濃先生!という元気な声が音楽室に響いた。
 訪問者は前髪を一つに束ねあげた小柄な少年、森蘭丸である。濃はにこりと微笑んで、ピアノを弾いていた手を止めた。眩しい笑顔を返す蘭丸はスキップするように濃の傍へ寄り、グランドピアノの上で腕を組み、顎を乗せた。その様子は見るからにご機嫌もいいところ、背景に季節外れのひまわりの一つや二つ背負っていそうな雰囲気である。
「なにかいいことでもあったの?」
「伊達政宗をぎゃふんと言わせてやった!」
 邪気のかけらもなく白い歯を見せる蘭丸を、濃は怪訝に見つめた。あの一癖も二癖もある伊達政宗先生を、蘭丸が敵視していることは知っていたが、まさか、そう簡単に政宗がぎゃふんと言うはずもないと思ったのである。
 そうなの?一体なにをしたのかしら?と出来る限り優しく尋ねると、蘭丸はへっへっへーと自慢げな様子で、事の顛末を話してくれた。蘭丸の誇張的表現を取り除いて端的に言うと、
「どうやら伊達政宗と生徒の猿飛佐助はデキてんですよ。その噂を流してきたところなんです!」
 だそうだ。どうも穏やかではない。
「そんなこと、どうやって知ったの?」
 蘭丸は急にむすっとした。が、それは別に濃に対してではなく、どうやらその質問が思い出したくないものを思い出させたようで、蘭丸はぼそぼそと、
「保健室で聞いたんです。猿飛佐助が伊達政宗のこと好きなんだって、話してるのを。本人が言ってたんだから間違いないですよ、ざまァ見ろ、これで伊達政宗もお終いだ」
 さてつまり、今しがたその話を聞き、噂を流してきたと言うのだから、まだ政宗はぎゃふんとは言っていないだろう。だがそのテの噂というものは、いつの時代も伝染病のように恐るべきスピードで広まってしまうものなのだ。私が学生の頃もそうだったわ、と思い返しながら、濃は溜息をついた。
 いつもは短い休み時間を有意義な会話で満たそうとする蘭丸は、蘭丸としては至極気分のいい仕事をやってのけた後だというのに、その時はそのまま低テンションだった。

 季節は十二月上旬、冬真っ盛りである。今年も暖冬になるだろうというニュースのお告げを裏切るかのような冷たい風の吹き荒ぶ平日の昼休み前、濃は休憩室に備え付けてあるポットから、インスタントコーヒーを入れた持参のカップへお湯を注いでいた。
 お世辞にもふかふかとは言い難いソファへ腰を下ろし、恐る恐るコーヒーへ口をつけ、熱さが喉を通りすぎ胃まで落ちると、ほっと肩の力を抜いた。
 濃はつい最近武田高校へ配属された、臨時教員である。以前まで音楽を担当していた教員の一人、今川義元先生が踊りすぎで腰を痛めたとかで、しばらくの代理が必要となり、暇を持て余していた濃へ白羽の矢が立ったのだ。濃は歴史の織田信長先生の妻でもあった。数年前に教職からは退いていた濃に、
「お前がやれ」
 と信長が言ったのだった。断る理由も見つからなかったので、週に二回、二年生の音楽の授業を見ていた。週二出勤なので、気侭なものである。
 だから同じ学年を担当していても、ほとんど政宗とは接点がない。
 しかし傍目に見ているだけでも、政宗がその見た目や普段の食えない言動とは裏腹に、これ以上ないくらい教師らしい教師であること、すなわち生徒に対して非常に真摯に接している事は、よくわかる。それが、同性に好かれてしまうほどだとは、思いもしなかったのだが。
 濃はまた一口コーヒーを啜った。蘭丸の様子を見るに、猿飛佐助という生徒が政宗を好きだ、というのは真実に聞こえたが、誤解ということもある。しかしその辺りの真相はさして重要ではない。
 問題は、それを「真実」だと確信している蘭丸が、すでに噂を流してしまったことだ。
 蘭丸がそんなことをする理由としては、先に述べた通り政宗への異様な敵意があるが、その大本の理屈は極めてシンプルで、苦笑してしまうような代物だ。
(いつきちゃんが、政宗先生を好きだから、ね)
 濃は昔からいつきをよく知っている。森家と織田家は同じ団地に住んでおり、所謂ご近所付き合いというものを続けている。特に蘭丸が濃と信長に懐いた、というのが、付き合いを持続してきた大きな理由だ。いつきと蘭丸は幼馴染だから、自然濃もいつきと親しくなった。濃は武田高校に勤め始めてから足繁く音楽室に通ってくる蘭丸はもとより、いつきのことも、意識せずとも気にかけていた。
 すると、非常にわかりやすく、いつきは政宗のことが好きだった。そしてまた蘭丸も、濃にしてみれば手に取るようにはっきりとわかりやすく、いつきが好きなのだ。構図はこれ以上なく明確に濃の頭に描かれていた。
 蘭丸は決して認めたりしないだろうが、つまりは嫉妬だ。
 コーヒーを全部飲み干してしまうと、タイミングを合わせたかのように、休憩室のドアをノックする音が聞こえた。どうぞと答えると、入って来たのは家庭科の前田まつ先生だった。極自然な微笑みを湛えて会釈をすると、まつはやはり備え付けである冷蔵庫を開け、中からプラスチックパックに入った五、六個のお弁当を取り出し、よいしょと抱えた。
 お弁当は全てまつの手作りで、毎日一定数購買部で販売している。親が忙しいか怠惰かなんらかの理由により昼を購買で済ます生徒たちにとって、この数量限定美人家庭科教師の手作り愛のお弁当は非常に好評であり、お昼のチャイム後数秒で売切れてしまうという、ちょっとした武田高校の名物だ。ちなみに販売作業自体もまつが行うので、手渡ししてもらいたい男子生徒は増える一方なのだとか聞いた事がある。
「いつも大変ね」
「いいえ、犬千代先生と慶次の分の方が多いくらいですから、これくらいなんてことはございませぬ」
 幸せそうに細められた目元が、とても愛らしい。濃は釣られて笑んだ。まつは同僚の体育教師、利家先生と数年前に結婚している。以後始まったこのサービスらしい。
 ひょいとまつの手元を覗き込むと、お弁当は唐揚げをメインにしたバランスのいい品目であった。赤と緑のプラスチック串の彩りが目に止まる。
「そういえば、もうすぐクリスマスだったわね」
「終了式に向けての準備にかまけて、私たちは忘れがちでございますから、ね」
 ぱちんとウインクされる。気分だけでもクリスマスモードに入ろうという気らしい。
 そんなことを言いながらも、前田家では甥も含めて盛大にクリスマスパーティーが開かれるのだろうと考えながら、濃は昼休み開始のチャイムが鳴るのを聞いた。あら、急がなくては、とせかせか休憩室を出て行こうとするまつを、ふと思って、呼び止めた。
「はい?」
「今日、生徒たちの噂話とか、あなた聞いていないかしら」
 突拍子もないかと思ったが、生徒が絡むと真剣になってしまうのはこの家庭科教師も同じ事であった。ええと、そうですね、とか言いながら天井を見上げしばし考え込んでいたまつは、そろそろと顔をおろした。
「そういえば、学内に、その…同性愛者がいるとか、なんとか。女生徒が休み時間に話しているのを、たまたま聞いたのですけれど」
 具体性は失われているが、すさまじい浸透率だ。濃は礼を言ってまつを見送ると、再びソファに深く座り込んで、しばし考えに耽った。

 今にも涙が零れそうな顔をしたいつきがふらふらと職員室に舞い込んできたのは、その日の放課後であった。いつもならこの時間、蘭丸が音楽室へ遊びに来るので、今日も同じように向かおうとしていた矢先、濃は視界の端にそんないつきが政宗の席へ辿り着き、なにごとかを話しているのを捉えていた。
 政宗はすぐに場所を面談室に変えた。が、もともと親しい仲であるだけに、気になって仕方がなく、なんとなく机へ戻り、様子を伺っていた。数分だったか数十分だったか、とにかく体感では随分時間が長く感じられ、いっそ不躾を承知で面談室へ乗り込んでみようかと思案し始めた時、政宗が部屋から出てきた。そして濃を呼ぶ。
「……私?」
「ええ。ちょっと、来てくれませんか」
 なぜだろうと戸惑いつつ、政宗と共に面談室へ入った。長テーブル一脚と折りたたみ椅子が数脚あるだけのシンプルな面談室のテーブルを挟んだ向こう側、窓を背にしていつきが小さくなって座っていた。濃の姿を認めると、どことなくほっとしたようではあるが、その顔はなにか、申し訳なさに滲んでいた。
 この時、ほんのわずか、針で指をちょんと突かれた程度の、妙な引っ掛かりを覚えた。
「一体、どうしたの?……いつきちゃん?」
 思えばいつきとまともに話すのは随分久し振りのことである。いつきの小さな口の代わりに、政宗が答えた。座るよう促され、はじまった話は非常に心当たりのあることだった。
「今生徒の間で流れてる噂、濃先生は知っていますか。……まあ知らないとしても、いずれ知ることになるでしょう。俺のクラスの生徒の一人が俺のことを好きだとかいう、くだらないモンなんですが。問題はそれが事実で、しかも噂が流れたのはいつきとその生徒が喋っていたところを誰かが聞いていたせいだと、いつきが確信してることでね。責任を感じてるんだそうだ」
 随分な言い草だ、と思う。濃は当事者であるにも関わらず、まるで他人事のような口ぶりの政宗にちょっと気分を悪くしながら、そうなの、と頷いた。それなら、政宗がいつきを慰めてやれば話は済む。部外者を巻き込んだのは、もしかするとそれだけではないのだろうか。
「まさか、噂を流した本人を探そうとでも言うの?」
「それは無駄だな。もう流れちまってるモンは仕方ねえ」
 それを聞いて少しばかり安心してしまったのは、どう控えめに見ても蘭丸への贔屓としか言いようがなかった。蘭丸に非があるとはいえ、濃にはまだ子供ができないせいか、小さい頃から見知っている蘭丸への可愛さが、どうしても先立ってしまう。
 そんな安堵を悟られないようにしたが、さすがにいつきの様子にも胸が痛む。そういえば昔から責任感の強い子で、中学でも高校でも、率先してリーダーシップをとっていると、いつか蘭丸から聞いたことがある。(単なるでしゃばりなんですよ、うっとおしー、という言い草ではあったが)
「大丈夫よいつきちゃん、黙っていれば噂なんてすぐに消えてしまうものよ。噂の対象になってしまった子には可哀想だけれど、冬休みになればみんな忘れるわ。だからあまり気に病まないで」
 いつきは緩慢に濃を見上げ、なにか言いたげに口をもごもごさせていたが言いあぐねたらしく、返答のつもりか、微妙に首を上下させた。
「先生、……ごめんな」
 いつきは政宗に言った。いいや、と真面目に答え、政宗はいつきの頭を撫ぜた。
(……そういう行為が、相手に誤解を抱かせるんじゃないかしら…)
 と、ちらと思った。いつきはほんの少し頬を上気させ、緩く笑んだ。が、頬が赤いのはどうやら照れのみではないらしいと、濃は先ほどから気付いていた。
「いつきちゃん、熱があるのね?」
「あ…うん、ちょっと。…今まで保健室で休んでたんだけども、さっき、お迎え呼んでもらったから…」
「無理すんなよ。ゆっくり休め。もう一度言うが、俺やあいつに申し訳ないなんて思うなよ。お前は別に、間違ったことをしたわけじゃねえんだからな。……たかが噂だ」
 いつきはまた頷き、ほぼ同時に軽やかな電子音が室内に響いた。いつきの両親から連絡が入ったらしく、いそいそと携帯で二言三言交わしたいつきは、そんじゃ、ありがとう、ごめんな、と言って部屋を後にした。
 濃は椅子に座ったまま動こうとしなかった。なぜなら、まだなぜ自分が呼ばれたのか、理由を聞いていないからだ。わざわざ慰めの言葉を言わせるためだけに、呼びはしないだろう。案の定と言うべきか、政宗は先ほどまでいつきが座っていた側へまわりこみ腰掛けると、真正面から濃を見据え、
「大体、予想はついてるんですけどね」
「お話は聞くわ。ただ、どうしてかしら、私あなたに敬語を使われるのがすごく気に入らないの。どうせなら生徒と同じように接してくれないかしら?」
 政宗は初めて笑んだ。まるでいいカモを見つけた詐欺師のようなうさんくさい笑顔だ。
「噂の発信源、なんだが」
「あら、無駄なんじゃなかったの?」
「いつきが責任を感じてることに対しては、無駄だな。だがちいと噂が悪質なもんでな。考えてもみろ、たまたま聞いたおもしろい話を、そのままおもしろ半分にダチに話すなんてのは、高校生にはありふれた話だ。けどいつきがそいつと話をして、すぐにこの噂が広まった。有り得ない早さでな。しかもいつきの話じゃ、二人は相当深刻に話してたらしい。それをためらいもなく言いふらすってのは、そいつがよっぽど良識に欠けてるか、俺かそいつに痛い目見せてやろうって悪意を持ってるかのどちらかだろう。あるいは両方かもな。あんたはどう思う?」
「少し考えすぎじゃないかしら。それで?あなた、一体どうしたいの?」
「俺が聞きたいことは一つだ」
 政宗のほの暗い一つ目は、その奥に妙な自信を揺らめかせていた。
「濃先生、あんた、よく音楽室で森蘭丸と会ってるだろう。なにか聞いてねえか」

 結果から言えば、濃は蘭丸を庇い立てしなかった。蘭丸の行いを濃は咎める事ができなかったが、かと言って肯定しているわけではないのである。要するに、下手に蘭丸を叱って、「嫌な大人」という汚れ役を買って出た結果、蘭丸に嫌われる可能性を恐れ、勇気が湧かなかったのだ。
 卑怯だとは思いこそすれ、それも情の一つの形なのではないかと自己弁護してしまうのも本当だし、とはいえそれを正しいとも思っていないので、政宗に問いかけられ、濃はあっさり聞いていると答えた。
 猿飛佐助くんが、あなたを好きだって言ってるって、言いふらしてきたって、ね。
 政宗は別段驚いた風でもない。最初から蘭丸を疑ってかかっていたのだから当然だろう。一つ大きな溜息を吐き出し、椅子に背を凭れさせ、頭をがしがし掻いた。そうしているとまるで態度の悪い学生だ。
「あんたがそれを聞いて蘭丸に何も言わなかったことを、どうこう言うつもりはねえ。だが結果的には、蘭丸の都合の悪いことになっちまったかもしれねえってだけだ」
「蘭丸くんの?どうして?」
 反省させて、人間的に成長させなければならないと、模範的な教師らしい弁でも返ってくるかと思えば、政宗はどこか苛立った調子で、
「あんたは気付いてないのか?」
 と言った。一体なんのこと、と問い返そうとすると、その場にとんでもない人物が扉を乱暴に開けて入ってきた。二人はその姿を見て岩のごとく固まってしまった。無理もない、今一番この場にいてはいけない人間だからである。
「濃先生、こんなとこにいた!」
 そんな人物は一人しかいない。森蘭丸である。ひまわりのような笑顔が、太陽からそっぽを向けて、萎れたようにみるみる皺を寄せた。もちろん、目当ての濃の正面を政宗が陣取っていたからである。

 濃は反射的に立ち上がり、今すぐにでも何か罵声でも飛ばしかねない勢いで口を尖らせた蘭丸へ駆け寄ると、ごめんね蘭丸くん、と言って肩を掴み、くるりと小さな体を反転させ、一緒に面談室を出た。その去り際ちらりと政宗を見たが、不機嫌そうに蘭丸の背を睨んでいた。どうやらこの中身は模範的な外面の悪い教師も、生徒を憎々しく思うことがあるらしい。
 と思っていると、政宗は濃へ視線を移し、ひょひょいと手を動かして、何かを伝えようとした、らしい。口元も大げさに動いている。咄嗟に読み取ったのは、
(い、つ、き)
 の三文字だった。言いながら、政宗は蘭丸を指差してしかめっ面をしていた。
 なんのことやらわからない。後で聞こうと思い、さっさと廊下へ出た。
 政宗の奇妙なジェスチャーも気になるので、蘭丸には悪いが今日のところは早々に帰宅してもらおうかと口を開きかけた時、
「何を喋ってたんですか、あいつと。『蘭丸』って、言ってませんでした?」
 すたすた先を歩く背中を見せながら、憮然とした声が言った。最後の部分を聞かれていたらしい。大好きな先生と大嫌いな先生が自分のことを話していたらしいとくれば、蘭丸でなくとも気になるだろう。だがそんな好奇心ゆえの質問に、うかと答えるわけにはいかなかった。
 ふと思い、かぶりを振る。違う、好奇心ではない。
(……様子がおかしい。なにか、おかしいわ……)
 こんな不自然な蘭丸の様子は、これまで見たことがない。なにが不自然かと問われると困るが、濃はこれまでの経験上、女の勘というものにある程度の信頼を置いている。その勘によると、蘭丸の言葉の裏側に、心の内に、好奇心以上のなにかもっと重大なことが潜んでいるように思えてならない。
 蘭丸は立ち止まり、振り向いた。いつもは生き生きと輝くビー球のような瞳がもどかしげで、不安定な色をしていた。濃はどきりとして、年の割りに小柄な少年を見返した。
「仕事の話じゃないんでしょ?蘭丸に、言えないことなんですか?」
「……あなたに言っていいのかどうか、私にはわからないわ。だったら言うべきじゃないと思うから、言えないの。でも、私は……」
「伊達政宗になら、わかるんですか?」
「蘭丸くん」
「なんでみんな、あいつなんですか。先生まで、こそこそして。あんなやつ、いなくなっちまえばいいんだ。イライラする。みんな嫌いだ、あいつも、バカ猿も、……いつきも!いなくなっちまえ!」
 最後は叫ぶようだった。蘭丸は頭をかかえてその場に蹲った。まるで、なぜ自分がそうしているのかすらわからないような、戸惑った叫びだった。幼い頃から蘭丸を知る濃には、それがよくわかった。蘭丸は、なんだかよくわからない、わけのわからない、奇妙なものに心が押しつぶされそうになっているのだ。
 たかだか女の勘と言われればそれまでだ。しかし蘭丸は蹲ったまま小さく呟いた。
「もう、わけわかんねえ。なんで、………苦しいよ、先生」
「……蘭丸くん、私は……」
 私はあなたの味方よ。
 そんな思いを込めて、そっと蘭丸の肩に手を置いた。

 噂は程なくして消えた。噂の中心である猿飛佐助がその日から土日を含め六日間風邪でダウンし、そのまま冬休みに突入してしまったこと、政宗が気にする素振りもせず普段と変わらぬ態度を平然と取り続けたことによって、生徒たちの興が削がれたのだろう。
 蘭丸の陰謀は図らずも成功しなかったわけだが、これでいつきの心苦しさも無くなったはずで、濃としてはその事実に対してほっとせずにはいられなかった。
 それはともかくとして、目まぐるしかったのは終了式までの数日間である。濃の頭の中に描かれていた相関図がまるごとひっくり返るような出来事で、理解に多少の時間を要した。
 土日を挟み、生徒たちの大半が憂鬱を覚える月曜日はまだ静かなものだった。猿飛佐助もいつきも仲良く風邪で休み、濃としてはいつきに確認したいことがあったためにわざわざ予定外に出勤してきたのだが、お流れにせざるを得ない。
 ついでに言うと、蘭丸も休んでいた。あの傲岸不遜な蘭丸も思春期の少年であり、人並みに落ち込むことがあるのだ。
 仕方がないので政宗に面談室でのジャスチャーの意味を直接聞こうとしたのだが、どうも手ごたえがなかった。前述した通り教室ではこれ以上なく教師らしい教師でいた政宗は一旦職員室に入るとどこかぼんやりした様子で、常にぴりぴりした雰囲気を持っている政宗にしては、非常に珍しいことだった。
「昨日のことなのだけど」
「……ああ」
「一体私は何に気付いていないのかしら?」
「……ああ、別に、もういいんじゃねえか?本人たちの問題だろう」
「本人たちって?」
「……だから……。いや、そんなに気になるんなら、聞いてきたらどうだ。結局、蘭丸次第なんだからな。俺もそこまでは面倒見切れねえ。甘やかすのも結構だがな、あいつが自分で気付いて、自分でケジメつけるしかねえこともあるんじゃねえか?」
 事務員の片倉小十郎という、どう見ても一度は刑務所のお世話になっていそうな男をはじめとする、妙な組織力をバックに持っているとわかっているせいか、「ケジメ」という言葉を曲解してしまいそうだった。
「いくつか違和感はあるの。確信はないのだけれど。蘭丸くんと、昨日少し話したわ。蘭丸くんは、なんだか自分の行動に気持ちがついてきていないみたいで…噂を流したことを反省する以前の問題ね」
 政宗はどこか上の空で溜息をきつつ、眉間を指で押さえた。
「頭が痛え」
 風邪だろうか。実を言うと濃も先日から気分が優れず、予定外出勤をしようかだいぶ迷ったのだ。どうも憂鬱気味な政宗を相手にするのを諦め、濃は自宅へ戻った。

 その翌日、火曜日、欠席三人組のうちで登校してきたのは、肉体的には唯一健康である蘭丸であった。もっとも憂鬱さ加減では政宗の比ではなく、ついでに機嫌最悪オーラも発しており、そんな危険物体にわざわざ近寄るような猛者はクラスにいなかった。濃は火曜と木曜に出勤してくるので、朝の休み時間に音楽室へ寄るのも蘭丸の日課のはずだったが、その日は結局一度もピアノを中断されることがなかった。
 大体予想していた展開ではあったので、濃は自ら蘭丸を訪ねることにした。昼休みに蘭丸の教室を覗くと、目当ての人物は机に突っ伏していたのでツンとつついて起こす。上げた顔にははっきり疲れの色が見え、同情を禁じえなかった。
「おはよう蘭丸くん。お弁当は?」
「……あ、忘れました」
「そう、じゃあかえってよかったわね。まつ先生のお弁当を、特別にわけてもらったの。私一人じゃ多いし食欲もあまりないから、一緒に食べましょう。よかったら、音楽室で」
「でも……うん、…わかった、一緒に食べよう、濃先生」
 どことなく不安と安堵の混じった声である。
 音楽室の鍵を開け、手早く机を引っ付けて濃はさっそくクリスマスカラーをあしらった栄養面でも非の打ち所の無いお弁当を広げ、持参したハーブティーを入れた魔法瓶を取り出して注ぎ、蘭丸に渡した。
 湯気の立ち上るいい香りのするお茶をこくりと一口飲んだ蘭丸は、勧められるままにハム入り玉子焼きを齧った。憂鬱な空気は変わらないものの、とげとげしい雰囲気は消えている。
 さてどう切り出そうかと思案していると、蘭丸の方から、
「……なにか話があるんでしょ?」
 と、様子を伺うように恐る恐る言われた。濃はなるべく不安を取り除くよう、穏やかに笑んだ。
「確認したいことがいくつかあるわ。でも別に、あなたを叱るつもりはないの。私はあなたの味方だもの。ただ、いい方向に導いてあげられるなら、そうしたいだけなの。それだけはわかって」
 蘭丸は静かに頷いた。その様子だけ見るならば、殊勝な子供の目をしている。
「今日の様子だと、もう噂を広めようとはしていないのね?よかったら、その理由を教えてほしいのだけれど」
「……だって」
 蘭丸は両腕を組み、姿勢悪く机へ乗せると、背中を丸めた。
「あいつ、全然堪えてないみたいだし。昨日はどうだったか知らないけど、平然としやがって。……だから、もう無駄だと思って。……猿飛はまだ休んでるし。みんな、もうあんまり話題にはしてないみたいだし。だったら、全然、意味ないじゃないですか。俺はあいつをぎゃふんと言わせたかったのに。……あと、」
「少しだけ、後悔してる?」
「…………あのタイミングで、先生とあいつが俺のこと喋ってるとしたら、…このことくらいしか、思いつかなかった。濃先生があいつと関わってこそこそするなんて、蘭丸は許せません。だったらもうどうでもいいんです」
 若干捻くれた理由と思わないではないが、なんにせよ噂が断絶されるに越したことはない。濃は自分を好いてくれているという気持ちだけには喜びを感じながら、話を続けた。
「蘭丸くんの言ってることは、大体間違ってないわ。……そこまで考えていたなら、政宗先生と話していたことも話せるわね。でも、その前に大切なことを聞くわ」
「……大切?」
「そう。ねえ蘭丸くん、私はあなたの性格はよくわかっているつもり。きっとその性格のせいで、蘭丸くんは今苦しいのだわ。だから、できるだけ正直になって。私にだけは、本当のことを言ってちょうだい」
「……………」
「あなたは、いつきちゃんのことを、好きなのよね?」
 大いなる間があった。蘭丸の中で葛藤と逡巡があり、意地とプライドがひしめき合っているのだろう。
 が、やがて蘭丸は諦めたように、小さく頷いた。それで濃には充分だった。
「でも、濃先生の方が好きですよ」
 拗ねたように蘭丸は付け加えた。

 それから濃は、政宗先生と話していたのは蘭丸の予想通り噂についてであったこと、その原因として、いつきが責任を感じて政宗に相談を持ちかけたこと、だから結局は噂が消えた方が蘭丸にはよかったことを、順に説明した。
「だって、蘭丸くんはあんなこと…消えろ、なんて言っていたけれど、いつきちゃんが傷ついて嬉しいはずはないものね。ましてや蘭丸くんが犯人だなんて、知られたくなんかないでしょう?」
 蘭丸は終始、黙って濃の話を聞いていた。下手に頷きたくないのかもしれない。
「いつきちゃんが……政宗先生を好きだから、蘭丸くんはそれが気に入らないから、目の敵にしてしまうのよね。多分、それがもやもやの原因だと思うのだけれど、違う?」
 この質問にだけは、蘭丸は奇妙な反応を見せた。間違っていると否定するだけの材料はないが、なにか肝心なものを忘れてしまっている。味噌汁の具は揃ったが、味噌がどこにも無い、そんな微妙な感じを、濃も感じ取った。やがて蘭丸は小さく首を振る。
「あいつが気に入らないのは本当ですよ。間違ってないです。でも、いつきは……。あいつのこと話したりするのは気に入らないけど、でも、それはもう、いいんです。そうだ、それはもう、よかったんです、蘭丸は。いや、よくはないし、態度だって変えてませんし、だから噂だって流したけど、でも……だって…。……ごめん、先生。濃先生にも、これだけは、言えない」
 疑問符を浮べざるを得ない。政宗が気に入らないことが原因で噂は流したが、それがもやもやの原因ではない、というのだろうか。別に一つの感情が全ての理由になるとは思っていないが、となると濃の推察が甘かったのか、それとも濃の知らない事情があるのか。
 どうやら後者が濃厚な線らしいが、蘭丸がこれだけはっきり「言えない」と言う以上、濃が追求できることではなかった。
「じゃあ、猿飛佐助、という子?」
「それは…。あいつとバカ猿が組んでるってのが気に入らないんです。前、バカ猿が聞いてきたんですよ。『いつきと付き合ってるのか』って。普段俺に絡んできたりしないくせに、いきなり。あいつの差し金だろうとは思ってたんですけど、その猿が、あいつのこと好きだって…しかも、めちゃくちゃ真剣っぽく言ってるの聞いたから、むかむかしてきて。別にあいつらがどうなろうとどうだっていいんですけど、その場にいたいつきが…なんか、」
 蘭丸はちらと濃を見て、苦虫をつぶしたような、ちょっと見ると泣きそうな面持ちで、「こんなこと言うの、本当に濃先生だけなんですからね」と呟き、続けた。
「なんか、……泣きそうで。あいつを、応援するから。ふざけんなって、思って」
 それだけ搾り出すように言うと、蘭丸はしばらく口をつぐんだ。恥ずかしいのだろうが、濃はそれよりも、自分がもしかすると蘭丸のほんの上辺だけしかこれまで見てこなかったのではないかと、驚愕していた。
 蘭丸が不器用な形でではあれ、人の感情の機微にこれほど敏感に反応し気持ちを動かされているという事実が、あまりに新鮮だった。濃のような、至極近しい人間を除いてではあるが、人の痛みや悲しみを理解するという当たり前のことが、蘭丸にはこれまで欠落していると思っていたのである。だから政宗が噂の発信源に対して使った「良識に欠けている」という言葉も、さほど違和感ではなかった。
 だが、それは間違っていたのだ。蘭丸はきちんと、濃の見ていないところで人間らしく成長していた。誰かを好きになるという、至極当たり前の感情を通して、驚くほど優しい少年になっていた。ただ、少し人よりも不器用で、鈍感で、やり方を間違えてしまう。ただそれだけだ。
 今すぐ抱きしめていい子ねと言ってあげたい衝動と、自然と込み上げてくる笑顔を抑え、濃は本題に戻った。猿飛佐助に関しては大体のところはわかった。理由がなんであれ、いつきを悲しませる人間に対して蘭丸がいい感情を抱くはずはなく、それが政宗関連であれば尚更なのだ。
 だが、それが全てではない。その証拠に、まだすっきりしない。まだ、なにかあるはずであった。
 政宗に関して、猿飛佐助に関してはわかった。消去法を使うまでもなく残るのは一人だ。
「蘭丸くん、よく考えて。どうして、あんなに苦しかったのか、わかるはずよ」
 最早重要なのは、なぜ噂を流したのかなどではない。蘭丸の中に渦巻いている様々な感情を一つ一つ紐解き、自分で理解することを手助けするのが、濃の目的だった。そういう意味で、濃は蘭丸の味方であろうとした。蘭丸は、自分の気持ちにすら鈍感で、それに押しつぶされそうになってしまったのだ。それがわかる以上、手を差し伸べるのは当然のことだった。蘭丸にもそれは伝わっているはずだと、濃は思っていた。
 果たして蘭丸は、たっぷり時間をかけて、一つの答えを出した。また濃は、首を傾げることになる。
「ここ最近いつきの様子が、おかしくて、だから……」

 翌日、水曜日の朝。政宗の憂鬱は日増しに深刻になっている様子だったが、それは職員室限定のことらしかった。らしかったというのは、実際濃が政宗の授業を見る機会などなく、蘭丸から間接的に知ったことだからだ。早速薄れかけている噂など歯牙にもかけず、堂々とカリスマ教師を演じているそうだ。違うことと言えば、普段より英語の使用率が少しばかり高いということくらいだ。
 そんな話を聞いているから、余計職員室での憂鬱さ加減が目につく。ぼんやりして溜息を吐く場面をよく目撃するし、他の教師と会話していてもどこか上の空だ。
 なんとか体調を持ち直し、図らずも連続出勤している濃は、適当なところで元親先生を捕まえて訊ねた。
「政宗先生、最近なにかあったのかしら?」
 なにやら授業で使うらしい備品を運んでいた元親は、突然の美人教師の質問に気をよくしつつもその内容が政宗についてであることに若干残念な気持ちを抱きつつ、
「さあな。変な噂もあったらしいが、そんなことで落ち込むタマだったらもっと学園は平和だと思うぜ。……まあ、ここ数日目に見えて変っちゃ変だけどな。私生活でなにかあったんじゃねえか?」
「私生活……」
「別に気にしないほうがいいぜ。あいつはあいつで結構複雑な事情抱えてるからな、薮蛇かもしれねえしよ。大体あいつのことを聞くなら、小十郎さんのほうが適役だろ」
 元親は言いながら、さっさと職員室を出て行った。
 あの強面の小十郎に訊ねようと思うほど、気になるわけではない。事件らしい事件なら確かにあったが、それよりは元親の言うとおり、私生活でなにかあったと考えるほうが自然だ。
 ともあれ、政宗にはまたひとつふたつ、聞いておくべきことができていた。もちろんいつきに関してである。憂鬱な人間など、親しくなければ出来る限り避けたいものだがそうもいかないので、濃は空き時間にどこか二人で話せないかと持ちかけた。
「午後から病院に行く予定だから、なるべく早くがいいのだけれど」
「丁度一時間目なら空いてる。……そうだな、今の時間なら事務室の奥の小部屋なら使えるだろ。小十郎に言って誰も来させないようにする。どうだ?」
 否を言う理由もない。
 その小部屋とはこれまで無縁だったのだが、どうやら細かい資料を整理して保管してあるらしく、狭い室内に本棚がひしめき合って結構な圧迫感があった。そこに背もたれもない小さな木椅子を二つ持ち込んで、スペースを探して座った。なんとなくお互い正面で向きあうのは避けた。
「では、政宗様。俺は隣におりますので、ご自由に」
「ああ。Thanks、手間かけるな、小十郎」
 No problemと言いたげに、忠臣っぷりを具現化したような微笑を湛えつつ、小十郎は事務室へ引っ込んだ。だが政宗はあまり乗り気でないのか、足を組みなおすと、適当に並んだ資料へ目を移ろわせていた。ついでにアンニュイな雰囲気も漂わせている。いよいよ重症らしいが、蘭丸のようにその感情を紐解いてやろうという気にはならない。
「蘭丸くんの問題は、ほぼ解決したわ」
「……へえ、たいしたもんだ。ほぼ、な?」
 さすがに洞察力は折り紙付きだ。そう、全ての問題の理由は判明し、これからいくらでも改善できる。しかしたった一つ、蘭丸にも濃にも、わからない事項ができた。
 いつきの様子がおかしい。それが、蘭丸の思い当たるもやもやの最大原因だ。
「だから困ってしまって。あなたなら、なにか知ってるんじゃないかと思ったのだけれど」
「...Are you okay?」
「……なにかしら?」
「I think you can notice about such a thing...easily. Don' you?」
 訳すならば、『あんたならこの程度のこと簡単にわかると思ったんだがな、どうなんだ?』といったところか。言いながら政宗は不機嫌さを隠そうとしない。英語も早口もいいところ、相手は純粋な日本人なのだから、少し気を遣ってもらいたい。
「蘭丸くんはいつきちゃんが好きよ。そしていつきちゃんは、あなたのことが好きだわ。あなたの言った『蘭丸くんに都合の悪いこと』は、これが理由なんでしょう?結果論として、蘭丸くんがいつきちゃんを傷つけたことになるんだもの。結び付けられなかったのは迂闊だったわ。でも、それくらいのことは最初から気付いてたのよ。舐めないでもらいたいわね」
 政宗の奇妙なジェスチャーの意味も、そのように捉えた。蘭丸が、いつきを好きなのだと。ことの発端は、この事実に帰結するのだ。
 だが政宗はアンニュイオーラを消さないまま、拍車をかけるように溜息を吐いた。
「You are right. ...But, just a half」
「英語はやめて」
「半分正解、半分間違い」
 投槍に言った。半分正解、半分間違い?
 さっき述べた事実の前者は、最早疑いようもなく真実である。本人の口から聞いたのだから間違いない。だとしたら、後者が間違っているというのか。いつきが政宗を好きではないというのか。
「言ったろ、結局は本人たちの問題だ。俺ら部外者がどうこう言って解決するもんじゃねえ。あんたのやったことは間違ってねえよ。蘭丸が救われたんなら、俺だって素直に喜んでやる。だが、いつきの様子がおかしい理由だったか?俺が言っちまうのは簡単だが、どうもあんたが自分で気付いたほうがいいと思うぜ。わからねえんなら、大人しくしていろ。他人が介入しておかしなことにしちまうことはねえさ」
 ここまで言われてはさすがに腹が立つ。濃にも言い分はあった。
「じゃあ、最初から私を巻き込んだりしなければよかったでしょう?直接蘭丸くんを問い詰めればよかったのよ。私と蘭丸くんの関係を知ってて、私が介入しないだなんて思っていたわけじゃないでしょう?矛盾だらけだわ、あなたの言っていることは。大体おかしいわ、だっていつきちゃんはあんなにも……」
 はっとして、濃はしばらく理解するのに時間を要した。半分間違い。
「……告白、されたのね?いつきちゃんはもう、あなたのことを諦めているのね?」
 政宗は間髪入れず、
「その前にあんたの論に突っ込ませてもらう。言ったはずだぜ、蘭丸を問い詰めても仕方ねえとな。大体俺が聞いたところであいつが答えると思うのか?あいつにとって俺は最大級の不信任者だぜ。あんたを巻き込んだのはな、濃先生。もちろんあんたと蘭丸の関係を知ってたからで、あんたならあんな道徳に反したことする蘭丸をいい方向に向かわせられると思ったからだ。事実、あんたはそうしたじゃねえか。蘭丸は、あんたの話ならまともに聞くんだ」
 一息つき、政宗は急にアンニュイオーラを取っ払い、どきりとするほど強い眼光で濃を見据えた。
「……俺がいつきに告白されたかどうかなんぞ問題じゃねえ。いや、問題には俺がしない。あんたならそうするべきだと思うだろう」
 首を傾げさせる暇も与えず、最後に政宗が放った一言は、ますます濃を混乱させた。
「ここまでは教えてやる。いいか、いつきが好きなのは、蘭丸だ」
 あとは自分で気付け。そう言って政宗は立ち上がった。そしてドアノブに手をかけながら、また妙な言葉を落としていく。
「……そうだな、俺はあんたに興味があった。それがあんたを巻き込んだ最大の理由かもしれねえ。あんたになら、俺は……いや、これはことが済んだら言う。俺から言えるのは、それだけだ」

 翌日、木曜日。どことなく倦怠感を漂わせ、つつがなく終わった終了式という行事の放課後、濃は再び小十郎に計らってもらい、ようやく登校してきたいつきと事務室奥の小部屋で対面していた。通知表を受け取り、友達と見せ合いっこをしているところを捕まえたのである。
 ブラインドの下りた小窓から、うっすら日が差していつきの顔をほのかに照らしていたためにわかり辛かったが、まだ顔色はあまりよくない様子である。
 それを差し引いたとしても、いつきは確かに様子がおかしかった。濃と目を合わせようとせず、ずっと俯いている。蘭丸から聞くにいつきがおかしいのは、
「話しててもどことなく機嫌が悪いって言うか…しょんぼりしてるって言うか、それにすぐ怒るし。喧嘩なんかするのはしょっちゅうでしたけど、でもこんなに慢性的に険悪になるのなんか……なくて。クラスじゃ特に変ってことはないんです。女どもとは普通に喋ってるし。だから」
 ということらしい。
 そこに政宗から教えられた驚愕の事実(かどうかは正直まだ疑っているが)を加えれば、自ずと一つの推測が立てられ、しかもその推測によって、蘭丸といつきをめぐる問題の殆どはすっきり解決されてしまう。だが解決への具体的な方法の段になると、また濃は頭を抱えた。
 これは確かに蘭丸といつきの問題であり、自分たちでなんとかすべきことなのである。
 しかし偶然か幸運かなんの示し合わせなのか、濃は丁度昨日、非常に有効に使える手札を手に入れた。直接的すぎず、またいつきにも溌剌とした笑顔が戻るはずの、スペードのエースだ。
 濃がいつまでも微笑みを湛えたまま話を切り出さないので、訝ったいつきは恐る恐る、
「あの……なんの用だべか。おら、なんかしちまったっけか……」
「あら、私、そんなに怖い顔をしてる?」
 ふるふると首を振る様が本当に可愛らしく、ますます頬が緩む。切り札は、濃にとってもこれ以上ない喜びを運んできた。だから濃は内緒話をするようにいつきへ顔を近づけ、あのね、と囁いた。
 いつきの目が驚きと喜びに、大きく開かれる。

 昨晩、濃が病院から帰ってからのこと、ついでに夕飯の買い物をしてきた濃だったが、その必要がなかったことを悟った。本当にとてつもなく珍しいことに、信長が台所に立っていたのである。
 驚きのあまり濃はその光景が信じられなかった。頭の古い人ではなかったが、これまで男子厨房に入らずを頑なに守り続けてきた夫が、ぐつぐつ煮える鍋を前にしてお玉を使い、味見なんかしている。まさか、夢だろうと思った。
 気付いた夫はふいと振り向き、若い頃から変わらぬ切れ長の眼を細めて濃を見た。
「濃」
「……ただいま帰りました。あの……ありがとうございます。まさか、夕飯を用意していただけているなんて……。でも、どうして……?」
 濃は更にびっくりした。
 信長は柔らかく微笑み、そしてそれで充分だと言わんばかりに鍋へ向き直り、もくもくと夕餉の準備を進めたのである。その手際のよさがまた意外で、そういえば独身のころは、信長も一人暮らしをしていたのだったと今更思い出した。
 なにもかもわかっているのだと、濃にははっきりわかった。昔から、そういう嫌いのある人だった。
 こちらから何も言わずとも、ほんの僅かな変化や兆しを察し、それに合わせて行動する。生徒に対する威圧感や圧倒的な存在感の裏側に、そんな繊細な部分を持ち合わせている信長だから、濃はこれまでずっと寄り添ってきたのだ。
 言葉はもしかするといらないかもしれない。だが、濃はどうしてもこの一言だけは告げたかった。随分長い間望み続けながらも、手に入らなかった一つの形の切れ端を、ようやく濃は掴み取った。
「先生」
 温かで広い背中へ手を伸ばす。そして、額を押し付けた。信長は何も言わない。
「私、子供ができたの。先生の、子供が……」
 泣きそうになる感情を背中に託すようにしばらくそのままでいて、どれほど経ったかわからないが、濃は確かに信長が小さく呟いたのを聞いた。
 よくやった、と。

 おめでとう、おめでとう、ほんとに、おめでとう、先生。掴んだ手をぶんぶん上下に振りながら、いつきは泣きそうな笑顔で喜んでくれた。濃もついその歓喜に流されて、うっかり涙しそうになった。
 いつきも、昔からよく遊んでくれた姉のような存在である濃が子宝に恵まれるのを、今か今かと待ち望んでいた人間の一人なのである。
 頬を赤らめつつようやく落ち着きを取り戻したいつきは、堰を切ったように、あふれ出す感情をどれから伝えればいいのか戸惑うように、いろいろなことを話してくれた。
「おら、先生に、謝んねえと……この前から、ずっと先生にも変な態度取ってて、ごめんな、ほんと、ごめんな。許してけれ。おらが、アホだったんだ。ごめんな、ごめんな……」
「ううん、いいの。気付かなかった私がいけないの。ね、いつきちゃん、言いたい事、たくさんあるんでしょう」
 いつ泣き出すかと思っていたいつきは、濃にこう言われて、ぐいと袖口で目元を拭った。そして飛びつくように濃を抱きしめた。
「うん、いっぱいある。おら、先生に嫉妬してたんだ。だって先生が学校に来てから、あのバカ、先生にべったりなんだべ?すごく嫌でもやもやぐるぐるしてて蘭丸と先生の仲、ちょっとでも疑ったりして、でもおら、それ、言えなくて。おら、最初からわかってたんだ。蘭丸がおらのこと好きだって。でなきゃ、一緒に帰ったりしね、て。なのにおら、言えなかった。だっておらも、同じ事してたんだ。自分がされて嫌なこと、蘭丸にずっとしてた。でもおら、その時は政宗先生が好きで、そんなの構ってられなかったんだ。でも、でも、今はな、おら……」
「うん。みんな、わかってるわ」
「わかってるんだな?先生は、みんな知ってるんだな?」
「ええ、そうよ。あなたの様子がおかしいから、それで蘭丸くんが悩んでたことも、みんな知ってるわ」
 濃の肩を涙で濡らしたいつきはようやく離れ、泣きはらしても可愛らしい顔をちょっと傾げた。
「あのな、先生。こんなこと言ってもバカみたいだって、わかってんだけど、でも、おら気付いたことがあるんだ。あのな、おら、昔すごく悩んでて、学級委員をうまくやれねくって、それで、蘭丸に相談したんだ。政宗先生じゃなかったんだ。おら、一番最初に悩み聞いてほしいって思ったのは、蘭丸だったんだ……」
「……そう。言ってあげなさい。きっと喜ぶから」
「ほんとに、ごめんな、先生。おら、蘭丸にも、謝りて……。政宗先生にも、いっぱい迷惑かけちまった。みんなに、一杯謝りて……。おら、さるとびにも、余計なこと言ったんだ。偉そうなこと言って、おら、やっぱり政宗先生が、今でもちょっとは、好きなんだ。おら、こんな自分がすごく嫌で、嫌で嫌でたまんなくて、どうしようもなかったんだ……」
 濃はいつきの頭を優しく撫ぜた。大丈夫、と以前慰めたように言う。
「大丈夫。いつきちゃんは、すごく優しくて、女の子らしくて、素敵な子だわ。私が保証してあげる。だって、だから蘭丸くんも、あなたを好きになったんでしょう?ね、もう大丈夫よ。蘭丸くんは、私が嫉妬しちゃうくらい、あなたのことが好きなんだもの。きっと大丈夫。みんな、いつきちゃんが大好きなのよ」
 いつきは今度こそ本当に、涙をきらきらさせながら、誰もがとろけるような満面の笑顔を濃に向けて、力強く頷いた。濃はぎゅうっと、力いっぱいいつきを抱きしめた。
「先生、おら、きちんと蘭丸に言うだよ。まだ、無理かもしんねえけど、いつか絶対言うから、先生、応援、しててけれな……」
「あら、それじゃ、もうしばらく蘭丸くんには我慢しててもらわなきゃいけないわね。そのかわり、あんまりイライラさせちゃ、だめよ。あの子、自分の感情にすら、鈍感なんだから」
 大丈夫だ。今度はいつきが言った。濃はその時本当に、いつきなら大丈夫だと思った。弱さを見せられるようになったいつきに、もう怖いものはないはずだ。そしてそれは、蘭丸だってそうなのだ。だから後は二人に任せて、見守ればいい。
 濃は、いつか二人が手を繋いで歩き、その横に赤ん坊を抱く自分を、夢想した。

 あと一つだけ、どうしても気になることがあった。
 冬休み、信長の「家にいろ」という一喝のもとで大人しく自宅へ篭っていた濃は、それでも年越しを向かえ、信長の買ってきた食材をふんだんに使いおせち料理をこしらえ、新年を有意義に過ごしていた。珍しく雪が降ったのもご愛嬌である。窓の外を頼りなげにちらちら降り続ける雪は、地面に落ちる前から溶けているから積もりはしないだろう。
 年中行事を済ませるうち、冬休みは終わる。そして三学期も終了したら、濃はもう学校へは行かないつもりだった。産休を取ってそのうち復帰してもよかったが、年度が変わるころには今川先生の具合もよくなりそうなので、いい区切りだろう。
 だからなるべく早く知りたい。と言っても、政宗の言う「ことが済んだら」が一体いつになるのかわからないので、濃にはどうにもできないのだが、それでもなんとなく予感はしていた。
 政宗の憂鬱は、猿飛佐助が休み始めた時期とぴったり一致する。それだけではない。いつきの言葉からしてみても、濃には、どうも猿飛佐助にはなんらかの希望があるのだとしか、判断できなかった。そしてそれが本当なら、政宗が言っていたことも符合する。
(……ただの勘、かしらね)
 どちらにしろ近いうち、政宗から報告なりなんなり、あるはずであった。政宗は気まぐれではあるが、適当な人間ではない。なんらかの意図があるに、違いないのだ。
 雪がびゅっと勢いを増した。その昔のこの時期、夫に付きっきりで勉強を見てもらっていたことを思い出した。

 冬休み終了から数日後、果たして濃は真相を知った。が、それは政宗からではなく、意外なことに接点のほとんど無い猿飛佐助によってであった。
 それは濃の担当する音楽の授業後のことである。ふと魔が差したと言うべきか、濃は前田慶次や真田幸村たちと雑談しながら教室へ戻る佐助を呼び止めた。
 これまで殆ど話したこともないとびっきりの美人教師に呼び出され、特に悪い気はしなかったらしい佐助は、へらへらした笑みを浮かべながら、なんですか?と首を傾げる。ここまでは普通の高校生男子と比べて遜色無い。どちらかと言えば、濃とは全く無縁なタイプである。
 だから不躾に訊ねるのは気が引けてしまった。とは言え呼び出してしまった手前、何か言わなければならない。濃はなんでもないようにぽつりぽつりと世間話を持ちかけた。主に成績のことを引き合いに出しながら話を進めると、案外佐助はソツなく返答し逆に話題を引き出し、非常に話しやすい。
 笑顔はなんとなく上っ面のもののような気がしたが、それでも爽やかめのすっきりした顔に微笑まれ、同級生にはさぞやモテるだろうと思った。
「それが、そーでもないんスよねー。俺みたいなのって、軽いとか思われてるんじゃないですかね」
「あら、そうなの?付き合ってる子もいないの?」
 ここへ来て佐助は濃を試すような目つきをし、しかし微笑みは絶やさずに少しつっけんどんに、
「先生、俺になんか用事あったんじゃないんスか?」
 と言う。その口元も弧を描いてはいるが、あまり人のいいものではなかった。なるほど、へらへらした上辺の裏には、二面性が潜んでいるらしい。趣味が悪いんじゃないだろうか、と思う。しかしそういう態度に出られると濃もやりやすい。二面性はお互い様である。
 真似るように、人の悪い笑みを浮かべた。
「政宗先生とは、その後どうかしら?」
 直球すぎてどうかと思ったが、正直佐助に関しては他人事すぎるので、好奇心が勝つ。意地悪そうに笑っていた佐助は濃の言葉が脳みそまで染み渡ったのか、急に真顔になった。否、きょとんとしていた。かと思うと、頬に朱がのぼった。めまぐるしい。しかしその反応だけで充分すぎる。
「……あら、うまく、いってしまったの」
「……か、勘弁してくれませんかねえ……。俺、もうこのパターン嫌だ……」
「嫌だついでに、教えてちょうだい。どっちからなの?」
 あからさまにぎょっとして、佐助はおもむろに教室内を見渡した。次が昼休みなので、残っている生徒もいなければやってくる生徒もいない。
「安心して、他言したりはしないから。悪いけれど、あなたの気持ちは誰よりもわかるつもりよ」
「え、ええ……?なんスか、それ。あの、ちょ、ちょっと待ってくれますか」
 手で濃を制した佐助はぱっと振り返り、ポケットから携帯を取り出し、どこかに電話をかけていた。相手は大体想像がつく。しばらくごそごそ喋っていたかと思ったら、濃に聞こえるほどの笑い声が、突然携帯から響いてきた。職員室か、どこか個室で大笑いしているであろう憂鬱の吹飛んだ政宗が目に浮ぶようだ。耳を押さえつつ反駁する佐助は必死だ。
「あんたなあ!少しは俺の身にもなってよね!?何度も何度も知らない人からこんな、……え?いやいやいや、そうだけどさ、えっ、ちょ!違うって!あーもう!…………は?…………うん、うん。……あー…え?そ、なの?……え?そなの!?嘘ォ!?」
 叫びつつ佐助はちらと濃を見た。その内容も大体わかる。にこりと笑んでやると、へらりと笑い返された。なかなかおもしろい人間であることは間違いないらしい。
「…………あー、なるほど……うん、うん。はあ……あのさ、俺薄々わかってたけどさ、先生って結構性格悪いよね。うん。…………え?む、無理!無理です!ふざけんなよ!ん?え、あー!そうなんだ!へえ……うん、よかったじゃない。え?あっ、…………あー、うん……了解。うん。じゃね。うん、日曜日。うん」
 はあ、と大きな溜息をついた佐助は、盛大に笑いを堪えている濃を見つけた。
「…………まあ笑うなって言う方が無理?」
「ふっ、ふふ、そうね……ううん、でも今ので、なんとなくわかったわ。そう、あの人が選んだのね、あなたを」
「え?違う違う。あの……告白したのは、俺から」
 濃は顔を上げた。それはちょっと意外だった。しかししばし思案し、政宗ならやりかねない、と思う。
「……それで?許可は下りたってわけなのね?政宗先生のことだもの、どうせ私のことは調べ上げていたんでしょう?そうね、小十郎さんあたりを使って」
「……まあ、大体ビンゴです。やらしいよねえ。おお、こわ。んでも……そっか、先生も、なんだ」
「ええ。だから言ったでしょう?よくわかるわ。例えあなたが男の子でもね。……そう。でも……あなたならきっと、大丈夫だわ。選ばれたんだものね。自信を持っていいわよ」
 佐助は理解しているのかいないのか、またきょとんとして濃を見ていた。そうやって黙っていれば、可愛げもある。濃にしてみれば、政宗も可愛いものだった。不思議と怒りは湧いてこない。
 うまいこと全て丸く収まってしまったせいでもあるのだろうが、少なくとも政宗がいい加減な気持ちで生徒に手を出したりはしないと、わかっているからだった。いつきのことを問題にはさせないと言った声音も眼差しも、そう簡単には忘れられない。だから佐助は、自信を持っていいのだ。むしろそうでなければ、それこそいつきに怒られようというものである。
「……濃先生?」
「ううん、なんでもないわ。それだけ聞けたら充分。なにかあったら、私に言うといいわ。微力だけれど、力になれるはずだから。……大切になさいね」
 優しく微笑まれ、佐助は今日初めて真剣な顔をした。その胸の内に、うずまくものも様々であろう。なにせ教師と生徒という障害付きどころか、男同士なのだ。しかしそれでもと言うのなら、尚更大切にしてほしい。濃は心から、そう思う。
 佐助は多分素顔で、幸せそうに、
「濃先生も、お幸せにね。…おめでとう」
 と言って、音楽室を後にした。情報が出回るのは早いものだ。いつの時代でもそうだ。

 濃は携帯を取り出した。つい最近増えたメモリーへ電話を繋げる。ツーコール待って、相手は出た。何も言わないのは、さっきの今だからだろう。今度は何だ、と言いたげな沈黙である。
「何だ、はこっちが言いたいわよ。ことが済んだら、と言ったのはあなたじゃないの。それとも私の経験に頼ることなんか無いってことなのかしら?」
 相手は尊大に言う。
『誰も最初から頼っちゃいねえさ。もう少し長引くと思ったんだが、予定外に早く済んじまったからこっちも戸惑ってんのさ。……一応釘刺しておくが、あいつに余計なことは言うなよ。ややこしくなるだけだからな。特に噂のあたりは……いや、あんたは言わねえか。悪い』
 素直に謝った年下の教師を意外に思いながら、濃はピアノへ向かい、ピンと一番高い音を出した。
「戸惑ってる、ね。怪しいものだわ。そうね、あと、これだけ気になってるわ。あなた、佐助くんを使って、蘭丸くんに鎌をかけなかった?いつきちゃんと付き合ってるかどうか、って」
 沈黙が落ちる。どうやら記憶を探っているらしかったが、返って来たのは否定だった。
『鎌なんぞかけなくても、いつきの変化はわかったし、あいつらが付き合ったとしたらそれこそ俺にはわかる。伊達に毎日顔合わせちゃいねえよ』
 あらそう、と軽く流した。それならば、このことは蘭丸に伝えておこうと思った。濃は先ほどのやりとりで、それなりに佐助に好感を持っていた。解ける誤解ならば解いたほうがいい。
『質問は終りかい、Magistrate?』
「そうね、質問は終り。でも苦情が一件あるわ」
 へえ、と政宗は楽しげだ。それはそうだろう、ついこの間目当てのものが手に入ったばかりなのだから。
「……あなたはとっても悪い男」
 私の先生は、告白させたりなんかしなかったわよ?
 携帯の向こうから、ピアノの高音を転がしたような、軽やかな笑い声が返って来た。