佐助はその日、慶次と幸村を引きつれ近所のレストランで食事をしていた。
 ちなみに幸村は慶次があまり好きではない。なぜと聞けば、どうもあやつの顔を見ていると眉間に皺が寄ってくるというか鳩尾の下のあたりがむずむずするというか一発殴りたくなってくるというか、とつらつら返ってくる。確たる理由は無いらしい。
 佐助はと言えば慶次はバカだと思っているが、好感は持っているのでよくつるむ。
 慶次自身、幸村に嫌われているという自覚はあるらしい。あるらしいが、今回の誘いに「ああ、前言ってたやつ?ありがと奢って!」と軽い返事をしたあたり、だからどうこうという気もないらしい。
 その慶次が、注文した鶏肉の照り焼きにフォークをぶすっと刺し、覚悟を決めたように言った。
「で、その後どうなの?」
「なにが?」
 わかってはいても、こういう話題には素直になりたくないのが人間である。
 その後、半年経っていた。佐助らは無事三年生に進級し、(こっそり聞いてみたところ、幸村は職員会議に引っかかったりとかはしなかったそうだ)クラスは佐助だけ別れてしまった。幸村と慶次は同じクラスで、担任は引き続き政宗先生である。ちなみに佐助の担任は前田まつ先生だ。
 佐助が今回二人を引き合わせて誘ったのも、一つには、佐助抜きで幸村と慶次が少しは仲良くなっただろうかという淡い期待を抱いていたからなのだが、人間関係はそうそう変わるものでもないらしい。幸村はさっきから無言でオムライスをもぐもぐ食べている。
 慶次はなにがじゃないよ、と言いたげな目をらんらんと輝かせている。慶次にしてみれば、この半年黙っていただけでも上々である。で、もう聞いてもいいよね?ということらしい。
「どうって言われてもね〜…」
 さらにはぐらかすと、慶次は肉が刺さったままのフォークを佐助に突き出し、なぜか、
「はい、あーん」
 と言った。戸惑う佐助の横から代わりに肉を丸々頬張ってしまったのはもちろん幸村である。もぐもぐ鶏肉を咀嚼する幸村は無表情だが、佐助はそこで、なんだかんだ言って二人はある程度近しくなれたのだろうかと思った。
 慶次を見やれば、食べたね?と、妙にあくどい顔をしていたが、甘い顔には酷く釣りあわない。
「真田の旦那がね」
「幸村は佐助が面倒見てるんだろ、つまり幸村が食べたのは佐助が食べたのも同じだよ」
 なにその理屈?どっちにしたってソレ俺が金払ってるでしょ?と佐助がこまごま言うので、慶次の長いようで短い堪忍袋の緒が切れたらしく、
「佐助が吐かないんなら、俺が先生に直接ゆっくりじっくり聞くまでなんだけど、どっちがいいかなあ!」
 と叫んだ。なんだか若干怒っている。ばかだなあ、俺が言わないからって先生が吐くわけないじゃん、と心中では思いながらも、慶次が最近武田高校のマドンナの一人だったOGの、木下ねねに告白して振られたとかなんとかいう噂を思い出し、若干哀れになってしまったので、わかったわかったと言って宥めた。
 どうも世の中、なかなかうまくはいかないらしい。

 その週の日曜日のことである。梅雨前線も絶好調で、しとしと雨が降り続ける昼、佐助は政宗の自宅にお邪魔していた。
「……それで延々ノロケてたのか、慶次相手に」
「成り行きでね。だってしょうがないじゃん、下手を打ってバラされてもつまんないし」
 政宗はキッチンに立って昼食を作っている最中であった。佐助はテレビを見ながら大人しく料理が出来上がるのを待っていたのだが、不意に思い出してレストランでのことを話したのである。が、どうやら会話は終了してしまったらしい。政宗は手際よく調理を進めている。
 しばらくすると、それはもうたまらなくいい匂いがキッチンから漂ってきたので、佐助はふらふらと誘われるように政宗の後ろから手元を覗き込んだ。パスタらしいのだが、ソースが本格的なものである。政宗宅を訪れると大概手料理を振舞ってくれる。どうやら和洋中なんでもござれらしい。料理上手を自負する佐助も、さすがに敵う気がしない。最近はイタリア料理にも御執心らしいのだ。
 何の気無しに覗いていたのだが、真後ろに立たれて政宗は気になったようだった。
「邪魔だ」
 と、軽くあしらわれる。別にいつものことで、なんら悪意のないことを佐助はよく知っている。というか、学校外では気遣いをしなくていいぶん、余計に素が出るらしい。なんか特別っぽくて嬉しいよねー、というのは、レストランでの佐助の弁だ。(アハハそうだね、死ねよ!とその後慶次に言われる)
 邪魔だと言われればいつも佐助は素直に戻るのだが、今日に限って、動こうとしなかった。それを訝ったのだろう、おい?と政宗は振り返った。
「……んで、さ、いろいろ聞かれたんだけど」
「……あ?……ああ」
 先ほどの話題の続きらしい。佐助が一歩踏み出したので、政宗は自然キッチンに寄りかかる形になった。おい、とまた呼びかけるが、返事はない。気付くと佐助はいつの間にか政宗のエプロンの端っこを握り締めていた。この時つい政宗は身体を硬直させてしまったのだが、その手がそれ以上動くことはなかった。
 ものすごく気まずい雰囲気がしばし空間を支配した。打ち破ったのは焦げた臭いだった。
「ソース!!」
 と叫んだのは、どちらか。どちらにせよ佐助はこの後ゲンコツを食らった。

 で、もうしたの?という簡潔な質問は、もちろん慶次が発したものだった。佐助は素で、なにを?と返してしまったが、すぐにその言葉の意味に気付くと、蛙が潰れたような声が喉から出た。数秒遅れて幸村が立ち上がり、「破廉恥であるぞ!!」と大声で叫んだところを、「おめーがな」という慶次の冷静なツッコミが制した。
 レストランと言っても、ごくごくありふれたファミレスだ。どうにも周りの目が厳しいというか申し訳ない気分になったので、三人はカラオケへ場所を移した。
 意外なのは幸村の反応の方だった。移動中しばらく考え込んでいたかと思ったら、誰も歌おうとしないボックスの中で、腕組をはずし、そもそもどうやるのだ、と尋ねたのである。
「どうってあんたね」
「男同士であろう」
「あー、やっぱそういう問題か」
 慶次はうーんと唸った。もうしたのか、イエスかノーかと言われれば、ノーだ。というかそもそも佐助の頭には、「する」という選択肢が存在しなかった。女相手なら勝手はわからないでもないものの、さしもの佐助も男相手というのは初めての経験だからだ。
 というか、付き合えるという状態の幸せをこれ以上ないくらい噛み締め続け半年経つ佐助に、そのような余裕があるはずもないのだ。その点では男同士とかいう以前の問題である。
「いやまあどうやるのかってのは確かにあるけど」
「上とか下とか?」
 と慶次が言い出せば、あとは高校生らしく憶測とささやかな実体験の篭った猥談へと話は展開されて行った。ただし二分に一回は幸村が破廉恥じゃあああああと叫ぶので、そのたびいちいち二人してうっせーよ!!と怒鳴らねばならなかった。
 ひとしきり表立っては言えない話が終わると、いや、でもね、と佐助が頭を抱えながら言った。
「俺がそこまで考え至らないってのは大いにあると思うんだけどさ、その、なんてーか、先生の方がどうか、ってのもあるじゃん。なんだかんだ言っても先生のが年上なわけだし、ほら」
「……先生が佐助に手を出してこないってこと?いーじゃんそんなの、逆に先生が待ってたとしたらお前ら一生この状態なんじゃないの?なあ幸村」
 急に振られた幸村は、破廉恥じゃと言うのをなんとか堪えたらしい。ぐっと飲み込み、顎に手をやってなにやら考えている。幸村がこんな風に考え込むと、大抵さっきみたいな突拍子もないことを言うのだ。
「……佐助に魅力が足りぬのではないか?」
 二人が固まったのは言うまでもない。

 パスタはそれはもうとんでもなくおいしかった。先生はいっそ退職して料理屋を開けばいい、と思うほどである。しかしその幸せな味に反比例して、空気はこれ以上なく気まずかった。どちらも何も喋ろうとしない。ブラウン管からの不自然なほどの笑い声だけが、部屋を支配している。佐助はまずったと思った。
 政宗と小十郎は、同じマンションに住んでいるが、今日はどうやら政宗の父親の会社の方に呼ばれて部屋を空けているらしい。
 最初政宗が佐助を自宅に入れようとした時の小十郎の苦々しい顔は、今でも鮮明に覚えている。一体二人の仲を認めているんだかいないんだかよくわからない辺りは、一昔前の頑固親父を彷彿とさせた。そんじゃあ俺は「先生を俺にください!」って叫んで、殴られればいいのか、と変な妄想をしたのも懐かしい。
 そのことさえなければ、小十郎はとても頼りになる。常識の無い人間ばかりが集った武田高校では唯一まともというか、普段の事務室は佐助にとって憩いの場なのだ。(どうせすぐに元親がやってきて鍵探しに終始することにはなるのだが)
 つまりは今、佐助はとてつもなく小十郎と言う名の潤滑油が欲しかった。この気まずい雰囲気を、小十郎ならなんとかしてくれるはずだった。
 ついに沈黙を破ったのは政宗だった。
「夏休みにな、旅行に行こうかと思ってんだよ。知り合いが経営してる旅館が京都にあってな」
 ああ、普通の話題だ。よかった!と思った途端、さっきまでの空気が嘘のように晴れた。
「へー、京都…。中学の修学旅行以来行ってないなあ。いいなー。俺も連れてってよ」
「教員責任が発生するから嫌だ」
 にべも無い。ああ、なるほど…と肩を落とした佐助は、パスタの最後の一口をくるくるまきつけて頬張った。やっぱりおいしいものはおいしい。もぐもぐやっているとまた政宗が口を開く。
「どうしても行きてえか?」
 佐助はぱっと顔をあげた。政宗が軽く小首を傾げている。なんだか蠱惑的であった。頷いた。行きたくないわけがない。でも嫌なんでしょ、とちょっと意地悪く言ってやる。政宗はにやりと笑った。
「出先で偶然会った、てならまあ何かあっても言い逃れできんだろ」
 現地集合ですか。佐助が了解、と笑うと、政宗は何を思ったのかパスタを巻きつけたフォークを佐助に差し出した。最後の一口らしいが、おそるおそる佐助は食べる。続いて、How was my cooking?と流暢に言われた。佐助は、咄嗟にdelicious以外の単語を考えた。
「Fascinating.」
 ふうん?と政宗が笑ったのは、随分上達した発音にか、言葉にだったのか、佐助にはわからなかった。

 それだ!!と、慶次がいつも以上に生き生きと声を張り上げたのは、居酒屋「幸」のカウンター席であった。と言っても、その日は定休日なので、他に人はいない。佐助と幸村がテーブル席で、慶次を眺めているのみである。幸村は部活帰りなので、佐助の握った山積みのおにぎりをハイペースで消費しているところであった。慶次は柔道部に、練習試合の助っ人として呼ばれていたらしく、ジャージ姿だ。同じくおにぎりを頬張っている。
 なぜ「幸」に三人が集っているのかと言えば、例の如く幸村の父昌幸さんらが家を空けているので、信幸の世話になるためやってきたのだ。信幸は店の二階を住まいにしている。
 余分がいるのは、慶次が一度「幸」に行って見たいとかなんとか駄々を捏ねたからだが、佐助はこの日丁度仕入れの手伝いをしに来ていたので、二人の世話をする羽目になったのだった。テーブルにはおにぎりの他に、山芋の煮付けと牛蒡サラダが乗っかっていた。こちらは店の残り物だ。
 そんな佐助はちょっとイラっとした。声のでかさに、である。
「だからいちいち声がでかいんだってば!上に信幸さんがいんのわかってんの!?」
「はふへもうるはい」
 口一杯にご飯を詰め込んだ幸村は、佐助もうるさい、と至極的確なことを言ったらしかった。
 慶次が椅子を降りて、佐助の横へ座る。一応小声にする気遣いを覚えたらしく、だってさ、と言う。
「『何かあっても言い逃れできる』なんて言い回しさ、先生ならしそうじゃん。つまり俺はオッケーだぜってことなんだよ!ここで決めなきゃ男じゃねーよ佐助!夏休みなんてすぐじゃん、頑張れよ!」
 理屈はわかるが、佐助はうかと頷けない。政宗からそんなニュアンスは感じられなかったのだ。
「……つーかオッケーって言われても、……どうやって」
 そのへんの段になると、以前さんざ話し合っただけに慶次も言葉を詰まらせ、幸村をちらりと見やったが、まさか妥当な答えを期待できるわけもない。慶次はおにぎりを一つ手に取り、頬張った。
「俺もどうやって、とか悩みてえー」
 あ、こいつ本音言いやがった、と佐助は思った。元来面倒臭いことがなにより嫌いな佐助は、なんだかなにもかもどうでもよくなってきて、冗談半分に、俺って魅力ないのかなあーと呟いた。以前幸村が放ったわけのわからない一言を踏まえてである。慶次が割り箸を取り出して、牛蒡サラダをぱくぱく口に放った。
「先生って釣った魚に餌やらないタイプなのかな?」
「……人を魚呼ばわりしないでくれる?えー、別にそんなことないよー、バレるとアレだからあんま外では会わないけど、結構プレゼントとかくれるしさー。むしろ俺のがなんにもしてないくらいだよ」
 ほらこれも、と言ってぷらぷらさせた腕には、シンプルなシルバーのブレスレットがつけられていた。政宗にもらったらしい。よもやお揃いだったりはしないだろうな、と慶次がちらっと思ったのは内緒である。
「つかさ、俺佐助が先生のこと好きなのはわかるよ。俺だって先生のことは好きだしさ、生徒にだって人気抜群じゃんあの人。でも先生がなんで佐助を好きなのかはわっかんねーんだよなー」
「……慶次」
 と、低い声で言ったのは幸村である。幼馴染としての勘が働いたのであろう。それはこれまで佐助が敢えて考えないようにしてきた点なのだ。
 ちょっと失礼、と言って信幸さんが二階から降りてきた。前田くんはそろそろ帰ったほうがいいんじゃない?もういい時間だよ、と優しく窘める。はあい、すぐ帰ります、と素直に返事した慶次はしかし、狼狽を隠しきれなかった。佐助がテーブルに突っ伏したままぴくりともしなかったからである。

 テスト期間に入ると、さすがになかなか忙しく、政宗と会うこともままならなくなった。クラスも違うし、英語の授業で顔は見れど怪しまれるのを恐れて、話すことは以前からしなくなっていた。
 そういえば受験生なんだよなあ、と佐助はぼんやり思う。普通に考えたら、旅行などに現を抜かしている場合ではないのだが、武田高校は一応ある有名大学の系列なので、大量に推薦枠を持っている。つまり佐助はこれまでの成績が上々なので、今回の期末さえこけなければ、面接と小論文のみで、それこそ政宗の言うとおり、「いいとこ」に進学できるはずである。
 佐助は佐助なりに色々考えた結果、とある外国語大学への進学を目指すことにしていた。武田高校の姉妹校で、地元から通える距離だし、抱える外国人教師も多い。
 まあ自分にしては上等な進路だろう、と思う。政宗とも相談し、どうやらもうワンランク上へ政宗は行かせたいらしいのだが、それだとどうしても他県へ出なければならないので、佐助は笑って冗談半分に言ったものだ。先生と会えなくなっちゃうじゃん?と。
 テストを明日に控えた夜、勉強を終えた佐助は、ベッドに寝転がって考えていた。例えばどうだろう、その台詞を、先生が言ったとしたら、と。
「…………悲しいくらいあり得ないなあ。先生なら多分、俺の意見尊重するだろうしね……」
 そうか、よしよし、行け!と豪快に笑って言いそうなものである。
(どうしてそう思う?……生徒だから、だよなあ。好きだから、じゃなくて)
 自信は最初から無い。あったことなど無い。今だって、信じられないくらいなのだ。あの伊達政宗先生が、俺と?冗談だろ?くらいなものだった。だから毎週日曜に会って、手料理を食べて、学校よりは近い距離で話をして、それで、それ以上はないくらい幸せなのだ。だから多分、キスの一つもしようと思わない。
 なんだかなあ、と思考を移ろわせながら寝返りを打つと、携帯が鳴った。びっくりする。慌てて手に取ると、政宗からのメールであった。タイムリーすぎて困る。
『件名:(non title) 本文:今週は会えるんだろ?』
「うあああ………むっ、無理無理無理!!やっぱ無理!俺には無理!!」
 佐助は携帯を放り出して、顔を掌で押さえつけ、しばらく布団の上に蹲っていた。今こそ慶次に叫びやりたい気分である。下手に餌なんか与えられたら死ぬ!と。

 夏休みの終わり頃、佐助は再び慶次と幸村と、カラオケボックスにいた。
 佐助は無事政宗との旅行を終え、その報告会なのだろう、と慶次は認識している。幸村は今回歌う気らしく、ぱらぱらとメニューを捲っていた。
 ごくりと生唾を飲み込み、慶次はおそるおそる切り出した。
「……で、どうだった?」
 佐助は無表情であった。妙な沈黙が落ちたせいか、幸村も顔をあげて、佐助をまじまじ見つめた。
「俺は」
 ボックス内には流行歌が流れている。恋しちゃったんだ、多分気付いてないでしょ?てなもんである。
「大切なこと、忘れてた……」

 京都は盆地なので、夏の暑さが半端ではない、というのを佐助は忘れていた。京都駅構内から一歩出ると、身体中がじゅっと音を立てて焼けるような気がした。
「うおおお……半端ねえ……。先生、これは無理っす……」
 と、独り言をぼやいて、すごすご構内へ戻ってしまうほどである。しかしさすがに年がら年中観光地として賑わっているだけあって、人手はなかなかである。待ち合わせ場所である改札口でしばらく待っていると、こちらも汗だくになっている政宗が現れた。ほっとする。
「暑い」
「……なんで京都にしたかなあ?」
「……ああわかった、嫌がらせだ。俺の知り合いな、竹中ってんだが……。今回無料で泊めてやるとかなんとかほざきやがったんで話を受けてやったんだが、……ああそう、そういう魂胆か……Ha,上等……」
「……あの、怖いんですけど……」
 愚痴っていても仕方がないので、二人はバスで移動し、京都駅の近場を適当に観光した。たまらなく暑いということを除けば、そこは風情ある京の都なので、見ごたえはなかなかである。特に佐助は久し振りの京都とあって、定番の清水寺に行っても、へーとかほーとか言いながら、割合楽しんだようだ。
「あ、ねえ先生、写真撮ろうよ写真。俺デジカメ持って来たから、ほら。あ、すみません、シャッターお願いしまーす。うん、そのまま押してくれれば。ほらほら先生、清水の舞台だから」
 と言って政宗の腕をぐいぐい引っ張り、並んで写真を撮ったりした。わけわかんねーなお前、という政宗の呟きはさらっと無視だ。
「先生、お土産は?」
「ああ、明日買う。親族連中がうるせーからな。今日のところはもう宿に行く」
 ということは、明日一気に高級品を大量に買い込むつもりなのだろう、と佐助は直感した。
 これは大体一月頃にわかったことなのだが、政宗は佐助には信じられないような買い物の仕方をする。一つに値段を見ない。しかも政宗の眼力はすさまじいもので、大概手に取ったものはその場で最高級の品なのだ。(値段と質が比例しないという例はごくまれにあるとしても、だ)
 公職に就く人間の一体どこにそんな金があるのだか知らないが、とにかく去年の大晦日、買出しに付き合うかと言われてひょこひょこ着いていった佐助が目にしたものはそれだけすさまじかった。
 そんなわけで普通に京都を満喫した後、二人はタクシーで宿へ向かった。
 宿はわりと山の中にあり、静かで落ち着いた雰囲気の、穴場らしかった。が、看板を見て佐助はちょっと首を傾げた。店名、おかしくないか。『時間』て、どういうセンスなのだ、と。尋ねると、女将に聞け、と言われた。それじゃあさっそく聞いてみようと玄関へ入った瞬間、その気は挫かれた。
 出迎えてくれたのは、白髪だが、まだ若く見目麗しい人だった。紫を基調にした落ち着いた模様の着物が細身にとてもよく似合っている。見るからに完璧な女将だった。
 どう見ても性別が男である、ということを除けば。
「……相変わらずじゃねェか竹中」
「いらっしゃい政宗くん。暑い中ご苦労だったね。おや、何を殺気立っているのかな?怖いからやめてくれないか?言っとくけど夏の京都が暑いのは今にはじまったことじゃないからね。君の調査不足だ。ああ、君が例の教え子さんだね。話は聞いてるよ、我が家だと思って心置きなく寛いでくれたまえ」
 そうさせてもらう、と答えた政宗は勝手知ったる様子で、荷物も預けずにどんどん奥へ入っていってしまうので、佐助は慌てて後を追った。が、後ろに置いてきた竹中さんが気になりすぎて困った。男のくせして女物が似合いすぎているのが怖い。
「ちょ、ちょ、先生!ぎぶみー…ぎぶみーえくすぷれいん…!」
「No way. あいつはいつもああだ」
「いや、まあ確かに明確に説明してもらっても恐怖しか生み出さない気もするけど…!」
 女将が女装の男性とは、一体どこの層を狙ってるんだろうかと、佐助は寒い思いをした。幸いなのは、どうやら政宗がそんなに竹中さんと仲が良いわけでもないらしいことだ。
 どすどす音を立てて廊下を迷わず歩いて行く政宗は、どうやらいつの間にか鍵をもらったらしい。着いたのはまた奇妙な名前をした部屋であった。
「………なに、『仮面の間』、て」
「あいつは客に京の風情を味わわせようという気が一ミリたりともねえんだよ。安心しろ、部屋は普通だから」
 竹でできた引き戸を開けると、空調が効いているらしくひんやりした空気が足元をさっと撫ぜた。すぐ目の前に丸窓を配した壁があり、奥が見えないようになっているあたり、確かになかなかの部屋らしい。奥は通常の旅館と変わらず、テレビ、冷蔵庫、金庫、テーブルに湯のみセットが置いてあり、一番奥の大窓からは京の都が見下ろせた。
「うわ、すっご!ちょっと、先生、見てよすごいよ」
 佐助は荷物を置くと誘われるように窓辺から風景を眺めた。右手に西日が沈むのが見え、都は茜色に照らされている。絶景、である。
「ああ、すげえな」
 と、存外素直に答えた政宗に違和感を感じた。部屋の様子を知っていたくらいだ、きっとここには何度も訪れているはずなのだから、そこは「すげえだろ?」じゃないのか。佐助は隣で同じように景色を眺める政宗をちらりと見た。それにすぐ気付いて、政宗も佐助を見る。その顔が、夕日に照らされてのみではないだろう、今まで数度しか見たことないほど柔らかで、佐助は息を飲んだ。
 首元に汗がたらりと垂れたのが気に触り、佐助は政宗から目を逸らして襟元を引っ張り、拭った。
(そんな顔され、ちゃ、あ……!!)
 心臓がばくばく音を立ててうるさい。が、いっそのこと清々しいくらいここは日常生活から隔離された空間なわけで、邪魔は一切入らない。正真正銘の、二人っきりであった。
 荷物片付けるね!と言って体を翻し、佐助はてきぱきと荷物を備え付けの戸へ移動させた。
 佐助とて、そんな簡単なことがわかっていなかったわけではない。二人っきりで夜を越すということくらい、百も承知で今回の旅行に付いて来たのだ。もちろん慶次が言っていたことなど、ほとんど冗談くらいにしか受け取っていない。肝心の佐助自身に、先生をどうこうという気がなかったからだ。なかったし、佐助としては政宗と長い時間一緒にいられるというだけで大満足なのだ。
(の、はずなんですけど……)
 それは多少、もうすこし政宗と近しくなりたい、という気はないわけではない。いつかの日曜日の自分でも不可解だった行動は、慶次の言葉に触発されてであろう。(結局エプロンの端っこを握ってぶんなぐられて終わったわけだが)
(ああ、やばい、俺、今……)
 と思って、胸元あたりでシャツをぎゅっと握り締めると、真上から政宗がおい、と覗き込んできた。手を柱にひっかけて、身体を前のめりにさせているらしい。荷物を移動させ終わったくせに、佐助が動こうとしなかったので不審に思ったのだろう。佐助はヒイ!と声をあげて、思わず腰を抜かした。頭が政宗の膝にゴツ、と当たる。
「……なにやってんだ」
「そ、そっちこそ…!」
「お前、今日はやたらはしゃぐなあ、珍しい。……そんなに京都来たかったのか?ホレ、」
 二の句を継がせず、政宗が佐助に放ったのは浴衣とお風呂セットだった。政宗もちゃっかり小脇に抱えている。ので、すぐに合点がいった。
「……もしかして温泉ですか?」
「もしかして温泉だ。露天じゃねえけどな。あんだけ外歩き回って体中汗でべとべとだろうが。飯の前に流しちまおうぜ」
 呆然としていると、政宗は蹲踞(いわゆるうんこ座りだ)で座り込み、佐助の頭をぐしゃぐしゃかき回した。うわ、うわ、と戸惑っていると、ほらみろ髪までべとべとじゃねーか、と言われる。
「もお、やめてよ!大体そんなの先生だって」
 何を意地になったのか、佐助も負けじと政宗の髪に手を突っ込んだ。予想外にひんやりしていたのは、汗が冷房に冷やされたせいだろう。しかしまだ地肌は汗ばんでいる。政宗の前髪は、佐助が突っ込んだ方、右側だけ微妙に長い。眼帯を目立たなくさせるためだろう。
(……なんか邪魔そう……)
 と思い、佐助は政宗の前髪を掻き分け、額を露にさせた。眼帯と、形のいい眉がはっきり目に映る。その予想外の行動に、佐助の髪をいいようにしていた政宗は、ぴたりと動きを止めた。佐助の手は、前髪を撫でつけ続ける。そのうち、右手も伸びた。お互いがお互いの髪に手をかけている、変な状態であった。
 佐助が、なんらかの意図を持って髪をいじっているのだと政宗が気付いたと同時に、佐助の手は離れた。
「できた、七三…うわー、先生ってほんとこういうの似合わねー…」
 思わず笑いが漏れ、佐助はその場に蹲って肩を震わせた。自分がやったこととはいえ、なにせとびっきり似合わないのだから仕方ない。汗がワックス代わりになって、政宗の髪はぴっちり七三にセットされてしまった。
 思う存分笑っていると、再び頭を引っつかまれた。両手で髪を二房にまとめられ、顔をぐいっと持ち上げられる。ツインテール状態だ。まともにかち合った顔はやはり凶悪に笑んでいる。
「おーおー、元気だねえ、my sweet student」
 ぶはっとお互い噴出す頃には、もう鼓動は収まっていた。

「そんで風呂入ったんだけど、細かい事は置いといて、まあ公共の場だし逆に冷静になれました。おじーさんが多かったしね」
 ここまでを簡潔に話した佐助は、慶次が非常に微妙な顔をしていることに気がついた。まるで昔可愛くて好きだった女の子が同窓会にやってくると聞いてうきうきしていたのに、実際会ってみたらなんともひどい有様で軽く絶望してしまった、そんな顔だ。
「……慶次、どうかした?あ、いやまあ、ここまでは確かにただのノロケかもしんないごめん」
 いや、どうも違う、と言ったのは、おつまみのフライドポテトを咥えたまま、じっと慶次を観察していた幸村だ。
「その竹中という男の話、俺は一度慶次から聞いたことがある」
「ええ!?なに、知り合い!?」
 驚く佐助に、慶次はやや俯き加減になりながら、普段の明るい声からは想像もつかない低い声で、ぼそぼそと呟きはじめた。半兵衛は、と。どうやら竹中さんの名前らしい。
「……半兵衛は俺の叔父の上司の元部下の親友で昔この辺りに住んでた」
「え?慶次の叔父って体育の前田先生だよね?その上司って学年主任の織田先生?の元部下ってもしかして数年前に武田高校とソリが合わなくて独立して私立高校新設しちゃった秀吉先生のこと?」
「さすが佐助、ぬかりないな」
 なぜか幸村は得意気である。幼馴染のリサーチ能力はそのまま幸村の自慢らしい。親切に解説してくれた佐助に、慶次はこくりと頷いた。その親友が、一体どうしたというのか。
「で、もう大分前の話になるんだけど、俺は飲み会でうちに集った利と信長先生、それに秀吉が喋ってるところに、にたまたま顔を出した。まだ子供の頃だよ。……その時、半兵衛もその場にいたんだよ。俺は半兵衛は初めてだったもんだから、普通に挨拶した。そしたら半兵衛は俺に土産だっつって、あるものをくれた」
「あるもの?」
「エロ本」
 大真面目な顔をして言うので、さすがの幸村も例の文句を言い忘れたようだった。きょとんとした幼馴染同士二人は、二人同時にぎょっとした。慶次が手にしていたグラスを、握力のまま見事に割ったのだ。
「あいつはなあ!!俺の幼心を弄んだんだよ!ああ見たさ!俺は見たよ!そりゃあ興味津々に決まってんだろ!ただそのエロ本は厳重にビニールでまかれてるもんだから、簡単に中を見れやしねえ!そんで鋏探すよな!?ねえよ、ねえんだよどこにも!普段はどこにでも転がってる気がするのにそういう時に限ってどこにもねーんだよ!まあこれは半兵衛が予め隠しておいたんだけどな!ちくしょう死ねあの野郎!まつ姉ちゃんに鋏のある場所を聞けもしないし、仕方ないから俺は歯でビニールを食い破って、そりゃもう小さな胸を高鳴らせながらページを捲ったよ!ああ捲ったさ!けどそこにあったのは胸のでかくて腰のくびれたねーちゃんでもなんでもなく、丸裸同然の筋肉質なおっさんだよ!!あいつはいたいけな子供だった俺にトラウマを植え付けて高らかに笑いながら帰っていったよ!あっはっは、そうかあいつ今京都で女将さんかーあ!はっは、ふざけんな!今でも客にトラウマこさえてるってわけか!!」
「……要するにタチの悪い悪戯が好き、ってこと、ね…納得……」
 全てを言い切ったらしく、いつの間にか立ち上がって拳を振り上げていた慶次は空気が抜けるようにソファにへたりこんだ。そのおっさんの顔がな、ザビーおじさんにそっくりなんだよ…と、か細く呟きながら。
「……旦那、慶次が復活するまで一曲歌ってな」
「……心得た。『与作』でいいか」
「好きにしてください」
 しばらくボックス内には、幸村の拳の効いた与作が流れた。へいへいほー。

 あれっ、なんかおかしい、と佐助は感じていた。なにがおかしいかというと、浴場で政宗の裸を見ても全然平気だったし、普通に「いいお湯だねー」「そうだな」「生き返るよねー、普段の疲れが流れ出るってこういうこと」「じじくせェなあ」とか、和みモードでしゃべっていたのに、今になって、
(浴衣、って、なんか、えーと……やばいんじゃないかなあ……)
 とか思っているからである。
 二人は大浴場から帰って来るとしっかり用意されていた豪華な御膳の前で向かい合って座っていた。その横、出入り口に近いところで竹中さんが口元に笑みを浮かべ、両手の指三本畳につけ、それではごゆっくりどうぞ、と言って叩頭した。
 なんかおかしいと言えば、女将姿だった竹中さんはちゃんとした男物の着物に着替えていた。それがまた似合っているから佐助はそのギャップにも戸惑う。ここはコスプレ旅館なんだろうかとかあらぬ疑いも抱いた。
「あ、そうそう、食事が済んだらそこの電話でダイヤルしてくれれば片付けに来るよ。それじゃあ」
 と、さっさと仰々しい態度を崩して出て行った竹中さんは、終始訳知り顔をしていたが、別に二人の仲を勘繰っているわけでもないだろうと、そういうことにしておいた。
 政宗が手を合わせている。ああ、と気付いて佐助も倣った。
「いただきます」
「…いただきます」
 吸い物を啜り、刺身をいただき、縮緬やら漬物やら豆腐やら、いかにも京都らしい食事を黙々と食べた。普通においしい。政宗を見やるが、特に不満らしい顔もせず、同じく黙々と箸を進めていた。どうやらお気に召したらしいとわかるのは、普段外へ食べに行くと、初めて行く店には大体一言二言苦言を残すからだ。
 変に視線を感じた政宗は眉を顰めた。
「なんだよ」
「……あ、えーと、…。先生の料理のが、おいしいなー…って…」
 ん?そんなこと思ってたのか俺?と、なんとなく出た自分の言葉に疑問符を浮かべていると、政宗は箸を止めてなにやら微妙な顔をしていた。あまり見たことのない顔なので、佐助は首を傾げて、どしたの?と聞いたが、返事はなく、視線を逸らされる。
(んん?)
 珍しいので、佐助は若干しかめっ面になりながら穴の開くほど政宗を見つめた。
「せんせ、もしかして、てれてませんか、むぐっ」
 凄い勢いで口に突っ込まれたのは、女性に大人気、湯葉の塊だった。
 後に佐助は語る。あん時、胸から変な音がしたんだよねー、と。

 追加で頼んだピザを運んできたお姉さんがとびっきり美人だったことで復活した慶次は、大分細かい部分は省いているはず佐助の話がなかなか進まないので、焦れてきた様子だった。これまでの話をまとめると、結局一行で済んでしまうのである。
「で、先生と京都行って変な女将にびっくりしつつ、平和に楽しくお風呂と食事を済ませて、どうしたの」
 そう、肝心なのはこの先のはずだ。好き合っている男と女もとい、男と男であったとしても、睦まじい二人旅の夜と言えば、やることは一つだ、というのが慶次の認識であった。
 古風な家柄ゆえに、めったに洋食を食べることが叶わない幸村は意外にジャンクフードが好きらしく、ここぞとばかりにとろけるチーズのかかったピザを幸せそうに齧っている。齧りながら、言うのであった。
「あとは寝るしかなかろう」
「そう、寝るしかないよ!」
 佐助は思った。この二人の言葉の後ろにはそれぞれ、「次の日に備えて」と、「次の日どうなろうと」と、続くはずであると。ふう、と息を吐き、思い起こす。食事を済ませ、片付けを呼ぶと二人は、
「散歩に出ました」
「……散歩?」
 クソ暑いんじゃなかったの、という至極冷静なツッコミが入る。

 それが、案外山中とあって、夜風は冷えていたのだ。冷房が若干効きすぎていた感もあって、少し篭った具合の空気が、なんとも気持ちよかった。
 旅館の入り口を階段で降りると、山の麓を一望できる展望台のような、柵で囲われたスペースがある。そこから右手に歩くと旅館が手を入れている石畳に覆われた緑豊かな庭がライトアップされており、左手を少し行ったところが車道であった。
 庭が案外見ごたえがある、とのことで、政宗から佐助を連れ出したのであった。同じ目的らしい人影もちらちらいたのだが、そこまで広い庭ではなく、ひとしきり見終わると大体が捌けていった。最奥にくると小さな池と、石造りの長椅子がある。
 やれやれと座って、政宗は持参した団扇を扇いだ。視界は狭いが、そこからも京は見下ろせた。ちらちらと明滅する明かりが、一際綺麗である。豊かな緑を苗床に、鈴虫がここぞとばかりに鳴いていた。それが佐助には今、
(ああ、鈴虫も頑張ってる……)
 と、妙な親近感を覚えてならない。だからどうというのではない。別に佐助が頑張らねばならない道理はこれっぽっちもないのだ。が、このむやみやたらと「らしい」雰囲気を持つ庭で佐助は、
(なんかしなきゃいけないような、気になってくる……)
 のである。
 昼間歩いたのはあの辺りだろうかと当たりをつけながら眼下に広がる夜の都を眺め、佐助は腕をぼりぼり掻いた。草場があり、水場もある、蚊がいないわけがないのだ。うーん、と考える。
「あのさー…せんせ?」
「ん?」
 ちらと顔を向けた政宗は、団扇を佐助に寄越した。貸してやる、というのだろう。素直に受け取っておいて、ふと佐助は政宗が今夜一滴も酒を飲んでいないことに気が付いた。以前、浴びるほど飲んでも足りないほど、な様子だったにも関わらずだ。
(あー…さすがに気遣ったんだろうなあ……)
 ぱたぱた団扇で首元に風を送りながら、そういう変に生真面目なとこ、好きだなあと思う。
「今日俺、そんなにはしゃいでたかなあ」
「……ああ、だってお前、いつもは傍観者気取ってるだろ。…つーか、自分のために動かねえっつうか?人が楽しんでることに楽しみを見出すっつーか……んん?あ、いや違うな…それは大分前のイメージで……」
「……ああら珍しい……」
 政宗が言葉を濁し、違うな、そうじゃなくて、と言いながら頭を抱えている。佐助は思わず笑った。そもそも、政宗が佐助について語ることなど滅多にない。これは聞き出さねば損だ。そんで?と覗き込む。
 あ、わかった、と突然顔を上げた政宗にびくっとした。そーだそーだと頷き佐助の顔を指差す。
「かわいい」
「……はいい?」
「だから、そうやって素直に喜んではしゃいでるのが」
 いい子だいい子だと、政宗はまた佐助の髪をぐしゃぐしゃ撫ぜた。これはなにか、政宗の癖のようなものらしい。いつも通り撫ぜられていた佐助は、そういう話だったろうかと思いながらも、告白した時のような「今」だ、というタイミングを感じて、やおら、撫ぜている方の手首を掴んだ。
「先生」
「あ?」
 キスしよう、という呟きが落ち、それからは虫の音だけが響いた。

「破廉恥であるぞ佐助ええええええええ!!!!!」
「そーだそーだ破廉恥だー!!!やーい!!!」
「なんなんだよあんたら!!うるっさいなあ!!」
 大声で叫んだと思ったら、慶次はおもむろに幸村の横へのっしと移動し、ピザで油まみれの手をとり、
「幸村」
「む?」
「キスしよう」
 と言って、口を近づける。
 うわあああ!!と慌てて立ち上がったのは佐助であった。恥ずかしさと幸村の危機、両方が混ざった叫びであったろう。テーブルに腰が引っ掛かり、グラスが倒れるのも構わず、佐助は慶次を引き剥がしにかかった。だめだめだめ旦那はまだけがれを知らないんだからー!!という剣幕である。幸村もこれは、なぜ俺がお前ときききききすをせねばならぬうう!!!と、本気で腹に蹴りを入れた。さしもの慶次もこれにはまいったらしく、呻き声をあげてその場に蹲った。
 そうして落ち着いたボックス内は、しばし、青年たちのはあはあ荒い息で満たされた。テーブルの上は最早酷い有様である。慶次の割ったグラス、零れたジュース、散らばるポテト、累々。
 そのうち誰かが、なにやってんだ俺達、と呟いた。

 最初は触れるだけであった。そのうち、政宗のほうからさらに深く、口付けてきた。それに煽られるように、佐助も応える。そしてなんとなく、
(……アメリカ人、っぽい……)
 と思った。キスの仕方を他と比べられるほど佐助が経験豊富であるわけではなかったが、何度も、
(食われる)
 という感覚を覚えたほどである。政宗はやさしくなかった。噛み切れないものを噛もうともがくように、佐助の口を吸い続けた。先に息を切らして、ふと顔を離し、はあ、と息をついたのは佐助の方であった。それでもまだ政宗は佐助を追って、ぺろりと下唇を舐め、すると佐助は身体が芯から震える思いをした。
 離れた舌が、ち、と音を立てた時、佐助は頭の中の線かなにかが、切れたと思った。思うと、掴みっぱなしだった政宗の手を離さずそのまま立ち上がり、力のままに引っ張った。
 バランスを崩しながら石畳の道を引っ張られていく政宗は、さすがに抗議の声をあげたが、佐助は聞かない。否、聞こえなかったらしい。
 手をつないだまま宿に戻り、それを竹中さんに目撃されても素知らぬ振りをした。半ば走るようにして部屋に辿り着 き手早く扉を閉めると、無理矢理引っ張られて息も整わない政宗を部屋に押し込めるように背を押し、真新しい布団の上へどさりと雪崩れ込んだ。二枚敷きの布団はもちろん、食事を片付けてすぐ後竹中さんが用意したものだ。
 電気も付けず、佐助はそれこそ噛み付くように政宗へ口を寄せた。僅かな抵抗がある。しかし、逃れようと政宗が足をじたばたさせて起こる絹の擦れる音すら今の佐助にとっては、
(ひどく、そそる……)
 のである。月明かりがまっすぐに部屋へ差し込んでおり、それのみがお互いの線を確認させた。
 とうとう火がついた若い佐助には、なぜ政宗が今更抵抗を見せるのか、そのわけすら浮ばなかった。
「んん」
 と、政宗にくぐもり声をあげられては、もうたまらず、佐助は思うままに政宗へ手を伸ばした。
 さんざ口を味わった後、浴衣の襟に手をかけると、その手を掴み取られた。構わず続けようとしても、ぴくりとも動かない。そこでようやく佐助は少し冷静になったが、もう片方の手は続けて政宗を弄った。
「……せんせ?」
「さると、び」
 政宗の声は、低く脅しかけるようでありながら、その底に燻った熱を拭いきれていない。近くに感じる息も、信じられないくらい熱かった。佐助が不意に政宗へ触れると、おもしろいくらい簡単に政宗の身体が硬直するのがわかる。佐助の手を掴む力も増したようである。
「……せんせー好きだよー……」
 言いながらもそもそ顔を移動させ、耳とうなじの間あたりへ噛み付いたり、舐めたりした。ぴくりと首元が痙攣するように跳ねる。
「わかった、わかったから、ちょ、と、待て…あ」
「待たない」
 佐助は飽きずに、またキスを繰り返した。待て、といいつつ、政宗も応えてくるのだから仕方がない。このままなるようになってしまうだろうかと思うと、不意に視界が反転した。ひっくり返されたのである。政宗は佐助に跨り、両膝でがっちり腰を挟み込み、動けないようにしてしまった。
 ついでに両手で頬を挟みこまれ、また佐助は、
(あ、くわれ、る、)
 と思った。しかし今度は、佐助の舌を味わうような、ゆっくりしたキスであった。互いの荒い息が、耳に痛い。
 それが終わると、政宗は佐助から逃げるようにして身体を離した。乱れた浴衣を直すのを、佐助はきょとんとして見つめる。
「……せん、せ…?」
「ここまでだ」
「はっ?」
 ちっ、と舌打ちした政宗は佐助の傍に座ると、やはり乱れている浴衣の合わせを、丁寧に直してやった。佐助は政宗の肩に触れて、するする肘まで滑らせた。まだ、触れ足りない。
「……え、な、なんで?あっ、もしかして男同士でもコンドームっている!?俺まさかこんなことになると思ってなくて全然用意してなかったんだけど!!」
 ゴチン!といい音が鳴った。よりにもよって脳天に拳骨である。ったあああ…!と呻く佐助に、
「ちげえよンのアホ!……まあ俺もお前なら大丈夫かと思ってただけ迂闊だったけどな…。あのな、猿飛。お前はあくまで俺の生徒だ。生徒と付き合ってんのはもちろんNGだ。……だから俺ァせめて筋を通したい」
「筋……?」
「そうだ、わかるか」
「え?」

「え?どういうこと?」
 まだ痛むらしい腹を押さえながら、慶次は心底わからない顔をしていた。寸止めなんてそんな生殺し、信じられないのだろう。はー、と息を吐き、佐助は人差し指を出して、いい?と言った。
「要は、やっちゃったら言い逃れできないじゃん、てこと」
「誰に?」
「いろいろ。俺らが今やってることって、まだ言い訳できるんだよ、ばれたとしても。なんせ男同士だし、別に仲よくったっていいだろ、てこと。まあ、それは建前なんだろうと思うけどね。結局付き合ってるのは変わりないし。でも、それでも、先生が通したい筋ってのは、」
「……佐助が生徒である間は、破廉恥な行為はしない、ということか」
 いつの間にかピザを丸々一枚平らげた幸村が得心顔で頷く。平たく言えばそういうことなのだが、
「破廉恥な行為ってか、性的関係って言って欲しいかな……。つーわけで、俺は来年の春までお預けを食らいました、……てえ話」
 佐助としては至極わかりやすく説明したつもりだったのだが、まだ慶次は納得いかないらしく、眉間の皺をもう一本増やして、首を捻っている。佐助はそれでいいの!?と言うのだ。
 にしっ、と歯を出して、佐助は笑った。

 蛇の生殺しとはよく言ったもので、先生の好意でトイレには行かせてもらったものの、一度その気になった昂ぶりがそうそう易く鎮火されるはずもなく、佐助は布団の中でうーうー呻いていた。うるせえなあと言われる。
「だってあんたさ、そんなんはじめっから言っといてくれれば俺だってさ……」
 と、こういうことをさっきからぶちぶち繰り返している。時計の針は既に零時を越えたのだが、まだ佐助も政宗も、寝付く様子はなかった。
「だからお前なら大丈夫かと」
「なにその過信?そりゃ、この半年そういう素振り見せたつもりはないし、実際考えてもみなかったよ。だって俺はさ、」
 口をつぐんだ佐助を訝ったのか、政宗はごろりと身体を反転させて、横になったまま佐助と向き合った。なんだよ、と促されても、素直に答える気がしなかった。先生といっしょにいられるだけでよかったから、とは、行動を起こしてしまった後、なんとうそ臭い台詞だろうか。
 なんとも言い切れないもどかしさに、佐助は布団を被りなおした。
(あんなキスしといて)
 寸でのところで逃げるなんて、本当に反則だ。キスを仕掛けたのは佐助だったが、それを増長させたのは明らかに政宗の方だったのである。それに政宗とて、夢中になって、感じていたのではないか?
 佐助はそれをふと思う。そうだ、最初からする気がなかったにしては、部屋に入ってからのあの抵抗の弱々しさはおかしい。それはもしや、
「……先生もしかしてやめたくなかった?」
「はっ!?なんでそういう話になんだ!」
 ほらおかしい。佐助はちらりと布団の隙間から覗いた。半ば身体を起こした政宗はそれにぎくりとして、ばつが悪そうにまた反対を向いた。それが、それこそ佐助には、
(かーわいい……)
 意外の、なにものでもなかった。その事実がわかると、こころがひどく満たされていく感じがした。慶次の言う、「なぜ政宗先生が佐助を好きか」の理由など、わからなくてもちっとも支障ない。
「もしかして、先生のが我慢してたんだねー。偉いねー。そうだよねー、まさか先生から手ェ出すなんて、できないもんねー。あーもうひとりで抱え込んじゃってかわいいかわいい……」
 それにそもそも、生徒という立場である佐助を受け入れるのに、迷いや、覚悟がなかったわけがないのだ。佐助はそのことにも気付いた。そうすると、これまでの政宗の行動の端々がすべて、佐助にはたまらなく嬉しい事実だった。
「お前な…」
「好きだよー。うん、俺、先生好きだわ」
「猿飛」
「またキスしようね先生」
 なにか言いたかったらしい政宗はしかし、途中でどうでもよくなったらしく、頭をぼりぼり掻くと、ああ、と小さく言った。俺も、好きだ、と続き、佐助は、もういつ死んでもいいような気がしたが、せっかくなので来年の春までは生きながらえよう、と思った。
 後にこの二人が、どちらが上になるか下になるかで盛大に揉めるのは、また別の話である。