ここに一人不幸な少年がいた。 その少年、森蘭丸の不幸は伊達政宗先生が新任で武田高校に入ってきた時から始まった。高校一年生の春、その新任は幼馴染のいつきの担任になった。蘭丸は憧れの織田先生が担任になったので、その時はさして気にすることもなく、日々はいたって平穏に過ぎ去っていった。しかし兆候は夏休みを前にして、ちらちらと影を見せ始めていた。 蘭丸は家の方向が同じだという理由で、よく登下校でいつきに出くわす。気が向けば声をかけてやるし、向こうも気が向けば蘭丸の相手をする。大体小学生のような悪口やふざけあいをして終わるのが普通なのだが、例えば「明日の遠足の準備しただか?」といつきが言い出せば、そのままその話しで盛り上がって一緒に下校するなんていうこともある。 ある時のいつきも、そんな感じだった。そういえば蘭丸、国語の宿題終わっただか?と言うので、終わったに決まってるだろバーカと答えてそのまま帰り道を二人して歩いた。さすがに高校生にもなれば、その程度で囃し立てるような野暮をする同級生もいない。言った本人が惨めな立場になることをわかっているのだ。 「おめえみてえなのがクラスにいたら、学級委員は大変だべ?」 「はァ?なに言ってんだお前。…ああ、お前学級委員なんだっけ?」 「うん」 やはりいつも通り茶化すようにして答えたのにも関わらず、いつきはなぜか真面目な顔をして、そのまま淡々と語りだした。曰くこうである。 おら、自信がなくなっちまっただよ。みんなの推薦で学級委員になったはいいけど、いろんな場面でみんなをまとめることができねえんだ。…笑いたかったらいくらでも笑えばいいだよ。けどおら、もうちょっと、きちんと仕事をこなせるって、思ってたんだ。自信、なくなっちまった…。 この時蘭丸は内心焦りまくっていた。いつきが本気で悩んでいるのは明らかで、しかも自分に話すということは、なんらかの慰めを求めているのに違いない、ここまでは人の感情に疎いとたまに(主にいつきに)怒られる蘭丸にもわかった。わかったが肝心の慰めの言葉が出てこない。思いついたのはこんなことだ。 はは、ざまあみろ!推薦されて、調子に乗ってるからだよ、バーカ!お前みたいなのが学級委員できるんだったら、蘭丸にだってできらあ!バーカ!なにお前?そんなことで悩んでんのか?ばっかみてえ!そんな暇があったらさっさとこう言えよ、『やっぱりバカなおらにはできません、すみません』ってさァ! さすがに言えない。言ったら一生口を聞いてくれない気がする。蘭丸はそれがちょっぴり怖かった。とはいえ、いつきに対して毎日そういう対応をしているだけに、咄嗟の慰めが、どうしても言えなかった。 「へえ…」 と、これだけ言った蘭丸を、なにか残念そうな眼差しで見つめたかと思うと、いつきは丁度別れ道に来たのに気付いて、そのまま走り去ってしまった。珍しく罪悪感に苛まれた蘭丸は、 (俺が何したっていうんだよ!?) と、非常にむかむかした気分でその日は家に帰って、さっさと布団を被ってしまった。 そんなわけで蘭丸は、次の日からいつきに会うのを避けて過ごした。会えば(主に蘭丸が)気まずいし、やはり考えても何を言ったらいいのかわからない。蘭丸はこれまで甘やかされて育ってきたせいか、共感とか同情とか、そういった能力を若干欠いていた。だからこれまで相談事というものをされなかったのだが、そうした経験を持っていないことも裏目に出てしまっていた。 いつきのクラスを通りがかるついでに様子を伺ってみると、やはりいつきはいつもの元気がないように見える。丁度休み時間だったのをいいことに、しばらくクラス前の廊下をうろうろしていると、自分の席でぼーっとしているいつきのもとに政宗がやってきて、何事かを話していた。気になって何気なく近寄ってみると、途切れ途切れではあったあが、内容を聞き取ることができた。 「…じゃねえか。クラスの……のことか?」 「おら、……訳ねえだ。先生、…辞退…ねえか…」 いつきは学級委員を辞退することまで考えているらしい。しっかり辻褄の合う話しなだけに、蘭丸はなぜか複雑な気分だった。いつきの「辞退」という言葉が引き金になったのか、政宗は急に真面目な顔をしたかと思うと、いつきを教室から連れ出して、そのまま一緒にどこかへ行ってしまった。後を追うような真似は、蘭丸のプライドが許さなかった。 でも気になる。 これだけもんもんしたことは、蘭丸の人生の中でまったくと言っていいほどない。なにを一体自分がもんもんしているのか、それすらよく把握できていない始末だった。そしてそのもんもんは、翌日さらに増すことになるのである。 「蘭丸、おはよっ!」 と、先日とは打って変わって元気百倍な、いつきの姿があったからだ。というか、こんな風にいつきが蘭丸に挨拶するなんて、逆に気持ちが悪いほどなのである。周りからも「犬猿の仲」(あるいは某アニメーションの鼠と猫)と思われている蘭丸といつきだから、蘭丸のクラスメイトのかすがなんかも、珍しいものを見たといった風に、お前、なにかしたのか?などというとんちんかんな質問をしてきた程だった。蘭丸が、うるせー謙信先生バカと返して、かすがの怒りを買ったのは言うまでもない。 いつきの変わりように対する要因が、蘭丸には一つしか思い浮かばない。疑うまでもなく、政宗と何かあったのに違いない。しかしその具体的な内容を、一体どのようにしてつきとめたらいいのか、全くわからなかった。本人らに直接聞くという方法を取れるほど、蘭丸は素直なお子様ではなかった。 そんなわけで、いつも心に気持ち悪いもやもやしたものを抱えたまま夏休みを向かえ、新学期になると、またもやいつきは元気を無くした。それを蘭丸に何気なくポツリと呟いて、やはり蘭丸は何も言えずにいるうちに、またもやいつきはいつの間にか元気を取り戻すのである。その背後には、はやり担任の政宗の姿があった。というのは、たまにいつきと喋ると、あからさまに政宗の話題が多いから、嫌でもそう察する他なかったのである。そんなことが、なんだかんだで一年続いた。 そして二年の秋、やはりいつきは学級委員で、去年と違うのは、いつきも蘭丸も同じクラスで、政宗が担任だったことである。その頃になると、蘭丸は政宗への敵対心をそれと見て取れるほど、むき出しにしていた。 と言っても、授業をサボタージュするとか、宿題を出さないとか、表立った行動はその程度のもので、あとはひたすら政宗への態度が悪い。いわゆるちょい不良というやつで、もちろん政宗は注意をするが、他のどの生徒も、そういう蘭丸の行動を気に留めたりはしなかった。ただいつきだけは、学級委員として、「きちんと先生の言う事を聞くように」とうるさい。それが蘭丸は気に入らなかった。まるでいつきが政宗に心酔していて、それを自分に押し付けてくるように思えるのである。 それとは別に、いつきは以前よりも蘭丸と話すようになった。話題はやはり政宗のことで、もちろん蘭丸は気に入らなかったが、どれだけ蘭丸が鈍感だったとしても、さすがに気付かずにはいられない事実があった。 (…なんだこいつ、政宗のことが好きなんじゃねーか) 「政宗先生は人気あるんだぞ、おめえ、そんなことも知らないべ?そんでな、かすがのねーちゃんとも話してたんだけども、政宗先生ってどんなタイプが好きかって…」 ここまでくるとあからさますぎて、蘭丸は逆に、いつきがなにか自分を試しているのではないかと、訝ることもしばしばであったが、いつきには全く悪意はないらしく、そこがまた蘭丸をイライラさせた。このイライラに、もともと気の長い方ではない蘭丸が耐えられるはずもなく、むしろ今までよく我慢してきたものなのだが、ある日はずみで、 「ったくよお、そんなに好きなら告白すればいいじゃねーか。それでさっさとフられちまえよ!」 と言ってしまった。いつかと同じ帰り道、いつきが固まったのを見て、蘭丸は踏んではならない地雷を、なんなら踏み台の上からジャンプして着地してしまったことに気が付いたが、時は既に遅かった。 しかし蘭丸にも言い分はある。蘭丸の中では文章化するに至らない、むしろ至りたくはない感情ではあるが、要するに、なぜ好きな女の子が他の男について喜々として語るのを、聞き続けなければならないのか。そういうことであった。蘭丸がもんもんするのは、こういう風に思う自分を認めたくない、という気持ちも多分に入っている。 蘭丸の不幸なのは、この地雷が、いつきにとって同時に、恋する乙女のスイッチでもあったことだ。 「…そうだな、いつまでもこんなんじゃ、いけねえんだ。おら、自分の気持ち、先生に伝えたい。やっぱり蘭丸も、そう思うんだな?」 「はあ!?おまえ、ばっかじゃねーのか!?誰がそんなこと…」 「?今言ったでねーか。でも、ほんとにそう思うだよ。…うん、おら、思い切って言ってみる」 悔しいが、蘭丸、と言って真っ直ぐ見据えてくるいつきは、とびっきり可愛かった。いくら頭でかわいくねーよこんな女!と思ってみても、心臓がわかりやすく反応するのだから仕方なかった。 「おら、振られてもいい。とにかく、言ってみる。ありがとな」 ありがとな、なんて、一体何年ぶりに聞いた言葉だろうか。そんな感慨に浸る余裕があるはずもなく、蘭丸は自分の言葉が引き起こしてしまった思わぬ展開に、ただ、 「…うるせえバカ!振られろ!」 と言うしかなかった。その目には涙が浮んでいたかもしれない。 蘭丸はほとんど意に介していなかったのだが、その時は丁度テスト期間の真っ最中だった。にもかかわらず、いつきは宣言通り、事を実行したらしかった。テスト最終日、最後の教科が終わって皆が帰り支度を整える中、蘭丸が尋ねる前に、いつきは蘭丸の席の前に立った。ざわついている教室がやたら意識された。 「な、なんだよ」 目を合わせていられない。対照的に、いつきは真っ直ぐ蘭丸を見下ろしていた。 「先生な、おらのこと好きだって」 「え」 思わず顔をあげると、そこには晴れ晴れとしたいつきの顔があった。 (……あンの野郎ォ…!) 胸の底から、得体の知れない怒りが一気に湧き上がってきて、蘭丸は我知らず立ち上がって、教室を出て行こうとした。慌てて引き止めたのはもちろんいつきである。どこ行くだ!?と引っ張られながら言われて、 「あのクソ教師をぶん殴ってくるに決まってんだろ!ふざけんな離せ!」 「ふざけんなはそっちだ、バカ!もう!ちょっとこっち来てけれ!」 一体細腕のどこにそんな力があるのか、いつきはぐいぐい蘭丸を引っ張ると、空き教室に来て、大きな溜息を吐いた。そして、キョロキョロ辺りを見回して人が来ないことを確認すると、ぐっと蘭丸に顔を近づけた。文句を言おうと思っていた蘭丸に有無を言わせない力があった。 「蘭丸のお望み通り、おら振られちまったんだよ。勘違いすんな!」 「かっ…。勘違いするような言い方したのはそっちじゃねーか!まぎらわしいんだよ!」 「人の話しを最後まで聞かねえから悪いんだべ!?あんな、先生は…」 と、ここでいつきは一旦息を吐くと、声を落とした。 「おらのこと好きだって、言ってくれた。妹みたいに好きだって。けど、先生と生徒って枠を取り払ったとしても、…おらと付き合うことはできね、て。ごめんな、て」 「…なんだよ、普通に断られたんじゃねーか…。…泣いたりとかしたのか?」 「うん。…ちょっとな」 しかしいつきは微笑んでいる。蘭丸にはそれが不思議で仕方ないのと同時に、なぜいつきがこのことを自分に話すのか、それも不思議だった。自分はいつきと、仲が悪いのではなかったか。お互い「なんだこいつ」と、思っていたのではなかったか。 そういう気持ちがいつしか変化していたのは、自分だけではなかったか。いつきが振られて心底ほっとしている自分がいる。いつきを好きだとかほざく政宗を殴りたいと思う。しかし、いつきと付き合えないと言っていつきを泣かした政宗も、やはり殴りたい。 蘭丸は俯いた。いつきがちょっと笑って、蘭丸の頬を軽く叩いた。 「おめーが泣くことねえべ」 「泣いてねーよ勘違いすんなクソ女」 「おら満足してるだよ。最初から、全然望みなんかないと思ってたけど、でも、自分の気持ち言えてよかった。先生に迷惑かけたけど、避けられなくてよかった。きちんと受け止めてくれて、よかった」 途中からいつきの声は震えていた。頬を叩く手がするする下がって、蘭丸の胸のあたりを掴んだ。その手もやはり震えていた。涙を大きな瞳いっぱいに溜めたいつきを、蘭丸は抱きしめてやりたくなって、そうしようと手を伸ばして、でもやめた。 それからしばらく、いつきは蘭丸の胸に頭を押し付けて、声を殺して泣いた。 冬休みの少し前、蘭丸は突然クラスメイトの猿飛佐助に絡まれた。いつも通りのへらへらした笑顔を浮かべた佐助は、なれなれしく蘭丸の席の向かいに座った。 「なんだよバカ猿」 蘭丸の口が誰よりも悪いのは周知の事実であるので大して気にもせずに、佐助は、あのね、ちょっと聞きたいことがあんだけどさ、と言った。蘭丸は、こういう柳に風のような手ごたえのなさが嫌いで、普段滅多に佐助を相手にしない。佐助といつも一緒にいる幸村のほうが、なんにでもすぐに反応するのでおもしろい。だがその時幸村はいなかった。 「蘭丸くんってさあ、委員長と付き合ってんの?」 委員長、とは無論いつきのことである。痛いところを突かれて、佐助のへらへら顔が急に憎らしくなった。 「誰があんな時代遅れのツインテールと付き合うかよ、バーカ!どこに目ェつけてんだ?」 と言って、さっさとその場を離れようとした。しかし腕を掴まれて阻止され、ますます蘭丸はイライラした。まあまあ座んなよ、どっかの風紀委員じゃあるまいし、カルシウム足りてないんじゃないの?という文句で、ますます苛立ちが増長された。それを知ってか知らずか、蘭丸を席につかせた佐助はさらに聞く。 「二人仲いーじゃん?付き合ってないにしてもさ、蘭丸くんは好きなんじゃないの、委員長のこと」 「…だからふざけんなって…」 これ以上佐助の相手なんかしていられるか、と思って再び席を立とうとして、蘭丸はふとあることに気が付いた。そういえば佐助はここのところ、やたら政宗とつるんでいる。この前も、食堂で佐助と幸村が政宗と一緒にいるところをたまたま目撃した。 「…お前もしかして、せんこーのまわしモンかよ」 「…せんこーのまわしモンてまた古風な…。え?なにが?そんなんじゃないよ?」 「…本当かあ?お前うさんくさいから、怪しい」 もしかして佐助は、政宗にいつきの様子を探るよう頼まれたのかもしれない。そうは思っても、佐助が本当になにも知らないのなら、迂闊なことは言えない。蘭丸は口を閉じて佐助を睨んだ。 どちらもなにも言い出さないうちに予鈴が鳴り、佐助は適当に礼を言って席に戻った。 「変な奴…」 本当のところを追求してやりたいが、佐助はあれでなかなか骨の折れる相手だと知っているので、やはり捨て置くほうがいいだろうと思った。いつきが政宗に告白した事実は殊勝なことに、蘭丸の胸の内にしまわれたままであった。 (付き合ってんのか、って。バカにしてんのかァ?) 次は英語なので、政宗が教室に入ってきた。蘭丸の机の上に用意があるはずもなかった。 その日の放課後、蘭丸は校外近くの教会の前にいた。しばらくすると、いつきが走ってやってきた。 「蘭丸!ごめん、委員会の集りあったの忘れてただ!」 「うるせーバカ!遅いんだよ!」 「だからごめんって言ってるべ!バカって言うのやめれ!」 こんな応酬は、これまでと何も変わらない。蘭丸は舌打ちをして、さっさと歩き出した。いつきはそれに並んだ。あれ以来変わったことといえば、下校時に待ち合わせをするようになったこと、それくらいだ。 (……まだ、付き合って、ねーよ。アホ猿) いつきに、佐助がもしかしたら政宗に言われて探りを入れたのかもしれない、と話すと、きょとんとした顔をされた。というよりは、話しをよく飲み込めていない顔だ。 「先生はんなことしねーだよ」 「わかんねーだろ」 「しねーよ、先生はそんな人じゃねえだよ」 その全面肯定が気に入るわけはないのだが、そこはなんとか余裕を持って、ぐっと堪えたあたり、蘭丸もちょっぴり大人になった。いつきが政宗を諦めたことは、よく知っているのだ。蘭丸はいつきの鞄を持つ手をちらりと見た。いつかはわからないが、政宗が握らなかったこの手を、自分が握るのだ。 (へっ、バーカ) そのうち話題にも上らせないようにしてやる、振ったことを後悔しろ、と蘭丸らしい卑屈さで考えた。 「そういえばさるとびも最近、ようやく先生のよさに気付いたみてえでな」 いつきはふと思い出したように言った。 「はあ?」 「おら、先生が好きだから、先生を好きな人のこともわかるだよ。さるとびは、先生が好きなんだ」 「なんだそれ、気持ちわる」 「そうだな、気持ち悪い時代遅れのツインテールで悪かったな」 「え」 恐る恐る見たいつきの顔は、世にも恐ろしかった。汗が吹き出た。 「おま…知らない振りして、しっかり聞いて…」 「同じクラスであんだけ大声で喋って聞こえてないとでも思っただか?…このバカ!!」 ここに一人不幸な少年がいた。その少年の痛ましい叫び声(女って怖ェェェェ!!)は、学校の職員室にいる政宗先生にまで届いたとかいう話しである。 |