十二月二十八日、指折り数えて丁度一週間である。 目覚ましにも母親の声にも規制されない実に素晴らしき冬休みのいつも通りの朝、昇りきっているはずの太陽は霞がかったようにぼんやりしており、窓も白く濁っていた。下の階から大掃除の大詰めに入っているお母さんのどたばた働く音が聞こえてくる。大方換気扇と格闘しているものであろう。 その息子佐助は、一人布団の中でにやっとして、この一週間の間に交わされたメールを逐一見直していた。相手の淡白さはもう慣れたもので、むしろ佐助はその淡白さの中にメール下手な面を見出してやはりにやにやしている。相手とは言わずもがな、学校の担任の政宗先生である。 とはいえ交わされたメールは数通に過ぎなかった。例えばクリスマスイブの朝のこと。 『件名:先生へ〜 本文:ねーねー今日クリスマスイブだよ〜☆今日会えたりする?無理??信幸さんがもう無理矢理休めって言って俺暇なんだけどさ〜;;』 これに政宗は。 『件名:Re: 本文:悪いが無理だ。昨日急に三年の冬期講習に駆り出されることになった。英語教師が不足したらしい。』 メールの文面からは悟られないようにしたが、内心本気でビクビクしながらも勇気を振り絞って送ったメールの返信がこれで、佐助は一気に消沈した。肩を落としながらもなんとかした返事は、 『件名:マジで? 本文:イブに講習って、受験生は辛いね〜。って俺様も来年はもしかしてこうなる??あーいやだ考えたくないわ。…怒らないでね先生♪まあしょうがないか、頑張ってね!』 ほとんど昨日の今日だけにずうずうしいかと思ったのも本当で、政宗の「急に――」という弁がどこまで真実だかわからないが、とにかく佐助はなんらかの繋がりを保っておかないととても冬休みの間をやりすごせる気がしなかった、ゆえのメールであった。 返信してもらえただけ上々と考えるあたり佐助の諦め癖と変に身についた片思い癖はしばらく直らないと見える。が、そんな佐助の小さな杞憂を吹っ飛ばすメールが十分後に来た。 『件名:Re: 本文:悪い。デートはまた近いうちにな。』 佐助がにやにやが最高潮に達するのは主にこの一通である。 メールの利点は保存がきくところなのだと、ほとんど初めて知ったくらいであった。 「佐助!いつまでも布団の中でにやにやしてないで大掃除手伝いなさい!」 と、お母さんが顔をいかめしくして佐助の部屋へ踏み入った時にはもう昼近かった。 「あっ、ちょ、てめえババア!思春期の男の子の部屋にノックも無しに入るとかやめてよね!」 「誰がババアだ黙れクソ息子!近所じゃ『猿飛さんはお若くていいですねえ』って言われるわい!彼女ができたのはいいけどあんまり現抜かしてんじゃないよ!昔のアンタはそんな子じゃなかったわ!お母さん悲しい!」 「うっせえー!!そういうことは察してても言うなよ!!」 倍の声でうっせえ!!と返ってくると同時にバケツと雑巾を投げつけられた。持ち前の反射神経で受け取ったが、佐助と同じく運動神経のいいお母さんのストレートボールに手がじんじんする。同時に、よくこの母親でグレなかったよなあ俺、としみじみ思った。 昼を食べ、換気扇との戦いを終えて満足したらしいお母さんが一息ついて煎餅をバリっと齧りながらワイドショーを見る中、佐助は雑巾でそこかしこを丁寧に掃除していた。ああ面倒臭い、とこれみよがしに呟いてみても事態が好転するはずもなく、幾度目かの溜息を吐いたとき、尻ポケットで携帯が鳴った。 「あ」 政宗である。わっと嬉しさで身体が塗り替えられる一瞬の後、お母さんから避難するため佐助は慌てて外へ出た。木枯らしがびゅうと吹いていた。 「あ、も、もしもしっ!」 『よう。今大丈夫か?』 「全然大丈夫っ。え、えと、なに?どうかした?」 『今なにしてた?』 うわー、恋人みたい、と佐助が頓狂なことを思っていたのは内緒である。 「もー聞いてよー。うちのおふくろってばひどくってさあ、俺って結構親孝行しててさ、普段家のことやりまくってんだよ?弁当も自分で作ってるしさ?だからたまの休みくらいのんびりしたいってのにあの人自分は煎餅齧って息子に大掃除任せんだよ!どう思う?」 政宗は電話の向こうでフッと笑ったらしかった。 『今のうちさ。せいぜい親孝行しておけ。幸せ家族で結構じゃねえか』 「幸せ家族ってアンタ……」 と、ふと政宗の家庭事情が思い出され、口をつぐんだ。政宗は構わず、でだ、と言い出す。 『大晦日の日、出れるか?昼間だけでいいんだけどよ』 「大晦日?そりゃ、暇だろうけど……昼間?除夜の鐘聞くとかじゃなくて?」 『Ah, そういう風情のあることもお前がしたきゃしていいぜ?クリスマスは断っちまったからな』 「……まじですか?」 『ああ。他の日は予定が入っちまってるから無理だけどな。つーわけだ、いいなら朝十一時に本願寺デパートな。駅に一番近いのは…南口だったか?そのあたりで待ってろ』 「……ほんがんじでぱーと」 『ああ』 「え?」 『買出し』 「あ」 おおよそ日本人なら年末年始のデパートの混み具合が異常であることくらいは承知しているものの、改めて目の当たりにすると時節をしみじみと感じざるを得ない。年末だからとてこれといって買うものもない学生身分の佐助であれば尚更である。 政宗は時間通りに悠然とやってきた。先にやってきていて、入り口前で寒そうにしている佐助をツと見て、 「中に入ってりゃよかっただろ」 と言う。万が一にも政宗を見つけられないという自体を恐れていた佐助はえへへと苦笑する。どうもこのベクトルの違いはまだ改善されないものらしく、政宗はごわごわに固まった佐助の頭を撫ぜた。ついでにさりげない仕草で頬を手の甲で掠り、冷てえ、と呟く。政宗の手はずっとポケットに入れていたものか、温かい。 「いやあ、まあ会えてよかったですよ……九日ぶり」 「あ?ああ。そうか、早いもんだな。この年になるとあっという間に日が過ぎるからいけねえ」 「なに言ってんの、まだ若いくせに。えーと、二十六?だっけ?」 「Yes.……九つか。……犯罪、か?」 「あははははー………さあ」 雑談しつつ店へ入り、早々と政宗が向かったのは食品売り場である。本願寺デパートは一応豊富・高級な品揃えで知られるため、佐助のような学生はあまり近寄らない。やってくる階層の違いなのか、近所のなんでもないスーパーのような猥雑な雰囲気はあまりないものの、やはりざわざわと落ち着かない、忙しない人の入り乱れだった。 そんな中を政宗は勝手知ったる場であるかのように淀みない歩みでずんずん進んでいく。人波の方が政宗を避けているかのような不思議さである。ある一店舗で足を止め、店員になにやら話しかける。人声がひどいのでよく聞き取れないが、急に店員は持ち場を離れ、しばらくすると老齢の人物を連れて帰ってきた。なにやら政宗は礼をされている。佐助はぎょっとして、もっと近づこうとしたがやはり人の通りに阻まれた。 それからまたしばしのやりとりがあり、気付いたときには政宗が紙袋を提げており、 「猿飛」 と呼ばれそれを渡された。そして政宗はまた一人先立って人の波を進んでいく。 かくも政宗の人脈が広いことに佐助はなんとはなしにぞっとした。 が、どうやら知り合いがいたのはその一店舗のみだったらしく、あとは普通に買い物を済ませている。いや、正確に言えばちっとも普通ではなかった。ひょいひょいと軽く手に取った品をほいほい買い、増えていく紙袋はなぜか佐助の腕に引っ掛けられていくのだが、佐助がなにより目を剥くのはその品々の値段であった。 「せ、先生!せんせーい!」 見失いそうになりながらするすると人を掻き分け、なんとか横に並ぶ事に成功すると、佐助は思わず政宗の袖を掴んでいた。 「なんだ、へばったか」 「へばりますって!いや、俺様も一応鍛えてるから体力には自信あるけどさ、ちょっとそれよりなんなのさその買い方!?」 「なんなのさってなんなんだ。おい、これとこれを頼む。これは郵送で」 答えながら政宗はまた一品二品購入した。全てカードで済まされているが、佐助の目算だけでももうン万円は使っている。これまでの経験と言っても大概両親の買い物しか見ていない佐助ではあるが、少なくとも教職に就く人にそんなに余裕があるものではないと知っている上、特にお母さんがケチなせいか、これは佐助には信じがたい事態である。 「いや、なんなんだじゃなくって!あっ、また増えた…!せんせえ俺って荷物もち要員!?」 佐助の疑問は最後まで拭われることがなかった。ただ一言政宗が言ったことといえば、「荷物もち要員?」「……半分は」、ということである。 二人が食品売り場を抜け出した頃には時計が一時を指していた。 「俺は……俺は信じられないよ先生……」 「……食わないのか?伸びるぞ」 二人の目の前にはラーメンが並んでいた。政宗は高級嗜好なのかと思えばそうでもないらしく、レストラン街で「ここがうまいから」と佐助をずるずる連れて来たのである。 伸びるのは嫌なので、突っ伏していた顔をゆるりと上げて佐助は手を合わせた。 「いただきます」 「召し上がれ」 二人揃ってずるずるラーメンをいただく。テーブルの下には数を数えるのも煩わしいほど紙袋がどっさり置かれている。健気なことに佐助は全て一人でこれを持って年末の荒波に揉まれ、さすがに政宗にも罪悪感が湧いたものらしい。オプションの卵を勝手に付けたりだとか、チャーシューを一枚ぽいと佐助のラーメンに放り込んだりだとか、そんなことをしていた。 「で、まだなんか買うの…?」 「……安心しろ、これ食ったら一旦荷物は車に置いてくる」 ああそう、と佐助はほっと息を吐いた。なにか間違っている気がしてならない。 「……猿飛?」 急に黙った佐助を訝ったのか、政宗はちょいと小首を傾げて佐助を覗き込んだ。佐助は軽く息が詰まるような感覚を覚えながら、じっと政宗を見た。 「なんだ、怒ってんのか?」 「怒ってない」 「怒ってるじゃねえか」 「俺は先生に怒ったりしません」 「嘘を言うな嘘を。お前何度俺に怒ったと…」 言いかけて、政宗もはむと頷き、思案顔になった。佐助はなにかと思い待っていたが、いつまでも政宗からは反応がないので、仕方なしにラーメンをまたずるずるやった。めちゃくちゃうまい。こってりしたスープと油が疲れた体にはたまらない。 しばらくして政宗もまたラーメンを啜る。無言のまま食事が終了し、ごちそうさまと佐助が言うと、政宗はやおら立ち上がり驚いた事に紙袋を半分持った。そして佐助にさっさと付いて来いと言い、会計もそこそこにさっさと外の駐車場へ出た。手早く荷物をトランクに詰め込み、またデパートへ戻る。その間はずっと無言である。佐助が不安になるのは早かった。 「…せんせ?俺ほんとに怒ってないよ〜?なんか喋ってちょーだいよー…」 また人ごみが激しくなる。政宗は人が押し合いへし合いするエレベーターにさっと乗り込み、遅れそうになった佐助の手をぐいと引っ張った。背中でドアが無事閉まる。どの階へ行くのだか佐助にはわからない。 仕方のないこととはいえ、あまりに密着している状態が気にかかった。告白した夜のことを思い出す。 「……せんせい」 聞こえないくらい小さく呟いて、同じ目線にある政宗の顔を見ると、ニイと笑われた。 その手がしっかり佐助の掌を握り締めている。わからねえからいいだろ?と言われているようで、佐助はしてやられた気分になった。エレベーターの扉がぱっと開いた瞬間その手は離され、政宗が下りる様子なので佐助も急いで後を追う。 「あのー、心臓に悪すぎて俺死にそうなんですけど……」 「そうかそうか。かわいそうにな」 とことこ歩きながら政宗が向かったのは「D」というブランドのアクセサリーショップだった。 なんとなく政宗が好きそうな系統だな、と思いながら、佐助は政宗がふらふら見るままなんとなくディスプレイを眺めた。しかしふと思う。なにも今こんな所を見なくてもいいではないかと。 「なんか欲しいものでもあるわけ?」 ああ、と返事が返ってくる。真剣に品定めする横顔にちょっと呆れつつ、佐助はなんとなく店内スペースの上部、よく目につくところに表示してある「D」のロゴを眺めた。 小さな違和感を覚える。 「……あれ?」 Date Silver。これが通称「D」の正式なブランド名である。男女問わず若者に人気のブランドで、佐助の知り合いにも小遣いはたいて「D」のアクセを買った、という輩はちょいちょいいる。佐助は別に興味もなかったのだが、Date Silverのロゴと政宗を見比べてまたちょっと首の辺りが寒くなった。 「えー……うっそお……」 まさかな。と疑う心は言う。さっきちょっと偉いっぽい人から礼をされていた政宗ではないか、と。そして小十郎のような「守役」を平気で付けられるような人ではないかと。 佐助は恐る恐る尋ねた。 「あの〜…せんせ?俺の邪推かなあって思うんだけど、あのさ、もしかして……」 「おい、ちょっと」 佐助の言葉を聞かないまま政宗は店員を呼び、目当ての品物を取り出してもらった。購入するらしく、レジへ向かう。お前はちょっと外で待ってろ、と指示されてやむなく従った。 いやいやいや、ないない。別の店を見てまわりながら佐助はずっと「ないない」と口先で繰り返していた。 「おい、猿飛」 服を見ていた佐助を政宗が見つけ、ちょっと来い来いと手招きされる。ひょこひょこ向かうと、トイレへ繋がる人気のない廊下で、ほらよと小さな紙袋を渡された。正直今日はもう紙袋はうんざりしていたのだが、そんなことは吹っ飛んでしまう。 「……えーと…?」 「とりあえず一週間だからな。クリスマスとお年玉分だ。…機嫌直せよ、lamb?」 政宗はにこりと笑う。目元は悪戯っぽい。佐助は「D」のロゴが入った紙袋を大事そうに持つと、わざとむっつりして、最初から悪くないってば、と言った。ついでのように付け加える。 「…さんきゅーべりーまっち。…まいてぃーちゃー?…今日誘ってくれたことも、ね」 嬉しそうに佐助の頭をポンと叩いた政宗を見たら、まあ「D」のことはおいおいでいいか、と思った。本人らがデートだと思えばデートなわけで、それに水を差すようなことは慎むべきと判断したのである。真相がどうあれ政宗が自ら危険なことをするはずはない。少なくともこの店舗は安全であってしかるべきだ。 「俺もなんかあげなきゃねー。先生誕生日いつだっけ?」 「八月」 「……遠い」 そんな先まで果たして自分たちはこのままいっしょにいられるのだろうか? 佐助は口にしなかったが、幸せを感じる分、同じ程度の不安をこれからも常に感じるのだろうと思った。 年は暮れ行く。 ちなみに除夜の鐘は、この後うっかりデパート内で鉢合わせてしまった元親と元就、さらには幸村も交えて聞く羽目になったとかいう話である。 |