そして佐助の家にもかかってきた旨、ついでに小冊子のことも説明した。もちろん今朝幸村に会った時にも同じことを説明した、すると幸村はそもそもザビーおじさんの存在が目に入っていなかったらしく、始終わからない顔をしていた。が、別にそれはいい。もともと幸村には何も期待していない。ただ平和に部活に打ち込んでくれれば佐助はそれでいい。
 その幸村と自らの平和のため、佐助は結局勇気が湧かないので事務所兼なんでも屋の小十郎にザビーおじさんについて聞いてみることにしたのだ。さながら佐助にとって小十郎はRPGゲーム序盤で何かとヒントをくれる長老のようなものだった。小十郎は古流鋏でリンドウを切り終えると、ザビーおじさんはそんなことまでしていたのか、と言って剣山に刺した。
 今日は政宗が小十郎の向かい側の席を陣取っているので、佐助は部屋の片隅から折りたたみ椅子をごそごそ取り出して二人の間に座った。黙々と丸付けをする政宗は小十郎に呼応するように、
「あのザビーっておっさんはな、一応名目上は学校付きのカウンセラーなんだよ。知らなかったか?」
 と言った。まったく初耳だった。へええ、と佐助が驚いたような感心したような声を出すと、政宗は採点し終えたテストの束から一枚抜き出して佐助に渡した。一昨日の単語テストで、見事満点を獲得していた。
「昔信玄のおっさんが勝手に呼んだらしいから変な筋ってわけじゃねえんだろうが、その電話やら冊子やらは、ちょいと問題かもしれねえな」
「いかが致しますか」
 政宗は、どうしたい?と佐助に聞いた。どうもこうも、自分たちに被害が及ばないようになればそれでいい気がするからそのまま言うと、政宗は小十郎に頷いてみせた。それだけでなにか二人は通じ合えるらしかった。
「あとは俺に任せておけ。よく教えてくれたな」
 そういう小十郎の言葉は、佐助がなにか手を出すという可能性をまるっきり含んでいなかった。ちょっとした疎外感のようなものを感じたが、基本的に面倒ごとは嫌いな佐助である、今回の問題は小十郎さんに一任しよう、ああよかった頼りがいのある大人が近くにいて!と、楽な気持ちであった。
 そんな気持ちで何気なく職員室に繋がるドアを見るとどんよりしたオーラを放った元親がほんの少しだけ顔を出してこちらを見ているので佐助はびっくりして思わず声をあげた。政宗も小十郎も元親に気付いて、なにしてんだお前、と言って事務所に入れてやった。いつもの元気も覇気もなく、人が変わったように落ち込んだ様子であったから、これは只事ではないと思った。
 それにしても、狭い事務所に大の男四人というのはむさ苦しいにも程がある。元親も折りたたみ椅子を取り出して小十郎の横に座った。畢竟佐助は政宗の横に並ぶことになって、少し居心地が悪かった。
 元親の話しは深刻なのだか冗談なのだかよくわからない話しだった。
「元就がよー、最近なんか変なんだよ。いや、これまでも変っちゃ変だったよ。性格最低だしあいつ。けど最近はそれ以上に変っつーか、妙にきらきらしてるっつーか、…いや、きらきらしてるのはいいんだけどよ、俺によくわかんねえ話とかするし、なんつーか心配でよ…」
「要領を得ねえな」
「まったくだ」
 小十郎と政宗は容赦ない。元親はしかしぐだぐだと話し続けた。そのうち授業開始時間が近づいたので、とりあえず元親の話しは昼休みまで保留ということになった。佐助は教室まで政宗と廊下を歩いた。
「ザビーのおっさんは電話でなんて言ってたんだ?」
 この政宗の問いは不意打ちであった。佐助はさっきそれを、わけのわからないことを言ったと思ったら歌いだした、と説明していた。というのは、少なくとも『恋シテマスネー?』というザビーおじさんの言葉に、蓋をして奥底に仕舞い込んでいたものを無理矢理抉り出された心境でいたからだ。
 佐助はあの時、政宗の顔が浮んだ。それは佐助を困らせた。
 わけのわかんないこと、と言うと、断片的でも具体的になんかあるだろ、と問われた。舌打ちしそうになってしまったのはなんとかこらえた。
「…そんなん先生に関係ないでしょ。俺、小十郎さんに頼んだんだし」
 政宗はあからさまに気分を悪くしたらしかった。佐助の様子から冗談の気が見えなかったせいもあるだろう。
「関係ないことはないだろうが」
「関係ないよ」
「…あのな、電話の内容次第で対処もいろいろ変わって…」
「関係ないつってんだろ!あんただって前、俺にそう言っただろーが」
 ますますわからない顔をして、政宗は立ち止まると佐助を覗き込んだ。何か調子が悪いのかと思ったのか、わからない顔の中に気遣いの表情が伺えた。佐助は息の詰まるような思いをしたがぐっと飲み込んで視線を逸らした。何も言わない佐助を、政宗が異常と思っても仕方がなかった。
「…んなこと言ったか?お前、なんかあったのか」
 政宗は覚えていないらしい、その事実が佐助の顔を熱くさせた。佐助のみ政宗とのことを意識しているのだとはっきり宣告された気がして、佐助はとてもその場に居た堪れなかった。
「…気分悪いから、保健室行ってる」
 そう言い捨てて佐助は教室とは反対方向に走り出した。政宗の呼び止める声も聞かず、保健室にも行かずに校舎から出てしまうと、そのまま校門まで走った。
(ああ、そうだよ。そうですよ!)
 そこから先はとにかく普段あまり行かない方行かない方へと走って、走りつかれてその場にどっと倒れると目の前が教会らしい建物だった。このあたりにあることは知っていたが、初めて見る。しかしあまり普通ではない。
 まず正面玄関に、昨晩見た似顔絵と同じ顔がでかでかと額縁に入って飾られていた。その下、ピンクのバラが仰々しい装飾を施された扉をぐるりと囲んでいる。その香りは佐助が座り込んだ所までツンと香ってきた。
 しかもその玄関の下、授業があるはずの毛利元就先生が立っていたのだから、なんだかことの全ての真相がわかった気がした。
 元就は玄関下でザビーおじさんの肖像画に向かって手をかざしながら、しきりに何か声をあげている。おお、おお、ザビー様…!という具合だ。佐助は、まるで自分の悩みがちっぽけに感じた。それは世の中にはいろいろな人がいるという実感のせいだった。元就に声をかけるべきかさんざん迷ったあげく、佐助はその場を立ち上がり服についた砂を払うと、目を閉じて深く息を吸い込み、よし、何も見なかったことにしよう、と自分に暗示をかけてもときた道を戻ろうとした。したのだが。
「貴様、猿飛か」
 常人ではありえない早さでもって、元就はいつの間にか佐助の行く道を塞いでいた。
「なにも見てませんごめんなさい」
 佐助はなるべく目を合わせないようにした。早く戻って小十郎に報告してしまいたい。
「貴様がここまで来たのも、ザビー様の思し召しだ。さ、中へ入って教義を聞くがよい」
 言うやいなや、元就は佐助をぐいぐい引っ張って、とうとう教会内まで連れ込んでしまった。
 元就はもともと死ぬほど無愛想な先生だ。その無愛想さと性格の悪さが手伝って、同時期に武田高校へやってきた元親と喧嘩ばかりしているのは最早生徒の間では常識に近い。佐助は元親の元気がなかった意味も今ははっきりわかっていた。元親の言うとおり元就は無駄にきらきらしている。元就は数学教師だが佐助の授業は担当していないのでこれまで気付かなかったが、今までと決定的に違う点として、気持ち悪いほど爽やかな笑顔があげられた。それはもう爽やかすぎ、特にこれまでの元就を知っていれば下品な話し胃の中のものを戻しかねない勢いの、とんでもなく邪気のない笑顔であった。
 事実佐助は今ちょっと吐き気を催している。天井の高い、デザインだけ見れば西洋のチャペルとさほど変わりない建物の中は、なにかむっとした匂いが立ち込めて、それだけで佐助はやばいと思って逃げようとしたのだが、扉をくぐってすぐ、背中でカチャリと音がして、それが鍵を閉めた音だとわかると最早逃げる気力も湧かなかった。佐助はいろいろな出来事のおかげで、ちょっとしたショック状態にあったのだと言っていい。
 長椅子に座らされ、元就もその横に座って、堂内の一番奥にある教卓をやはりきらきらした目で眺めていた。しばらくすると、一体いつ連絡したものか、ザビーおじさんが仰々しくやってきて、教卓に手をついた。堂内には佐助と元就とザビーおじさん、そして取り巻きらしい男が二人ザビーおじさんの両サイドについていた。
「オーウ、アナター、ワタシ昨日電話シマシター、来テクレテ嬉シイデース。今日ハー、何ノ御相談カシラー?恋ノ御相談ナラ、何時間デモ聞クヨー?アナタ恋シテルヨネー?」
 身振り手振りをつけながら、ザビーおじさんはこんなようなことを長ったらしく喋った。佐助が呆然とした笑みを浮かべたまま何も言わないでいると、隣に座る元就に突っつかれた。
「なにをしておる、さっさとなにか答えぬか」
「え、いや、あの…できたら放っておいてほしいなあ、なんて…」
「ガッデム!コレハ心の鎖国!アナタ、アナタ、デモワカリマース…好キナ人ニ、素直ニナレナイノネ!?」
 昨日の電話といい、ふざけた調子だがいちいち言っていることは的を射ているのがなんだが悔しい。と言って正直なところを告白する気も毛頭ない。佐助はただ黙っていた。恋シテルヨネ!?というザビーおじさんの声は、教会内によく響いて佐助の意識の上あたりをなんとなく掠めていた。
(ああ、そう、その通りですよ、わかってんだよ…)
 保健室に行くと言った自分が急に学校を飛び出してしまったとわかって、今頃大騒ぎになってはいないだろうか。残された政宗は責任を責められてはいないだろうか。だとしたら今すぐ戻るのが一番いいが、どうやって詫びたらいいのだろうか。佐助は政宗にちっとも悪いところのないことはわかっていた。
 幸村の顔が浮んだ。幸村は佐助の一番身近で大切な親友で、佐助に政宗と話す機会を与えてくれた。幸村がいなかったのなら、幸村が政宗先生が気になるのだなどと口にしなかったのなら、恐らく佐助は政宗を単なる面倒臭い高校時代の担任と記憶して一生を過ごしただろう。
 しかし皮肉なことに、佐助はこの幸村のために、幸村に言ってしまった自分の言葉のために、苦しんでいる。気付かないふりをしながらも、どうしても日に日に自覚されていくものはより一層佐助を追い込んでいくので、佐助はにこにこ笑ってやり過ごす他に方法を思いつかなかった。
 それが、一番やばいと思ったのは、以前政宗が居酒屋「幸」を訪れた日のこと、幸村が政宗に柔道の稽古をつけてもらったのだと言った時だ。あの時はまず、それをずるいと思った自分が不思議だった。そしてそれはなかったことにした。だが後々になって、ふと、あれは嫉妬だったのだと気付いたとき、佐助は自分が相当やばいところにまで足を踏み入れてるのだと自覚せずにはいられなかった。
 いつの間に。
 それはよくわからない。さかのぼるとしたら、政宗が図書館の前で「猿飛」と見たこともない表情で呼んだときにまでかえらなくてはならない。佐助はやはり忘れようと思った。そこにあの電話であった。
(んなことはわかってんだよ、けど、…)
 自分がどんなつもりで幸村に何を言ったか。それは佐助自身が一番よくわかっていた。
「人生辛イ時ハ、青空眺メテ御覧ナサーイ、キット、ソコニハ、ワタシーノ顔ガアルヨー?」
「おお、ザビー様…!まさしくザビー様は日輪のごとき!なんとありがたい…!猿飛!」
「えっ、あ、はい、なんすか」
「照覧せよ!」
「何を?」
「ザビー様をだ!」
 と言われても困るので、佐助は仕方なしにザビーおじさんの後ろのステンドグラスを眺めた。佐助がぼんやりした世界に沈んでいる間、二人は教義とやらを交わしていたらしい。おお…!と声をあげながらザビーおじさんを敬う元就をちらりと見ると、途端に疑問が波のように押し寄せてきた。
「…つーか先生なんで、この…なに?ザビー教?に入ってんの?つーか信者?」
「よくぞ聞いた」
 元就は再び吐き気を催すほどの素晴らしい笑顔で言った。
 曰く、元就がザビー教に入信したのは極最近、たまたまこの辺りを歩いていた時のことだそうだ。その日元親と喧嘩をした元就はいつも以上に機嫌が悪く、ザビー教の幹部が元就に気付いて話しかけて来た時も、一蹴してさっさと帰ろうとしたらしい。元就にしてみれば、不完全燃焼な喧嘩にフラストレーションが溜まっていたのだろう、あまり幹部がしつこいので、通報してくれようと脅しを入れた。そこへやってきたのが、学校でたまに見かけるザビーおじさんだった。
「…というわけだ」
「いやいやいや、全然わけわかんないです」
「時に貴様、一目惚れというやつを信じるか」
 一応信じてないと答えた。大体元就もこの場合一目惚れとは言えないはずだが、とにかく元就のザビーおじさんへの執心振りの理由は、これでわかった。とてもじゃないが佐助の手に負えるような問題ではないということもよくわかった。佐助はなんだか、仲が悪いながらに元就を心配して、張り合いをなくしている元親がかわいそうになってきた。
 そう思って佐助が深い溜息を吐くと、ザビーおじさんが、ナニナニドーシタノとか言いながら近寄ってきた。その威圧感に佐助はぎょっとしてじりじり後ずさりした。幹部と一緒に迫ってくるザビーおじさんは怖すぎた。とうとう扉に背をつけることになって、ザビーおじさんはにっこりして、佐助は青ざめた。
 なんだかよくわからないがもうだめだ、と思った瞬間、誰かが外から扉を叩いた。最初は優しいものだったが、次第にその音は大きく強くなり、しまいには扉を蹴飛ばしているらしく、とても背中をつけていられないほどで、佐助は扉とザビーおじさんの間から抜け出した。
「ワーオ、乱暴ナオ客サンダワ!教会壊レチャウヨー!?」
「何者だ!やめろ、やめぬか!」
 慌てるザビーおじさんと元就を尻目に何者かは扉への攻撃をやめようとしない。そのうち一つ大きな音がしたと思ったら、とうとう鍵が壊れて扉が開いた。その向こうにいたのは政宗と元親だった。
「せん、せ…」
 政宗の顔は険しい。その険しさを全て佐助に注いでいるような気がした。とても政宗を見ていられず視線を逸らすと、さらに厳しい顔をした元親がずんずん元就に近づくところだった。
「貴様、一体なにをする!」
 元親は思いっきり息を吸い込んだ。
「…てめえこそなァ!教師が授業さぼって一体なにやってんだ!最近話しかけても上の空だしいい笑顔だし生徒からは『最近毛利先生元気ですね!なんかあったんですか?』なんて聞かれるし、っつーかなんで俺に聞くんだって話だしとにかくさんざ心配かけさせやがって、どういうつもりだ!」
 言ってることの内容はどうもあほらしさが拭えないが、佐助は、一瞬元親が元就を殴るのではないかと思った。それくらいの剣幕だったが、元親は震える拳を押さえるかわり、元就の手を取ってさっさと引っ張って教会を出て行ってしまった。引っ張られる元就は唖然とした顔をしていた。無理もない。
 元親が去ると、ザビーさんよ、と政宗がやたら優しげに言った。
「政宗先生、ドーシタノ?ドウシテドア壊シチャッタノ?ワタシー、悲シイデース」
「そいつァ悪かった。けど壊したのは俺じゃなく元親だから、文句ならあいつに言ってくれ。大体これでおあいこじゃねえか?最近のあんたの活動がちょいと問題になっててな、是非とも是正していただきたいんだが、今から信玄のおっさんのところまで来てくれるか」
「武田サンノ所デスカー、ワカリマシタ、行キマショウ。ワタシネー、近頃寂シクテネー、」
「ああ、そういうのも、全部おっさんに言ってくれ。…俺はこいつと話しがあるから、あんた先に学校へ戻ってな」
 政宗は佐助を指差して言った。ザビーおじさんは渋っていたが、幹部に促されると、先生ノイケズー、とかなんとか言いながら教会を出た。雰囲気だけは荘厳な教会内には、やはりと言うべきか、佐助と政宗のみが残されることになった。
 まずは怒鳴られるかと思って佐助が覚悟していると、政宗は大きく息を吐いて、一番手近にある長椅子に座った。佐助も座るよう促されたので、大人しく隣に腰掛けるが、ちょっと間は広かった。まさかこんなことまで気にするとは夢にも思わなかったのだが、
「遠い」
 と言って、政宗は佐助の二の腕を引っ張って無理矢理近くに寄せた。自分が移動するという発想はなかったらしい。非常に心臓に悪かった。政宗をちらりと見ると、肌にうっすら汗が滲んでいた。
「走ってきたの?」
「あの後俺が追わなかったとでも思ってんのか」
「…元親先生も一緒だったし」
「あれはあれでまた別だ。今見たらわかっただろ。元就が職務怠慢して、その原因がザビーのおっさんだった、そんだけだ。生徒から元親に、元就を教会で見たっていう目撃情報があったんだとよ。たまたま行き先とタイミングが同じだったってわけだ」
「なんでここにいるってわかったの」
「…勘、と言いたいところだが、その辺歩いてたやつらに聞きまくった。質問はそれでおしまいか?」
「あと、えっと、ザビーおじさん、どうなる?」
「お前と真田の証言次第だ。気になるのか?」
 少し、と答えて佐助は黙った。政宗もしばらくは何も言わずに背もたれに手をやったまま何度か溜息を吐いた。こうして政宗と二人っきりでいられること事体は嬉しいが、するとやはり幸村に言った言葉が自然と浮んできて、すぐに苦痛に変わってしまうのだった。
 ドラマや小説であるような、気付かなければよかった、なんていう台詞は、まさにこういう心境なのだろう。
 政宗はようやく口を開いた。
「……俺はな猿飛、立場上、お前の悩みを聞くことはできるが、強いて聞き出すことはできねえんだ。なあ、そんなに信用ねえのか、俺は。関係ないの一言で突っぱねられるほど」
 その声が微かな痛切を含んでいるのが、佐助には一番辛かった。すぐに否定してしまいたい欲求と、何を言っても嘘になりそうな恐怖とが入り混じって、結局何も言う事ができなかった。また重い沈黙が流れた。ここまで気まずい空気を味わったのは、政宗がいつきから告白されたことを話した日以来であった。
 改めて考えてみると、やはり佐助は、あの時から政宗に惹かれている。そう思った。むしろ、よくもここまで気付かずにやり過ごす事ができたものだ。
 佐助は何か言おうと思った。顔を上げると、気付いた政宗と目が合った。翳りが見えた。
「先生のことは、好きだよ」
 するする出たこの台詞に、佐助はびっくりした。目を見開いたのが、政宗にもわかってしまったのではないか。しかし慌てることすらできず、ゆっくり視線を外した。ごくりと唾を飲み込むとなぜか苦い味がした。政宗に安堵の雰囲気が生まれたのを感じて、それだけが救いだった。
「俺がお前に関係ないって、いつ言ったか、教えてくれるか」
「…あ、それは、覚えて無くても、当然。ほら、一回先生が小十郎さんのジャージ着てたときがあったでしょ、そんとき俺小十郎さんのこと知らなかったから、それ誰って聞いたら、…none of your business、って」
 しばらくわからない顔をしていた政宗は、ようやく記憶に合致するところがあったらしく、ああ、と小さく呟いた。本当に些細なこととしか思っていない呟きだったが、佐助は再びそれに腹を立てるような真似はしなかったし、できなかった。それは当然のことなのだ。
「…そうか、悪かった。そこまで気にしてるとは、」
 今度ばかりは、慌てて弁解した。違う、俺が自分勝手なだけで、先生は全然悪いことなんかないんだよ、と言うと、政宗は苦笑した。そして、いつかと同じように佐助の頭に手を伸ばして、ゆっくり髪を撫ぜた。政宗の手に体温が伝わりはしなかっただろうか。そんな懸念を抱きながら、しかし政宗の手があまりに気持ちいいので、振りほどくことをしたくなかった。政宗は小さく、いい子だな、と言った。
 政宗は佐助が学校を飛び出したことについてなにも咎めない。佐助はいろいろな気持ちが綯い交ぜになって、もう自分が辛いのだか嬉しいのだが、それすらよくわからなくなっていた。ただ政宗の撫ぜる手だけはいつまでもそうしておいてほしかった。
 しばらくして政宗は手を離すと、腕時計を見た。
「帰るか?」
「うん、ごめん、授業あったでしょ」
「連絡はいってるはずだから心配すんな、代行立ててるよ。…ああ、そうだ」
 政宗はズボンのポケットに手をやると、携帯を取り出しボタンを一つ押して、佐助に寄越した。そこには政宗の電話番号とメールアドレスが表示されていた。
「登録しとけ。なんかあったら連絡しろ。…なにもなくても、連絡しろ」
 やや間があって、佐助はわかったと返事をすると、自分も携帯を取り出して政宗のアドレスを入力した。それは@takeda.ac.jpで終わるクラスのみんなが知っているアドレスとは違う、学校では教師を除いた極一部しか知らないはずのアドレスだった。
 入力しながら佐助はやはり複雑な気分だった。頭の中でもう一人の佐助は言う。
 それで、どうすんだ、お前は?男相手に気になるだのなんだのって、あんた先生をどうしたいんだよ?カマ掘って傷つけたいの?あんたにそういう可能性があるってんだったら、……、……、
 よくお前は幸村にあんなことを言えたもんだな。
 そうやって、もう一人の自分に、佐助は嘲笑されるのだった。
(そうだ、わかってるよ、俺には、なんの権利もない)
 政宗先生、とメモリーに登録した。佐助のアドレスは、また連絡してきた時でいい、と政宗は言う。ありがとうと小さく礼を言ってみたが、それは随分ぞんざいなものに聞こえただろう。

 その後学校に戻った佐助は、普通に授業を受けて、普通に帰った。次の日幸村と一緒に校長室に呼ばれ事情を聞かれたが、大事にしたくなかったので、あまり被害を誇張はしなかった。
 その一週間後、校内には奇妙な教室ができていた。表札には『ザビーおじさんのお部屋』と書いてある。おそるおそる中を覗いてみると、予想通りザビーおじさんが大きな椅子に座って、その時は丁度、織田先生が話しに来ているところだった。ザビーおじさんや織田先生に直接聞くのはあまりに勇気のいることだったので再び小十郎を訪ねて聞いてみた。
「ああ見えて本当はまともなカウンセリングができるからな、ザビーおじさんは。今までは校内に居場所がなくて、なかなか生徒が相談に来ないもんだから、いわゆる欲求不満でああいう行動に出たらしいというのが校長先生の話しだ。そこで教室を作ってやったんだとさ。…経費の無駄だろうと俺は言ったんだがな」
「宗教の方は?ほら、あの、いわゆるカルトってやつじゃないの」
「新興宗教には間違いないが、悪徳らしいことはなにもしてねえから、カルトとは違うな。…まあザビーおじさんにしてみりゃあ趣味みたいなもんなんだろう。もとを辿ると出身国の宗教らしいしな。お前らがあまり訴えなかったから、大した沙汰もなしだ。それでよかったのか?」
 佐助はちょっと考えてみた。もともと幸村が平穏に暮せるならそれでいいはずだったので、それでいいと答えると、小十郎は呆れたような、手ごたえのない顔をしていた。
「まあ、資格だけは無駄に持ってるらしいからな、一度行ってみたらどうだ」
「……冗談」
 へらりと笑っていると、先日とは打って変わって元気な元親が、むしろ以前よりもきらきら健康的な面持ちで事務所に入ってきた。
「ういっす小十郎さん!お、佐助じゃねえか、あの時はお前も災難だったなあ」
「いやあ、別に…。えーと、そんだけ元気ってことは、治ったんすか、元就先生。しばらく代行立てて休んでて、昨日復帰したでしょ」
「まあな!少なくとも元就の笑顔のせいで吐き気を催す生徒は救われたぜ!人間極端はよくねえからな、そこんとこを一晩かけてきっちり教え込んでやったのよ」
 意気揚々と話す元親の頭を何者かの拳が思いっきり殴った。それは当然元就で、その顔はもとの通り無愛想極まりない不健康な無表情だったが、元親にしてみたらそれが健康な元就なのだろう。佐助も実際こちらの方がなぜか落ち着く。
 元親は一体事務所になにをしに来たのだか、そのまま元就に食ってかかって、あとはいつも通りの喧嘩を繰り広げていた。喧嘩するほど仲がいいとはこの二人のことを言うのだろう。
 ところで猿飛、と小十郎はやかましい背後を完全に無視して言った。
「近頃元気がねえじゃねえか」
 佐助は小十郎の鋭いことにちょっとびっくりした。しかし先ほどと同じようにへらりと苦笑して、
「思春期ですから?」
 とごまかした。
 あまりにうるさい二人に文句を言いに来たのだろうか、政宗が事務所へ顔を覗かせると、すぐに佐助に気付いて、よう、と片手をあげて、佐助もそれに笑って返すと、すぐに事務所を出た。
 この短いやりとりの間に少しく奇妙なものを感じたのは、小十郎の他にいなかった。